第1章
残っていたのは、現場特有の錆びた鉄の匂いと、それを覆い尽くすような狂おしく甘い花の香りだった。この香りには、奇妙な既視感があった。
寒い12月某日深夜2時、只事ではない悲鳴が聞こえたとの通報を受け、俺は現場に急行した。場所は、自分が住むアパートから100メートルも離れていない廃屋の中だ。薄暗い部屋には、床に倒れて弱々しく呻いている一人の男がいる。俺と同い年くらいだろうか。周囲には血痕が散らばり、その顔はさらに青白く際立って見えた。救急車は呼んだが、彼の命が残る時間は分単位であることは明らかだった。
血と絶望の匂いが漂う中、それを覆い隠すような甘く妖艶な香りが鼻を突いた。俺は思わず息を詰める。目の前に広がる惨劇に似つかわしくない、この異様な香りは記憶の奥底に封じたはずの、あの日の出来事を無理やり呼び覚ました。
「まるでそっくりだ……」
そう呟いた途端、あの忌まわしい夜が脳裏をよぎる。
ちょうど1年前、クリスマスが迫った頃だった。俺の最愛の人である優香が、何者かに命を奪われた。寂しがり屋の彼女が珍しく連絡をよこさなかったことで、胸騒ぎを感じながら勤務に向かったのを覚えている。夜も遅くに入った通報を受け、急いで向かった公園の一角で、血に染まった優香の姿が目に飛び込んできたのだ。
「優香?」
と、声を震わせて呼びかけたが、彼女がそれに応えたかどうかはもうわからない。彼女の周囲には、血と花の香りが入り混じり、まるで哀しみを刻むように漂っていた。その香りは、今も嫌でも脳裏にこびりついて離れない。
ただ、あの夜の香りは優香が普段愛用していた香水ではない。優香の香水は瑞々しく爽やかで、昼間の彼女の生き様を想起させるものだった。結果として短い付き合いとなった生前の彼女と一緒に過ごしたのはいつも夕方までで、夜の優香を見たことはなかったが。それに比べて、あの事件現場に漂っていた香りは、何か不吉で異様な甘さがあり、優香のものとはどうしても思えなかった。そして今回の現場にも、あの香りが再び漂っている。
署に戻り、手続きを終えた俺に上官の鹿取さんが声をかけてきた。
「今回の事件の捜査、君は関われそうかね、風祭君?」
「俺では役不足、ということでしょうか?」
「いや、そうではなくてね……」
鹿取さんは一瞬視線を逸らし、言いづらそうに続けた。
「君の彼女の事件と重ね合わせてしまいそうでね。これだけ状況が似ていると、どうしても感情が絡んでくるだろう?」
「ご心配いただきありがとうございます。でもそれはそれ、これはこれです。仕事とプライベートは完全に分ける方ですので」
鹿取さんの答えを待たず、俺はその場を後にした。正直、感情が揺さぶられているのは否めない。だが、あの香りを再び嗅いだ以上、この事件に関わるのは俺自身のためだ。絶対に手を引くわけにはいかなかった。
「同一人物、なのだろうか」
デスクで情報を整理しつつ、ふと疑念が頭をよぎる。もし愉快犯なら、同じような事件をもっと頻繁に起こすはずだが、今回の事件は1年ぶりだ。もし何か特別な意味が込められているとしたら、それが一体何なのかは全く掴めない。怨恨の可能性を考えたとしても、優香と今回の被害者には何の接点も見つからない。
ふと、優香と過ごしたある日のことが蘇る。香水を作れると聞いて、俺を誘ってきたのは優香の方だった。
「集めるのも素敵だけど、自分だけの香りを持つっていいよね」
と微笑んでいた彼女の姿が目に浮かぶ。香水に興味のなかった俺も、調香体験は意外と楽しく、素材を選びながら優香と語り合った。
調香師の女性は優香の組み合わせに感心し、
「お客様のセンスが光っていますね」
と微笑んだ。最終的に出来上がった香りは、彼女にぴったりだった。
「当店ではお客様カスタマイズのモノを商品化することもあるのですよ、候補にさせていただくかもしれません」
「風祭君に会う時は、この香水を毎回つけていくからね」
帰り際に優香は嬉しそうに笑い、俺の方を見てそう言った。彼女が名づけた香水
「Et in Arcadia ego」
意味は「
アルカディアの牧人」
と教えてくれた。その言葉の真意を理解できていたかはわからないが、彼女の表情からその香りが彼女にとって特別なものだと感じ取った。
彼女とは夜の時間を共に過ごしたことがない。それでも、あの香りは彼女の生きた証として、命が消える前の数ヶ月間一緒にいた証として、俺の中に強く残っている。
「何だか久しぶりに嗅ぎたいな」
それ以降優香のチャームポイントとなった、爽やかな瑞々しい香りのするオリジナルの香水。最後に会った死の3日前も、優しい笑顔を彩っていたあの香水。事件現場のおどろおどろしい甘いモノとは、まるで違うあの香水。果たして商品化はされたのだろうか?仕事帰り俺は何気なく、思い出の専門店へと足を伸ばした。自分で作った方の香水「Noel」は結局気に入らず、使う機会も逸して弟にあげてしまっていた。