イジメ・日記
それは、陸上部に入った時から書き始めた日記のようなものだった。
〇月〇日、陸上部に入った。中学から、ずっと走り続けてきた。高校も走るぞ。だって気持ちいい。走っていると、いろんな嫌なことが忘れられる。両親が分かれて二年半、幸い。お父さんがお金持ちの息子だから、学費は心配ない。良しとしよう。周りには、結構、お金の大変な家も多そうだ。私はラッキーだ。
〇月〇日 顧問の黒田先生が、声をかけてくれた。いいフォームだな、がんばれ。一年生の私を見てくれた。単純にうれしい。黒田先生はイケメンではないが、やさしそう。
〇月〇日 四百の記録が、先輩を抑えて、二番目。やったー
〇月〇日 私は中学より、体重が増えている。黒田先生によれば筋肉が増しているんだ。お前、急激に体できているな。珍しいと言ってくれた。
〇月〇日 タイムトライアルで、四百、一位、信じられない。まだ三か月だよ。
ここから、インターハイ予選に相馬は一年生ながら出場した。選んだのは私だ。地区予選は突破できたが、関東大会は無理だった。当然だ。何しろ一年生だ。相馬の勝負はスタートラインに着いたばかりだ。夏が過ぎ、秋の新人戦、そして冬を制する者が夏に勝つ。
相馬は、それから、様々なことを書いていた。夏合宿を過ぎ新人戦の四百で二位に入った。彼女は確実に力をつけていた 新しい年に向かって相馬は、こう書いていた。
一月一日、今年のインターハイに出られますように。
だが、嫌な兆候が少しずつ出ていた。
〇月〇日 部室に置いていたタオルが泥だらけになって、バカと赤文字で書かれてあった。誰だろう、こんなことをしたのは。
〇月〇日、私のスパイクが無い。ロッカーが壊されて、スパイクだけが無くなっていた。大騒ぎをしたら、結局、グラウンドにあった。H部長に、すごく怒られた。自分で忘れたんでしょ。あんた、うざいと言われた。私は忘れてなんかいない。それにロッカー壊したのは誰?、
〇月〇日、私の飲むドリンクのボトルに、蠅が入っていた。何、これ。
〇月〇日 信じられない。男子部員が、鍵が内側からかかっているはずのロッカールームのドアを少し開けて、覗きをしていた。鍵を開けたの誰。
〇月〇日 先輩のAさんに、肩を揉んでくれと言われて、やると、マッサージをしている間中、足を踏んできた。痛いですと言うと、外すが、すぐにまた、踏んでくる。それもすごい力で。こんなことを三十分以上続いた。先輩、いったい何を考えているの。
〇月〇日 男子部員のS先輩と話していたら。A先輩たち三人がすごい目をして私を睨んだ。怖い。部長と、A先輩に部室に呼ばれ、怒られた。S先輩のことだ。A先輩はS先輩と付き合っているらしい。すごい形相で睨まれた。
〇月〇日 下駄箱に、ネズミの死体が、置かれた。
だんだんとエスカレートしてゆくいじめが見えてくる。相馬は、何故、私に相談しなかったのか、いや、これを相談されても、止める自信は無い。私が注意したらみんな、しらんぷりをして、裏でいじめがエスカレートするのは目に見えている。と今は思う。そして春になり、学校は新学期になった。相馬は二年生。たび重ねるいじめにもめげず、いやだからこそ、走ることに全精力をかけたのだろう。走って、いじめを忘れる。私は、そんなことに気が付いていなかった。
〇月〇日 二年生でクラス替えになった。私の席の横に座ったK君が、にやにやして言った。「お前、足速いんだってな。陸上部か」と聞いたから「そう」と答えた。すると、「ふーん陸上部か」と意味深に呟いた。なんだ、この目は。
〇月〇日、皆、私と話さない。一度話しても、次からは無視。
だんだんと一人になってゆく。いったい私が何をしたんだろう。
昼休みも、もう誰も、私と一緒になってくれる人はいない。ひとりぼっち。私には、もう陸上しかない。
〇月〇日、授業をさぼって、グラウンドを走り回った。友達がいない。さみしい。
〇月〇日、一か月後にインターハイ予選が始まる。頑張ろう。
この時、私は何をしていただろうか、授業と顧問の仕事は、忙しい。学校という組織と陸連という組織に仕えて、雑用が山ほどある。休日も、行事や陸連の試合があれば必ず参加する。一か月、まるで休日が無いこともある。教師にはブラック企業並みの仕事量があるのだ。授業の準備、学校の行事などの仕事がある。部活動の休日の試合参加は、手弁当だ。陸連に提出する書類は山ほどある。これにいくら夜遅くまで頑張って、こなしても残業手当は、教師には基本的にない。だが、これは言い訳だと思う。私は相馬の、陸上部の異変に気が付かなかった。相馬の日記はインターハイに近づく。
〇月〇日、インターハイ予選も近くなってきた。クラスに居るのは苦痛だが、私には走りがある。絶対頑張る。
〇月〇日、大変なことがあった。また、ロッカーの鍵が開けられていた。私一人が着替えているのを待っていたように、それは起こった。私は、部でも孤立していて、話す人はいない。さみしいが、多分理由がある。私は薄々感じていた。部長とA先輩だ。何人か私を気の毒そうに見ている。皆命令されているんだ。私を孤立させているのは、あの二人だ。そして、一人の私に、いきなり男子のS先輩がロッカーに入ってきて、私に飛びつき乱暴しようとした。私はびっくりして大声で叫んだ。Tシャツがぼろぼろになって破れた。恐ろしかった。でも、隣のテニス部の部員が、出てきて、ロッカーを覗いて、びっくりしたように、騒いだ。ちぇっと言うと、S先輩は、すごい形相で出て行った。「なんだよ、話が違う」と怒鳴った。話が違う? 何それ! 私はぶるぶる震えながら、着替えて、帰った。おかしい、ロッカールームの鍵は内側からかかっていたはずだ。S先輩が鍵を持っていたとしか思えないし、私が一人になったのを知っていたとしか思えない。いったい、何でこんなことされるの。でも誰にも話せない。でも誰か助けて。
こんな事件があったとは、私は知らなかった。女子の陸上部は、
部長が部員を完全に仕切っていて、顧問の私は、インカレ選手として尊重はされてはいたが、尊敬されているわけではない、慕ってくれるわけでもない。生徒間の世界は立ちいれない。立ち入るには、相応の覚悟と責任が必要だ。私と彼女らはいわば割り切った関係だった。だから、慕ってくれる相馬が可愛いと思ったのは確かだ。この事件があった後はしばらく何もなかったらしい。インターハイが近く、私が頻繁に部に来て、やりにくくなったのだろう。しばらくは静かだった。だが、それが嵐の前の静けさだったのだ。私は、愚かにも気が付かなかった。そうして、インターハイ予選が始まった。
〇月〇日、都大会の予選突破。うれしい。
〇月〇日、関東大会、三位、やった。インターハイだ。さみし
くても、つらくても頑張った、すごいぞ自分。
そうだ、相馬、お前はすごい。一人で、たった一人で、頑張ったんだな。俺はお前に言った。インターハイは、お前の人生の勲章だと、だが、最後の勲章になるとは思ってはいなかった。愚か者だ、私は。そして、決定的なことが起こった。
それは、夏休みの日曜日だった。私は、通常よりおそく学校に向かった。相馬は、朝から練習しているはずだった。他の女子部員はいないはずだった。
私が、学校に着いたとき、相馬は、一人でトラックのスタートラインで倒れていた。意識が飛んで、ショック状態だった。熱中症だ、それも重度の。これは! いったい何が起こったのか。私は救急車を急ぎ呼んで、相馬を病院に運んだ。いったい何が起こったのか。相馬は気絶していて話ができない。医者は危ないところだったと言った。もう少し通報が遅れたら、死もあったと。急いで来た母親に難詰された。先生、何故こんなことになったのかと。だが、私は、水分補給をしなかったのではと言うしかなかった。ただ、相馬の足に擦り傷が、何か所かあったのを私は見ていた。だが、何故そんな傷ができたのか分からなかった。バカだった。ただいやな予感がしたのは事実だった。そうして、相馬はインターハイを辞退した。体が悪化したと、調子が出なくなったとしか相馬は言わなかった。そして相馬は陸上部には来なくなった。
私は何回かメールを送ったが返事は無かった。
そして夏休みが終わりの日、相馬は、自宅近くの公園の大きな木にロープで首を括って死んでいるのを発見された。
当然、学校は大騒ぎになったが、遺書に、死にたいと一言だけ書いてあっただけで、原因が分からない。学校中に調査が入ったが、結果的に相馬はインターハイに出られなくなって絶望したと結論付けられた。
だが、母親が、相馬の日記を見て、いじめがあったのではないかと抗議してきた。私も驚いて、職員会議の場で日記を公表して、もう一度調査を、やるべきと主張したが、入れられなかった。校長は、日記には、それらしきものはあるが、前回の調査でいじめの証拠は出てこなかったと言った。学校は母親に、いじめの証拠が無いとして、母親を説得した。その時、学校側は相馬の家が母子家庭であり、母親が仕事に追われてコミュニーケーションの不足があったのではと匂わせた。断定はしないが、母子家庭は事実であり、母親の仕事も夜遅くまでだったことも学校は掴んでいた。つまり暗に家庭のせいにしたのだ。
母親は警察にも日記を見せたらしいが、警察は動かなかった。理由は、死に至る二カ月前から日記は途絶えて、死に関わる記述が無かったからと言われたらしい。また学校もいじめは無かったとしていると警察に言われたらしい。いじめはその客観的な証拠はなかなか見つからない。学校は、いじめのある学校というレッテルは貼られたくない。だから、無かったことにしたいということだ。
だが私は、あの救急車で相馬を病院に運んだ、あの日のことが、どうしても気になり、部員たちに、しつこく尋ねた。何があったか。答えは「相馬は一人で練習していたから知らない」だった。確かに日記には相馬は陸上部でも、クラスでも孤立していたと書いてある。ただ、部員たちの表情は暗かった。こいつら何か知っていると思ったが、その口は堅かった。
そして、自殺後の騒ぎも静まり、二学期の終わりに近づいたころ、私の携帯に匿名のメールが来た。送り主は分からない、多分ネットカフェか漫画喫茶からのものだろうと思う。相馬の自殺と件名が書かれてあった。メールを、私はあわてて開いた。メールには、「〇月〇日の相馬にあったことを書きます」と書き出していた。その日付は、相馬を病院に運んだ日だ。何があった? メールは続く。「相馬は、あの日、一人で午前中から練習していました。そこに二年生の部員が多数、やってきて、手伝ってあげると言って、一緒に練習、いや、特訓が始まった。死の特訓が。ものすごく暑い日でした。相馬は水も飲ませてくれない。二年生はペットボトルで水分補給している。円陣を組んで、笑いながら、走る相馬を見ている。特訓を延々と続けたんです。そして相馬は倒れた。僕らは倒れた相馬を置き去りにして、帰りに、もんじゃに行き、盛り上がりました。でも、今考えると、少しやりすぎた。なんとなく、後悔しています。それでメールしました」
なんとなく、後悔した! これは、いったい、どうなっている、炎天下で特訓、そんなことをしたら、熱中症になることくらい分かるだろう。最悪死ぬんだぞ、分かっているのか。私はメールに書かれていた、この事実に戦慄した。何か狂っている。だが、俺は何だ。こいつらの顧問だ、教師だ。私が教師という立場に絶望した瞬間だった。
私は、このメールを持って、校長に掛け合った。興奮した私を校長は、苦い顔をした。
「このメールは、誰からだね」
私は首を横に振った。
「分かりません」
校長は断として言った。
「問題にならない。君、生徒に振り回されているな。そんなことでは、教師は、この先やっていけないな」
そのまま、校長はそっぽを向いた。私は引き下がった。そして、二か月後、なにもかもを続ける気力が失せ、心療内科にストレスで鬱病になっていると言われた。鬱病は負け組の勲章だ。すべてのことに、やる気が失せた。メールは相馬の母親に見せなかった。これ以上のストレスに耐える自信がなかったのだ。私は卑怯者だった。
この負け犬の人間は妻にも見捨てられた。自殺も考えたが、恐ろしくて出来ない。私は臆病者だ。なんとか、今の職業を得たが、今も薬は常用している。私は社会の脱落者になったのだ。