天国から地獄へ
石黒は何か大事なことを忘れているような気がしていた。頭の片隅には確かにあった。
実験が順調すぎて楽しくて、それに脳の99パーセントが持っていかれていたためであろう、
その大事なことを忘れていた。
しかし、脳の1パーセントをわずかに占めていたその大事なことが、ある出来事で逆転した。
1パーセントが99パーセントになった。それは、大西教授の奥様とお会いしたからであった。
大事な恩師への報告をすっかり忘れている間に恩師がお亡くなりになられていたことを知った。
当然パニクッタ。石黒はこれまでの人生で経験したことが無いくらいパニックに陥った。
大西教授の奥様は人間離れしていた。さすが変わり者夫婦と言われるほど、大西の死と
石黒の責任を全く結び付けなかった。研究が上手くいっているなら問題ないと、
とても優しい言葉をかけて下さったので、石黒の心は多少救われた。
しかし、そこからは悲劇の始まりだった。
大西教授の逝去で徐々にプラズマ発生装置の使用が制限されていくこととなった。
それまでは月次でプラズマ発生装置の使用申請書を大西教授のサインをもらって提出していたので、
使用したい時に自由に使うことができた。
だが、今はもうその方法が使えない。
全く使用できなくなった訳では無かった。大西教授の下で准教授として隣接する研究室を
任されていた松本准教授が教授になった。石黒は松本教授とはあまり馬が合わなかった。
何故なら大西教授はいわゆる放任主義的な感じで何でも石黒に任せていたので自分のやりたい
ことができたが、松本教授はそれとは真逆の性格だったので、事細かに何でも報告や許可を
要求したからだった。
石黒も抗いながらも、松本教授のやり方には従っていた積りだったが、石黒が行っていた
研究内容の確認という名目である日呼び出された。
それは大西教授のご逝去から約三週間後のことだった。
「はい、それではお手元の資料をご覧ください。こちらは私の研究の博士論文となります。
結論から申しますと、大きな発見が二つございます。
一つは、従来のプラズマ発生装置の触媒に対照実験により、鉱石A、B、Cを使用しまして
その波形から次元の歪みを検出できたのは、鉱石Cの場合のみとなっております。
すなわち、鉱石Cをプラズマ発生装置の触媒に使用することで、特定の次元の歪みが
検出されました。
数値に関しましてはお手元の資料の6ページの数値データとグラフの所をご覧ください。」
と石黒は自身の博士論文としてしたためていた論文の一部を松本教授への説明用に準備し
説明していた。
「ふむ、どうぞ続けて。」
と松本教授はどこか不満げなしかめっ面な表情で今は自分の部下となった石黒の説明を聞いていた。
「では、続けます。
二つ目はこの鉱石Cを触媒としてプラズマ発生装置を使用した際の次元の歪みが、
異空間への扉ではないかという仮説の下に、次元の歪みの安定化、増大化に取り組み、
今では最長で約10分程度かつ300㎜のサイズまでその精度は高められております。
お手元の資料の12ページに数値データがございます。」
と石黒はほぼ虚偽に近い程度に過少報告を行った。
なぜなら、例え今は松本教授が上司になったと言えど、全くもって信用していなかったから
であった。それは慣例的にと言うべきか、部下の研究に教授の名前だけ付けて言わば名義貸しの
ようなことが実際にあったし、教授の名前で研究発表をしないと日の目が当たらないのが
現実だったので、それに甘んじることが研究者の現状だった。
「なるほど、大西教授の下でまあ腹心としていた君だから、それが大西教授の遺作とも言うべき
研究だったのだろうね。ご苦労さまでした。」
と松本教授は、石黒から受け取っていた資料をポイっと突き返すと目で退席の合図をして入口の方に
首を振った。
「え、ど、どういう意味ですか?」
と石黒は松本教授に食って掛かった。
まだ詳細の説明は全くしていなかったし、資料もほとんど目を通すこともされなかったからだった。
「そういうことだよ、私は大西教授、あ、元だね、元大西教授の研究には興味が無いし、
実験室も装置も数が限られてるから、有効に配分すべきなんだよ、
これまでは大西教授が独占していたけど、これからは私の判断で使用許可を配分するから、
そのつもりで。こないだ君からもらった申請書は残念ながら許可できないからね。」
と言うと、今度はハエでも払うかのような手付きで石黒を教授室の扉の方へ追いやる仕草をした。
石黒は頭が真っ白になりながらもここは冷静になって退室できた。
石黒は落胆した。
今までのような研究が出来なくなってしまうことは明白となった。
とりあえず、現状を共同研究者である学部生の井口に告げなければならなかったので、
自然と自分たちの今使用している研究室に戻って来た。
そこには餌を待ちわびる忠犬ハチのような井口が居た。
「石黒先輩、どうでした?」
と井口は単刀直入に聞いて来た。
「はあ、申し訳ない。君を誘い込んだ俺のせいだ。井口君どうしよう。
もうこれまでのような研究ができなくなりそうだ。」
と石黒は意気消沈しながら、か細い声で答えた。
「やっぱり、松本はああいう奴ですから、分かってましたよ。俺のことは心配いりません、
卒論はもうほとんど書けてますから。学士の卒論なんて深くは誰も求めてませんから。」
と井口はあっけらかんとしていて、石黒を慰めているようにも思えた。
「まあ、ちゃんと卒業できるなら、それはそれで良しとすべきだね、井口君の言う通りかもね。」
と石黒は他人への被害は最小限に抑えられそうな気がして少し安堵した。
「そうですよ、それより何よりこんなに楽しい実験ができたのも石黒先輩のおかげなんですから、
自分を悪く責める必要はありませんて、残されたプラズマ発生装置の使用時間の限り、
やりたい実験を絞ってやっていきましょう。」
と井口は石黒を元気づけた。
「確かに、井口君の言う通りだ。しょぼしょぼしててもしょうがないや。井口君は何も考えてない
フリをしてて、よく考えるんだねー。」
と少し元気を取り戻した石黒が冗談っぽく井口に言ったので、
「石黒先輩、俺がバカって言ってるようなもんじゃないすかー。」
とやや強めに先輩の肩をポンっと叩いて笑って見せた。
叩かれた石黒もぜんぜん悪い気がせず、一緒に笑った。
こんなに笑えたのは久しぶりのことだったろう。
それからプラズマ発生装置の使用できる回数が残り3回程度となっていたので、
実験項目を絞って石黒と井口は実験に取り組んでいた。
「今日は、重たい鉱石の収集は無しにして、植物類を中心に採取してきます。
こちらからは日用品を持って行って向こうの大気中での変化を調べる予定っす。」
と井口は大きめのリュックサックタイプの袋を担いでプラズマ発生装置の歪みの向こう側へ行く
直前の確認を行っていたのだった。
リュックサックの中には、ペットボトルの水やカップラーメン、いつものコンビニで買った
お弁当、布製の軍手、金属でできた物の代表として1円玉、五円玉、十円玉、100円玉の硬貨を
準備し、他にも研究室に長きに渡って使用されていなかった古いタイプの顕微鏡や双眼鏡、
ガラス製品の代表としてビーカーやシャーレやスポイドなど、なるべく多くの素材を持ち込んで、
一定期間後に回収して、その組成の変化などを調べることも今後の実験計画に含まれていたから
だった。
「予定通りだ、頼んだぞ、井口。」
と今では最も信頼の置ける共同研究者となった井口に石黒はいつもの出発前の確認と合図を行った。
石黒はプラズマ発生装置の操作盤に移動し、歪み発生のために必要な操作を行っていた。
いつも通り順調に次元の歪みは現れた。プラズマはいつもの通り目を開けていられない程の光度を
放っていた。その安定性が確認できたため、石黒は操作盤の前を離れて、井口の様子を見に
行くことにした。
全てはいつも通り順調だった。その男が現れる前までは。
「プシューン。」
と音を立ててプラズマ発生装置の実験室内の全ての電気が落とされて真っ暗になった。
「おーい、まじか。」
と石黒は叫んだ。辺りは真っ暗だったのでいつもの出入りしている実験室の扉を探した。
ようやく、実験室の外に出ることができた。
「石黒君、まだ大西の実験続けてたんですか、もう終わるように言ったはずでしたが。」
とそこには意地悪そうな笑みを湛えた松本教授とその取り巻きの二人が立っているのが見えた。
「なぜ、電源落としたんですか。こっちは実験の最中で、井口が帰って来れないじゃないですか。」
と石黒はこれまでに見せたことのない剣幕を松本教授にぶつけた。
「何、井口君がどうしたんだい。居なくなった?」
と松本教授は電源を勝手に落としたことを詫びる素振りも無く石黒の揚げ足を取ろうと
そこに食いついたようだった。
「そうですよ、井口が歪みの向こう側へ異世界の物質の採取に行ってたんですよ。」
と石黒はさらに声を荒げ必死に訴えた。
「何を夢みたいなこと言ってるんだ、私はそんな報告は一切聞いたことが無いが、君の独断でそれをやっていたということになるが。」
とさらに意地悪そうに気色悪い表情で、しかも上から目線で松本教授は石黒に問い質した。
「ドン。バコ。バシーン。」
「おい、止めろ、君何をしているか分かっているのか。」
と松本教授は石黒に殴られた箇所をかばうようにして痛そうな表情でそれでも上から目線で
必死にあがいていた。
「こら、石黒、やめなさい。」
と松本教授の取り巻きの二人に石黒は取り抑えられた。
「警察を呼びなさーい。」
と松本教授は騒ぎを聞きつけて駆け付けた他の取り巻きらに伝えると、
ブツブツと何か話しながら、その場を去っていった。
石黒は興奮状態が続いていたので、取り巻きの二人に押さえつけられていた。
ものの20分程度で警察車両のサイレンの音が聞こえ、二名の警察官が駆け付けた。
警察の姿を見て冷静になった石黒はもう暴れることは無かった。
しばらくするとさらにサイレンを鳴らした警察車両が大学の研究室内に響き渡った。
どんな通報の仕方をしたのかは不明だったが、明らかに狂暴犯を逮捕するケースの警察の布陣だった。
石黒はその場で手錠をはめられ、警察署に連行された。
石黒は、警察署の取り調べ室に居た。
容疑は松本教授を殴った傷害に関してだけでなく、井口の殺人の疑いとのことだった。
大学の実験室内からも、井口の居た痕跡が多数発見されていた。もちろん出入り口の
防犯カメラには、井口と石黒が一緒に実験室に入る姿が確認されていたし、毛髪などの一致も
確認されていたが本人の姿が見つからないといった内容であったらしい。
最初の24時間の尋問は異例の休みなしのぶっ通しで行われ、信じられないが食事の支給も
無かった。当然だが刑事ドラマでお決まりのかつ丼も出されなかった。
勾留期間は10日間延長され、面会も禁止された。石黒の両親も心配しているようで、何度も
手紙が渡されたのだが、何故かそれを読む気にもなれなかった。井口の両親とは留置場内で
何度か会って事実を説明していたのだが、決して信じてもらうことはできなかったので修羅場の
ようになって喧嘩別れしていたのだった。
「いいかげん吐いたらどうだ、井口はお前がやったんだろ。」
と取り調べの警察官は声を荒げた。
「だから、何度も同じこと言わせないで下さいよ。実験で異世界に行ってる途中で松本教授に
電源を落とされて帰って来れなくなったんですよ。」
と石黒はイライラしながら何度も同じ質問に同じ答えで返すしかなかった。
「松本教授からは、お前がやったと聞いているし、お前が言うような実験指示は出してないし、
報告も聞いたことが無いと言ってるんだ。お前が井口をやったんだろ、どこに隠したんだ。
げろっちまえば、釈放してやるぞ。」
と警察は大学教授という権威を完全に信じているようで埒が明かなかった。
さらに勾留10日間延長されたが同じことの繰り返しだった。
この事件は今ではマスコミの格好の餌食となった様で連日大学の実験室で起きた殺人事件
として報道されていた。それもあって世間の関心が高く、警察でも重大事件とされたため
勾留期間は最大の20日間まで延長されたのだった。
結局のところ、石黒は証拠不十分で釈放された。実験室に居た事実はあったが、死体も確認
されないし、これ以上の捜査にも進展が期待できる筈も無かった。
ようやく釈放された石黒であったが、大学生たちの目は冷たかった。大学からは退学処分と
されていた。大学からは、私物の持ち出しのみ許可されたので、一度だけ研究室に戻ることが
できた。石黒はもう大学の誰とも会いたくなかったので、私物とそれに紛らせて、異世界の鉱石、
砂、植物などをこっそりと自宅に持ち帰った。
現実はもっと残酷だった。
石黒に殺人容疑がかかっていたことは大きくニュースで報道されたので、世間の目は
とてもとても冷たかった。
幸いにも石黒の住む学生マンションの大家は変わった方だったので、マスコミの取材を
全て拒否するほどのマスコミ嫌いだったので、報道の内容は信じず、家賃を入れてくれるなら、
このまま住み続けて構わないと言ってくれたので、「住」に関しては問題が無かった。
結局捜査には何の進展も無かったため、マスコミたちも時間経過とともに、この事件を扱う尺が
減ってゆき、釈放されたことはニュースにもならなかったので、世間の風当たりは冷たいままだった。
石黒は、井口のことがとてもとても心配だった。このままにしていたら、異世界で放置された
井口は自分の責任で、本当に向こうで死んでしまうと考えたため、何とかしようといろいろ試みた。
石黒は他所の大学でプラズマ発生装置を保有している大学やその他民間への編入を試みたが、
全て失敗に終わった。
教授をボコボコにしたことはマスコミ各社が面白おかしく報道していたので、そんな石黒を
受け入れてくれる施設などある訳が無かった。
無職。
貯金も底を尽きかけてきた。
井口を助け出す必要があるのに。八方塞がりだった。
石黒は考えを巡らす時間だけはたくさんあった。
いろいろ考えていたのだが、大西教授の遺言を思い出すところに行きついた。
確か、クラウドファンドをしろと書かれていたような感じだったのを思い出した。
幸いにもまだパソコンの回線は繋がっていたので、いろいろ調べて見ることにした。
各社のクラウドファンディング用のサイトを発見したので、とりあえず登録してみることにした。
個人情報の入力からファンドの目的や目標金額などを入力するだけのお手頃なサイトを一つ選んで
入力し結果を待つことにした。
昔芸人で、はがき懸賞の当選品だけで生活した人が居たのを聞いたことがあったが、
今の自分はそんな感じなのかと思ったりもした。
異世界への扉への熱い思いを十分にしたためた。
◎クラファンの一週目の途中結果発表
①プラズマ発生装置の建設費用のファンド募集。目標金額10億円 → 結果 0円
と石黒は目の前が真っ暗になった。
恐らく異世界ファンタジーオタの夢物語と思われたのだろう。寄付してくれる人は皆無だった。
石黒は自分が間違っていたことにすぐに気が付いた。他の人たちのやり方を見てみたところ、
お礼品なる物を用意していたりして、単に寄付を募るだけでは駄目だと理解した。
◎二週目のクラファン途中結果発表
①プラズマ発生装置の建設費用のファンド募集。寄付目標金額10億円
②プラズマ発生装置の使用によって異世界から採取した砂のお礼品有で1万円の寄付
石のお礼品有で100万円の寄付
植物のお礼品有で1000万円の寄付
このように設定内容をお礼品有に改善してみたのだが → 結果3万円だった。
砂はかなり大量にあった。石は100個程度はあった。植物は12種類程度は持ち合わせていた。
音声で入金を知らせてくれる設定にしていたのだが、入金回数は3回のみで結果3万円だけの
反応があったっきり、全く音沙汰が無くなってしまった。
それからもクラファンサイトの記載内容を工夫してみたり、プラズマ発生装置での発見内容を
詳しく追記したりしたが、入金を知らせてくれる音声は鳴ることは無いまま数週間が経過していった。
心が荒んでいくのが分かった。
大西の遺言も役に立たなかった、とあれだけお世話になった恩師の事も恨みに思えるような
自分が信じられないほど心が崩壊していくのが分かった。
もう、これでは家賃も払えないし、ネット回線が切られるのも時間の問題だろう。
もはや此れまでかと、自殺を考える日々が続いた。食事もいつ口にしたか忘れる程だった。
自分を終わりにしようと思った。
しかしながら、このまま真実を無にしてしまうのはどうしても納得がいかなかったので、
自身の無実、大西教授への謝罪、井口への謝罪など、自身の遺言を涙を流しながら
一字一句丁寧に書いていった。
書いている途中で石黒は眠ってしまったようだった。
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