第6話 氷を掴む人
長谷川部品株式会社には、共有の冷蔵庫がある。
給湯室の隅に置かれた、年季の入った白い冷蔵庫だ。
中には、麦茶、誰のかわからないゼリー、賞味期限の切れたドレッシング。
そして、製氷室には氷。
夏になると、この氷の消費が一気に増える。
営業から戻ってきた人が、マイカップに氷を入れて水を飲む。
現場帰りの人が、氷たっぷりのスポドリを作る。
特別なルールはないけれど、「みんなのもの」という、なんとなくの共通認識があった。
それに気づいたのは、偶然だった。
午後三時すぎ。
コピーを取りに行った帰り、給湯室の前を通りかかったときのことだ。
冷蔵庫の扉が開いていて、誰かが立っていた。
総務の……えっと、名前なんだっけ。
年齢も、役職も、よくわからない人。
その人は製氷室を開けると、素手で氷をつまんだ。
専用のアイススコップは、すぐ横にあった。
社長のこだわりで、氷が取りやすくて、なかなかにかわいいやつ。
ある時、Amazenでも★4.8の高評価で、自宅用にも二つ買ったと自慢していた。
でも、その人は使わなかった。
迷いもなく、ためらいもなく、氷を二つ三つ、指でつまんでコップに入れた。
一瞬、時間が止まった気がした。
指を。
手を。
つっこんだんですよね。みんなが使う、その氷に。
私はしばらくその場に立ち尽くしたが、すぐ我に返った。
声をかけるべきか迷った。
でも、もう遅かった。
その人は何事もなかったように扉を閉め、コップを持って去っていった。
――ああ。
それだけだった。
事件でも、トラブルでもない。
誰も怒らないし、注意もしない。
たぶん、気づいたのは私だけだ。
でも、その日から、誰かが氷を取るたびに、少しだけ考えるようになった。
みんなは、きっと知らない。
次の日も、その次の日も、氷は普通に作られ、普通に使われていく。
誰かが手で取っているかもしれないし、誰もそんなことしていないかもしれない。
確認する方法はない。
ただ、来客用のグラスに氷を入れるとき、一瞬だけ、ためらう。
スコップを使う自分が、少しだけ神経質な人間みたいに感じる。
それでも、使わずにはいられない。
正直、自信がある。
私は、スコップを使って、グラスにぴったり三個の氷を入れるのが得意だ。
形や大きさの違いを瞬時に見極めて、すし職人がシャリをつかむみたいに、同じ重さ、同じ高さに仕上げる。
同僚に
「毎回キレイですね」
と言われたこともある。
たぶん褒め言葉だと思っている。
でも、ほら、共同生活ってさ。
みんなの信頼と常識で成り立っている。
人によって、その範囲が少しずつ違うだけだ。
誰もが気にしないふりをして、でも一度知ってしまったら、元には戻れない。
冷蔵庫の中の氷は、今日も透明で、何事もなかった顔をしている。
――ここには会獣たちがいる。
声を荒げるほどじゃない。
でも、確実に、心のどこかを削ってくる。
私は今日も、スコップを使って、氷をグラスに取る。
デスクには、マイ水筒にたっぷりの氷を持ってきていた。
答えは出ている。
私は使いたくない。
でも、それを周知するのも、「神経質」って言われそうで怖い。
見ざる聞かざる言わざる。
私は少しずつ、猿になっていく。




