第2章
香水専門店があったのは、俺の住むアパートから電車で2駅ほど離れた、海の近くの静かな住宅街の真ん中だった。どこか古風で落ち着いた街並みは、優香と初めて訪れたときの記憶を鮮やかに蘇らせる。あのときと変わらない景色が、なぜか胸を締めつけた。
早い日の入りのせいで、午後6時の街はすでに夜の帳に包まれ始めていた。オレンジ色の街灯が、石畳の道をぼんやりと照らしている。香水専門店のガラス製のドアを押すと、慎ましやかな鐘の音が響いた。あの日と同じ音だった。静かな空間にその音が広がると、裏から誰かが慌ただしく出てきた。一度会ったことのある調香師の女性だ。
「こんにちは。何かお探しですか?」
彼女は少し驚いた表情を浮かべて俺を見た。一度しか訪れたことのない客を覚えているはずはない。突然の来訪者が珍しかったのだろう。それでも、どこか懐かしいような笑みを浮かべてくれた。
「以前、こちらでオリジナルの香水を作らせていただいた者ですが」
俺がそう伝えると、調香師は一瞬考えるように目を細め、近くに置かれた大きな台帳を開いた。
「覚えておりますよ、『Et in Arcadia ego』の方ですよね。確か去年の10月頃にお越しいただいた……風間様でしたっけ?」
「風祭です」
と、思わず苦笑いがこぼれた。珍しい名前だが、時々こう間違えられる。
「申し訳ありません、記録が少し不正確だったようです」
と頭を下げながら調香師は言った。
「それで、今日はどのようなご用件でしょうか?」
「その『Et in Arcadia ego』のサンプルがまだ残っていないかと思いまして。商品化を検討するかも、とおっしゃっていたので」
俺の言葉に、調香師は一瞬目配せをしながら奥にある棚の方を指した。
「商品化は結局見送ったのですが、サンプルは確かに残っています。少々お待ちください」
調香師は奥の棚に向かい、丁寧にサンプルを探し始めた。俺はその背中を見つめながら、ふとこの店を訪れた日のことを思い出していた。香水を作る体験に俺を誘ったのは優香だった。彼女はどんな場所でもその場を輝かせるような笑顔を持っていた。特にこの店では、香りに囲まれた中で子供のように楽しそうだった。
数分後、調香師が戻ってきた。彼女の手には大きな瓶があった。そのラベルには、こう記されていた。
「Et in Arcadia ego - by Yuka Kazama」
「全て差し上げるわけにはいきませんが、小瓶にお分けしますね」
と調香師は言った。
「ありがとうございます」
と俺は頷いたが、あの名前がラベルに刻まれているのを見るだけで胸が締めつけられるようだった。優香の名前が書かれたこの瓶が、彼女がここにいた証そのもののように思えた。
調香師が小瓶を用意している間、彼女がふと俺に紙とペンを手渡してきた。
「当店のメンバー会員に登録しませんか?新しい商品のお知らせやセール情報などをご案内できます」
わざわざ過去のサンプルを探し出してくれる調香師に、断るのも気が引けた。俺は素直に紙を埋めながら言葉を発した。
「この香り、とても良いですよね。『アルカディアの牧人』、でしたっけ?でも、牧場というよりは瑞々しくて爽やかな果実のような香りです」
「アルカディアの牧人?」
調香師は妖しく目を細めると、薄ら笑いを浮かべながら訂正した。
「『我アルカディアにもあり』ですよ。正確には」
その瞬間、胸に小さな冷たい棘が刺さったような感覚がした。それが何を意味するのかを深く考える前に、調香師はにこやかに笑い、話を打ち切った。
彼女が小瓶を手渡してくれた時、俺は
「ありがとうございます」
と短く言ったが、心の中は複雑な感情で渦巻いていた。優香は本当にこの言葉の意味を勘違いしていただけだろうか?何か隠されたメッセージがあるのではないかと疑問が残る。
店を出た後、俺は優香との会話を思い出していた。香水を作る数日前、彼女はこう言っていた。
「そろそろずっと一緒に過ごしたいな。朝起きてから夜寝るまで、ずっと一緒に」
その言葉に俺が答えようとすると、彼女は微笑みながら続けた。
「そうね……クリスマスまで。今年のクリスマスまで待っていてくれる?そこまで私たちが続いていたら、そうしよう」
その言葉が、彼女と交わした最後の約束になった。12月23日、優香は命を奪われた。その約束が叶うことは二度とない。
梱包された小瓶を取り出して香りを嗅ぐ勇気は、その夜どうしても出なかった。ただ手のひらにその重さを感じながら、彼女がいた時間を反芻するしかなかった。窓の外には沈黙と闇が広がり、時折見えるパトロールの赤い光がやけに毒々しく感じた。
翌朝、突然出張を命じられた。かなり離れた地域のクリスマスイベントの雑踏警備で、泊まりがけとなってしまった。物理的に今回の事件から距離を置くことになった俺は、3日後に戻ったとき、事件が大きく進展していたことを知った。
俺は小瓶をまだ開けていなかった。