第5章
「風祭君へ
君がこの手紙を見る日が来なければ良いな、と思いながら書いています。見ているとしたら私はもういないんでしょうね。
まず君にたくさんのありがとうとごめんなさいを言わなくてはなりません。
短い間だったけれど、一緒に色々なところへ行って、素敵な思い出を作ってくれてありがとう。君と過ごした日々は、どれも本当に幸せでした。クリスマスの約束を守れなかったのはごめんなさい。許されるなら君といつまでも一緒にいたかった。だけど、いつも君と別れて帰る時間が近づくと、どうしても憂鬱になってしまいました。
あの日、私を見つけてくれてありがとう。帰る家もなく、公園のベンチで一人で夜を明かそうとしていたあの春の夜、君が差し出してくれた温かい紅茶は、今でも覚えています。あのとき君の存在が、私にとってどれだけ救いだったか、きっと君には伝わっていないでしょうね。『何かあったら連絡して』と渡してくれた電話番号に何度も連絡して、君を困らせたことは申し訳ないと思っています。でも、あの時私は必死でした。そして本気で君が好きでした。
夕方には必ず帰る私のこと、不思議に思っていたでしょう?君には言えませんでしたが、私はどうしても帰らなければならなかったのです。舞さん――板橋舞さんのところに。
舞さんは、私のオーナーであり、同時にパートナーでもありました。10年前、私がまだ反抗期真っ盛りだった頃、親元を飛び出し、繁華街をさまよっていた私を舞さんが見つけてくれたんです。彼女が家に連れて帰ってくれなかったら、私はどうなっていたか分かりません。舞さんは捜索願が出るような家族でもなかった私を、そのまま引き取ってくれました。成人を迎えるまで、舞さんの元であらゆることを教わりながら過ごしました。
8歳差の私たちは、すぐに恋人同士になりました。お店で働き始めた私と舞さんは、どこへ行くにも一緒でした。舞さんはとても優しく、私を大切にしてくれました。でも、ずっと一緒にいると、どうしても自由な時間が欲しくなるものです。コンビニくらい一人で行きたい、そう言って舞さんと喧嘩したある春の日、君に出会いました。
舞さんは、あの日以降私に少し自由を与えてくれました。家事をすることを条件に、日中の行動は好きにしていいと言ってくれたんです。私はそれに乗じて従業員を辞め、家にあった服やお金を少しずつ拝借しながら、君の元へ通うようになりました。君との時間は本当に楽しくて、でも同時に、舞さんにそのことを打ち明けるのが怖くて仕方なかった。
クリスマスの約束をした日、初めて舞さんに君のことを話しました。きっと怒るだろうと覚悟していましたが、舞さんの怒りようは想像を超えていました。家中のものが破壊されるかと思うほど暴れ、『一度その男の顔を見せろ』と叫んだんです。だから私は香水作りのデートを計画しました。君に害が及ばないよう、予約の名前を『風間さん』に変え、デートの間も君の名前をできるだけ呼ばないようにしました。君が何か違和感を覚えていたなら、そのせいかもしれませんね。
舞さんは、君のことを嫌いではなかったようです。でも、私を手放したくはなかった。クリスマスの約束の話をしたとき、『そんなことさせるくらいなら、殺してやる』とまで言いました。近くで彼女を見てきた私には分かります。舞さんは良くも悪くも、有言実行の人です。だから、私がどう足掻いても、この運命を変えることはできないんです。
君に殺意が向かなかったのは、せめてもの救いでした。あの時香水を作ることに同意してくれたおかげで、君の名前や住所を隠すことができました。けれど、それでも私の存在が舞さんにとっての限界だったんでしょう。だから私は、こうしてこの手紙を書いています。
『Et in Arcadia ego』――もし君がこの香水をもう一度嗅ぐ機会があれば、ラストノートまでしっかり味わってみてください。アルカディア、全ての苦悩のない楽園。牧人たちはそこで永遠に、何の不自由もなく暮らすのだそうです。舞さんから教わりました。この香りの最後には、チュベローズの甘さを込めました。君といつか、甘く自由で幸福な生活を送りたかったから。
お元気で。
優香」