第3章
「君、あの店に行ったんだってな」
出勤早々、鹿取さんに声をかけられた俺は、思わず視線を落とした。何を言われるのかと緊張が走る。
「まあまあ、顔を上げたまえ。誰も君を責めてはいない、偶然だからな」
横に置かれた朝刊が、鹿取さんの言葉を補足するように目に入った。見出しは大きく容疑者の名前を伝えている。写真には、香水専門店で俺に応対してくれたあの調香師の女性の姿が載っていた。事態が飲み込めないまま、心臓が大きく跳ねる。
今回の被害者、波左間氏が何者かに命を奪われた事件は、予想外の方向に進展していた。警察の調査によれば、彼は誰かとの人違いで狙われた可能性が高いという。人当たりが良く、職場でも評判が良い波左間氏は、最近生まれたばかりの娘を溺愛する父親だった。どれだけ調べても、動機につながるトラブルが見つからない。彼を襲った動機も状況も、全てが謎に包まれていた。
波左間氏は愛煙家であり、家族に配慮して外で煙草を吸う習慣があった。その最中に命を奪われた。現場には、強烈な花の香り以外、犯人を特定できる証拠は何一つ残されていなかった。
「捜査犬を投入したんだが、あの強い匂いで犬の鼻もバカになってしまったよ。難航したものだ」
鹿取さんは困ったように苦笑いを浮かべながら話を続けた。
その割には、解決が早すぎないだろうか。俺は内心で疑問を抱きながら、鹿取さんの言葉を待った。
「どうしようもなかったから、原始的な方法をとらせてもらったよ」
鹿取さんの説明に、俺は少し驚いた。警察は地域の百貨店に勤めるビューティアドバイザーからドラッグストアの店員に至るまで、香水に関わる仕事をする全ての人々の行動を調査し始めたという。その結果、捜査線上に浮かび上がったのが、あの調香師だった。
「優香の事件の時も同じような手法を取ったんですか?」
俺は思わずそう尋ねた。鹿取さんは少し表情を曇らせながら答える。
「いや、その時はそこまで踏み込めなかった。ただ、今回は同じような事件が時間が大分空いているとはいえ繰り返されている以上、調査に踏み切らざるを得なかった」
話を聞いているうちに、俺の胸に湧き上がる不安が大きくなっていく。鹿取さんはさらに続けた。
「実は彼女、明らかに異常な行動を取っていたんだよ。あるアパートの部屋を長時間監視していた。手帳をめくりながらな」
「アパートの部屋を監視……?」
俺はその言葉を繰り返した。鹿取さんは、真剣な表情で俺を見つめた。
「風祭君、それは君の部屋だよ」
その瞬間、頭を殴られたような衝撃を受けた。信じられない思いで、しばらく言葉を失った。俺の部屋が、彼女に監視されていた?なぜ?
「身柄は確保したが、まだ詳しいことはわかっていない。ただ……君を彼女に会わせるわけにはいかない」
鹿取さんはそう言った。
俺が優香の事件について調香師に問い詰めるのを、鹿取さんは恐れているのかもしれない。だが、俺の頭の中は混乱し、疑問でいっぱいだった。
帰宅後、俺は包装された小瓶を取り出した。
優香を思い出しながら、瓶を手に取る。そのラベルには「Et in Arcadia ego」と、あの時と同じ文字が書かれている。少し振りかけると、部屋の空気が甘く変わった。その香りは楽しかった日々を鮮やかに蘇らせるかのようだった。
しかし、波左間氏のことが頭から離れない。俺と同じく香水専門店を訪れていた彼が、命を奪われたという事実。彼は俺たちが訪れた2日後に同じ店に行き、サンプルを依頼していたという。店の紙に住所を記載したことが、彼の命取りになった。
「風間さん、波左間さん……俺の名前は風祭さん……」
声に出して呟いてみると、どれも音が似ている。容疑者が何らかの勘違いでターゲットを間違えた可能性は否定できない。それに気づくと、波左間氏が抱えるはずの未来が潰えたこと、そして俺が生き残っていることの意味を考えずにはいられなかった。
翌朝、俺は狂おしいほどの甘い匂いで目を覚ました。
まるで部屋全体が香りに支配されているかのようだった。