悪夢
私は樹の幹に、直接、頭を乗せて寝ていた。春の風が心地よく、私の頬を撫でる。私の心は眠りの中にあって無心だった。朝の光が閉じた目にも感じられるくらい眩しかった。どれくらい、経ったか、私の耳に、人の走ってくる足音がした。そして、私のすぐ近くに、足音は止まった。私は目を開かなかった。すると声がした。
「先生、黒田先生」
私は黙って目をつむったまま聞いた。
「先生、やった、関東大会三位だよ。インターハイに行けるよ」
少女の声だ。その声は若く、弾んでいた。
俺は目を開けた。すると、真っ青な初夏のぎらつく太陽の下に学校のグラウンドが見えた。グラウンドには一人の少女が走っている。他の部活の姿は無い。少女だけが走っていた。
遠く離れていても、少女の息遣いが聞こえていた。息を吸う、息を吐く。心臓の鼓動が確実なリズムを刻んでいる。
運動は、慎重と昂揚がいったりきたりするものだ。そのバランスがすべて。ウサギのように臆病に、虎のように獰猛に、その時々で、その二つを使い分ける。バランスがとれていれば、自分がびっくりするくらい旨くいく。インターハイは予選から本選まで二か月空く。予選に全精力を使って、そのままインターハイに持ってゆくのは難しいのだ。本選までの二か月をどう過ごすかで本番の勝負が分かれる。一度、底に落として、再び上がる時間が短いほど良い。だが言うは易しだ。少女は、どうだろう。うまく調整しているか。
私はじっと走る少女を見つめていた。だが、急に少女の足が鈍くなり、周りに、全身黒の衣装の集団が出現した。少女の周りをぐるりと取り巻く黒の集団は、皆、運動をしているとは思えないほど暗い陰鬱な雰囲気だ。見ると皆、何だろう、まるで能面の顔のようだ。口元に不気味な笑みをたたえ、その眼は物のように何も映し出してはいない。
ざっざっと砂を噛む足音が鳴り響き、少女を取り囲む輪を徐々に狭めてゆく。少女は、かなり走っているはずだから、疲れも出ていようが、取り囲む少女たちの速度は一定に保たれ、しかも速い。少女は疲れて、後ろに下がろうとするが、後ろの少女の壁に阻まれて、下がれない。思い切って横に外れようとしても、そこにも壁ができている。
少女の顔が紅潮して、息が切れ、足もあまり上がらなくなっている。
こいつは限界だ。と思った瞬間、輪が一気に縮まった。少女の歩幅ぎりぎりに足を侵入させる。これは! と思う。陸上の中距離走は、実は格闘技に近い。ルールぎりぎりで、肘や足を使って走路を妨害するのだ。普通は、転がれば済むが。どうやら、少女を囲む少女は転がす気も無いらしい。体が揺れると、絶妙なタイミングで、手を使って、元に戻す。これは、止まることも、転がって休むこともできない。文字通り、延々と、少女を走り続かせる気だ。
人間は一定の運動を延々と出来る生物ではない。早い話、バケツを汲んで、たらいに流す。こんな単純な作業も、延々とやらされたら、どんな屈強な男も音をあげる。つまり拷問だ。今、少女は拷問を強いられている。私は、止めさせようとしたが、体が、金縛りにあったように動かない。私は、ただ、見ることしか出来なかった。
いったい、何時間が立ったか定かではない。尋常ではない行為は、やがて太陽が傾き、夕日が赤く天を染め上げても、その拷問は続いていた。
少女の呼吸、いや喘ぎ声が、耳にがんがん鳴っている。汗はもはやかかない。顔は蒼白になり、唇がかさかさに乾いている。限界だ。足はもつれ、腕の振りは、もはや小刻みに揺れて、腰より上には挙げられない。
ついに、左右に並んでいた黒の集団の二人が、少女の肘に手で内側から掴み、持ち上げた。つまり引き摺りだしたのだ。その時、黒の集団がにやっと笑ったように見えた。こいつら楽しんでいやがる。
少女を囲む集団には疲れはない。こいつら化け物か。その淡々と続ける行為は、人間の者ではない。悪魔の所業だ。
太陽が消え、闇が辺りを覆っても、その行為は続いていた。グラウンドに照明が点いている。昼前から始まった行為は夜になっても延々と続いていた。
周りはしんと静まりかえり、走る少女や少女たちの息遣いが、いや少女の喘ぎ声が耳に鳴り響いている。
いったい、これは何だ。俺はいったい何を見ているのだろうか。
強引に止めさせるべきだ。だが体が動かない。
そして、照明が落ち、グラウンドは闇に包まれても。黒の集団と少女は止まらない。
すると少女が、顔をきりっと上げると手を振りほどき、前方を走る少女に体当たりをした。一瞬、前にスペースが開き、少女が全精力を使ったように、猛ダッシュを試みた。黒い塊がちぎれるように飛散した。少女は、おのれの力を振り絞ったように、塊から逃げようとする。闇に疾走する少女、俺は茫然として、それを見ている。走れ! 塊から一瞬、出た瞬間、少女は、しかし、最後の力を振り絞った瞬間、前に叩きつけられるように地面に転がっていった。
少女の体が宙に一瞬浮き、左肩から地面に激突した。そして、そのままピクリとも動かなくなったのだ。
黒い集団は、倒れた少女を囲み、じっと見降ろす。
しばらく、黙っていた集団の中から、ハハと笑う声がした。
「ざまあみろ」
「くそ女、思い知ったか」
「私らに逆らうから、こんな目にあうんだよ」
「こら、糞女、起きろ」
「起きろ!」「起きろ!」「起きろ!」「起きろ!」
集団は、意識の失った少女に、罵声を浴びせて、今度は、少女の体を、石ころのように蹴りを浴びせ始めた。
「だせえーの」
「おい、こいつ、小便漏らしているぞ」
少女は、気を失いながら失禁をしたのだ。
「うわ、くっせい」
「こいつしょんべん女だ」
「これ生きていけないわ」
「死ね!」
「死ね!」
少女の体は泥だらけだった。人生でこれほどの屈辱があるか。
黒の集団の哄笑が暗天に向かって鳴り響いていた。
私はハッと目覚めた。全身に汗が噴き出していた。