第4話 後ろ向きに進む人
営業二課には、ムーンウォーク先輩がいる。
正式には、川村さん。五十代前半。たぶん、マイケル・ジャクソン世代。
朝の廊下で、たまに後ろ向きに歩いてくる。
いや、歩くというより、滑ってくる。
きゅっ、きゅっ、と革靴が床をなぞる。
両手は軽く横に広げられ、視線はどこか遠い。
……また始まった。
最初に見たときは、正直、少し笑った。
二回目で、困惑した。
三回目からは、迷惑になった。
なぜなら、だいたいいつも急いでいる時に限って、現れるからだ。
その日もそうだった。
納品システムの締め切りまで、残り一分。
画面の数字を確認し、マウスを握る手に力が入る。
この一分を逃したら、今日一日が終わる。
いや、明日の朝も終わる。
そのとき、視界の端に影が入った。
――ゆっくりと。
振り向かなくてもわかる。
あの独特のテンポ。
今じゃない。
人生でいちばん、今じゃない。
川村さんは、廊下の中央を堂々と使い、後ろ向きに進んでいく。
ゆっくり。
誇らしげに。
こちらの事情など、一切気にせず。
「おっ」
新人の女の子が、小さく声を上げて笑った。
愛想笑い。
反射的なやつだ。
……笑わなくていいんだよ。
ガン無視しな。
心の中で、私は叫んだ。
川村さんは、笑い声を「ウケた」と判断したらしい。
少しだけ動きを大きくして、くるりとターンした。
きゅっ。
その瞬間、画面の右上で、秒数が変わった。
五九。
六〇。
締め切りが、過ぎた。
私は深く息を吐いた。
川村さんは、何事もなかったかのようにトイレへ消えていく。
彼は悪い人じゃない。
たぶん、場を和ませたいだけだ。
ただ、和ませる相手と、タイミングを、致命的に間違えている。
「……青木さん、大丈夫ですか?」
新人が小声で聞いてくる。
「うん。大丈夫」
嘘だ。
大丈夫じゃないけど、説明するほどのことでもない。
この会社では、こういうことが、日常だから。
――ここには会獣たちがいる。
そして、後ろ向きに進む人は、今日も前を見ずに歩いている。




