第6章
年が明け、事件は新たな局面を迎えた。板橋舞は容疑者から被告人となり、正式に裁判へと移行した。だが、俺の手元に残る優香からの手紙の存在が、一昨年の殺人事件の解決を遠ざけている気がしてならなかった。手紙に書かれた事実が事件に関与している可能性がある。それでも、優香との記憶を守りたいという気持ちが、俺をためらわせていた。
そんなある日の夜、雪がちらつく中で仕事を終え、事務所の片付けをしていると、鹿取さんが静かに俺に声をかけてきた。
「もし君が希望すればだが、板橋に会ってみるか?」
突然の提案に、俺は動揺した。これまで鹿取さんは、俺を板橋と接触させないようにしてきたからだ。
「むしろ良いんですか?俺のことを徹底的に関わらせないようにしていましたよね」
訝しげに尋ねる俺に、鹿取さんは穏やかな微笑みを浮かべた。
「そろそろ君も、心の整理がつく頃じゃないかと思ってな」
鹿取さんの言葉に、俺は深く頷いた。優香の死から続く心の葛藤に決着をつける時が来たのだと思った。俺の決意を見届けるように鹿取さんは安心した顔を見せ、部屋を出て行こうとした。そして、ドアの前で振り返り、真剣な声でこう付け加えた。
「ただ、優香さんの事件はあくまで未解決のままだ。それを忘れないように」
3日後、板橋舞との面会が実現した。拘置所の面会室で目の前に現れた彼女は、薄い化粧に地味な服装だった。見た目こそ落ち着いて見えたが、その雰囲気にはどこか異様なものが漂っていた。まるで嵐の前の静けさのような、不気味な安定感が彼女にはあった。
俺が何かを口にする前に、板橋が先に切り出した。
「香水に含まれるエタノールって、タンパク質を分解する性質があるそうですね」
唐突な話題に、俺は思わず眉をひそめた。なぜそんなことを言うのか、彼女の意図がまったく読めない。
優香が死んだ後、俺は彼女の部屋を何度も訪れた。だが、2人で調香体験に行った時に優香が手にした香水の小瓶は、最後まで見つけることができなかった。その香水がどこに消えたのか、俺は未だに気になっていた。
「Et in Arcadia egoって、アルカディアの牧人という意味、ではないですよね」
板橋が静かにそう呟いたとき、胸の奥に冷たい痛みが走った。優香があの香水に込めた意味が、実は違っていたのかもしれない。
あの日、香水作りの帰り道で優香が話していたことを、俺は適当に聞き流していた。彼女がその言葉の本当の意味を知らずに、自分なりに解釈していたことに気づく。優香は、アルカディアを楽園だと信じ、そこに込めた願いが純粋なものであったのに対し、板橋の中にはそれを覆すような闇が隠されていた。
板橋はそのことを俺に知らせたかったのか、それともただ挑発していたのか。彼女の真意は読み取れなかった。
だが、目の前の板橋はもうそれ以上何も語らない。その沈黙が、俺の中の疑問をさらに増幅させる。
「突然すみませんでした」
俺は板橋にそう告げて立ち上がった。これ以上、彼女と話しても何も得られないと悟ったからだ。だが、俺が背を向けた瞬間、板橋が突然声を張り上げた。
「私は立花優香が大好きでした!」
その言葉は、まるで呪いのように耳に残った。板橋の表情には、悲しみと狂気が入り混じっていた。
「だから、その」
「優香が大好きな俺を道連れに?馬鹿馬鹿しい」
「Et in Arcadia ego」
その日の夜俺はアパートの部屋で、優香が繰り返していたこの言葉の意味を改めて考えていた。
フランス語で「我アルカディアにもあり」。17世紀のヨーロッパで広まった題材で、ルーブル美術館に所蔵されているプッサンの絵画が最も有名だという。その絵には、気ままに暮らす牧人たちが描かれている。彼らがある日見つけた石棺の表面には、こう書かれていた。
「Et in Arcadia ego」
楽園アルカディアにも存在するもの――それは死。死は平和な日本にも、どんな人生にも訪れる。それを忘れるなという警告。
だが優香は、この言葉の本来の意味を知らなかった。それでも彼女は、この香水に希望を込めた。アルカディアを楽園として、苦悩のない未来を夢見たのだ。
俺の手元にある香水は、優香の純粋な願いを映し出している。それを裏切ることなく、これからも胸に刻んで生きていくしかないのだと、俺は小瓶を握りしめながら思い続けるのであった。