4 チョコレートと猫と遠い道のり①
ちく、たく、と古めかしい壁掛け時計が、時を刻む音だけが耳に響く。
オートロックのガラス扉の向こうは、もうすっかり夜だった。
(どうしよう。アナスタシアさん、まだ帰って来ない……)
メイは八時半をまわってしまった時計を見やり、セーラー服のひざに置いた学生鞄を、神経質に置き直す。
アパートのロビー備えつけのソファはメイには立派すぎ、校長室にいるような気分だった。
それでもここにいるのは、メイなりの職業意識ゆえだ。
今日は用がない、と言われたけれど、せめてアナスタシアの帰りを待ち、状況をたずねるぐらいはしなければ、と思ったのである。それで部屋にもあがらず待ち始めたのだが……。
(今夜はもう帰らない……つもりかも。吸血鬼さんだから夜には強いんだろうし……)
メイは人通りの絶えた歩道を、ぼんやり見やる。
落ちつかなかった。
スカートのポケットの中で、課長にもらった弾丸がずっしりと存在を主張している。
夕方には、ふたりきりで会うなんて絶対ムリ、と感じたアナスタシアを、こうして待つことができるのは、確かにこの恐ろしい弾丸のおかげだと思う。
でも──
この状態はなぜか、アナスタシアを恐れていた状態よりなお、よくないような気がした。
「…………」
メイはぴかぴかのガラス扉越しに夜道をながめたまま、なんとなくポケットからプラスチック製の弾丸をつまみ出し、ソファの上に置いた。
握り、放し、もてあましてころころ転がす。
「ダメよ、メイ、せっかく課長さんが届けてくださったんだもの、大事にしなくちゃ……」
小声で自分を叱りながら、しかしメイはロビーに置かれたゴミ箱をちらっと見た。
(どこかに新聞紙、ないかしら)
この怖い弾丸を何重にもていねいにくるんで、こっそり──
捨ててしまいたい。
(ううん、誰かが拾ってなにかあったら大変だから、埋める方がいいかも……その前に分解したらきっともっと安全よね。でも……分解のしかたを間違ったら爆発したりして……あ!)
いつの間にか弾丸の捨て方を真剣に考えている自分に気づき、メイは息をのんだ。
恥ずかしさと申し訳なさに顔がかあっと熱くなる。
(課長はいつでも返却していいです、っておっしゃったのに、わたしったら……!)
しかし、それでもやっぱり捨ててしまいたい気持ちは、どうにもこうにもおさまらない。
メイは思わずつぶやいた。
「そうだわ、明日……朝一番で返しに行こう……!」
決めたとたんずっと気が軽くなり、メイはようやくほっと息をついた。
怖くてたまらない弾丸をそうっとポケットに戻し入れ、また、誰もいない夜道へ目をやる。
アナスタシアは今夜は、帰って来ないのかもしれない。でも、本気で去ってしまった破壊神よりはずっとまし、と思わずにはいられず、つい、切ないため息がもれる。
(どうしたら……戻って来てくれるかな)
まず泣き虫を直さなくちゃ。それから今すぐ、ものすごく強くなって……と、できもしないことを次々に数えあげかけて、メイはハッと、ある可能性に息をのんだ。
ポケットの中で絶大な威力を主張している、この弾丸を使って戦ったらどうだろう?
破壊神は最初から、どんな手を使ってもいいと言っている。
この弾丸にどれほど凄まじい威力があっても、卑怯とは言わないだろう。
だが。
メイはポケットの中の小さな弾丸に、破壊神を滅ぼすほどの威力があった場合を想像してしまいかけたとたん、必死で首をふって恐ろしいイメージを打ち消した。
「ダ……ダメっ! そんなの絶対ダメ! だ、だってそれじゃちっとも……わたしが強くなったわけじゃないし、そんな……」
動転してつぶやきながら、メイは重ねて愕然となる。
(ちょ、ちょっと待って! わ、わたし……)
確かに自分は、破壊神と戦う約束をした。
その約束をはたすつもりは今もじゅうぶんある、つもりだ。
しかし──今の今まで、自分が破壊神に勝つ可能性なんて一ミリも想像もできなかったので気づかなかったのだが──どう考えても、勝ちたくはなかった。
死の瞬間まで戦いをやめない夜叉神に勝つ方法は、恐らくただひとつ。
殺される前に殺すことだけだ。
しかし自分は破壊神に生きていてもらいたいのであって、殺したいのではない。
断じて違う。
(じゃあわたし……ウソ……ついちゃったんだ……?)
気づいたとたん、ぽろっと大粒の涙があふれた。
たとえこの先、どれほど強くなったとしても、勝つ気もなしに、破壊神の望むように「真剣に」戦えるとは思えなかった。
そんな半端な戦い方では満足してもらえないだろう。
だから、行ってしまったのだ……と考えると、もう多少のがんばりなどなんの役にも立たないような気がしてきて、いよいよ涙が止まらなくなる。
(でも……じゃあ……しんらさんを食べちゃったのは、なぜ?)
なにか根本的につじつまが合っていなかった。
それはわかるのだが、なんだかみんな知らないうちにいなくなってしまうような気がして、メイはたまらず泣き顔をうつむける。
その時、コンコン、とガラス扉をノックする音がした。
ハッと顔をあげると、
「タ、タクトさん?」
そこまでは誰でも入れる玄関口の郵便受けスペースに、キャラクターロゴの入ったTシャツにGパン、スポーツシューズといういでたちのクラス委員が立っているではないか。
メイはあわてて涙をぬぐい、鞄を手にオートロックのガラス扉から出た。
「な、な、なにかご用でしょうか?」
緊張のあまり硬い声できくメイに、タクトはあわててコンビニの袋をかかげて見せる。
「いやまあべつに用はないんだけど、実はオレんち、わりと近くでさ。ちょっと買いたいもんがあってそこのコンビニまで来たら神納さんらしき人が、その……見えたから」
ほんとうは「泣いてたから」と言おうとしたようだが、さすがに言えなかったようだ。ばつが悪そうに頬をかきながらアヒルにタコ、ブタやカエルそっくりの珍妙な百面相を始める。
「ご、ごめんなさ……すみません」
タクトの気遣いを察し、つい謝ってしまうメイに、タクトは素に戻って苦笑した。
「誰か待ってんの?」
無造作に核心を衝かれて、メイは「あ、はい」と目を伏せる。タクトはさらに苦笑した。
「晩メシは食ったん?」
「あ……いえ……」
「あーあ、昼も食ってなかったじゃん。ダイエット中なの? あ、それとももしかしてサイフ落としたんだ? 全財産入りのヤツをぽろっ、と!」
演技か本気か、野次馬精神に目をキラキラさせながら言われて、メイは反応に困る。
「そ、そういうわけじゃ……ありませんけど……」
「ンじゃあ、ちゃんと食いなよ。せっかく近くにコンビニあんだしさ、ぶしょーしないで」
メイが「はい……」と肩を縮めてうなずくと、それで会話の種は尽きてしまった。
タクトはあっさり切り上げてきびすを返す。
「じゃ! 元気出しなよ」
「はい、あ、ありがとうございました」
どこまでもしっかり者のクラス委員に激しく引け目を感じながら、メイはでも、本格的に泣き始める前に止めてもらえたことに心から感謝し、見送りに玄関を出ようとする。と、
(あ……!)
ミコが、アパート前の歩道に立っていた。
夏休みの研修途中でいなくなってしまったから、ずいぶん久しぶりだ。驚きよりなつかしさが先に立ち、かたわらにタクトがいるのも忘れてつい挨拶しそうになる。
「!?」
しかしミコは野性的なまなじりを吊り上げ肩を怒らせ、まっすぐ郵便受けスペースに突っこんでくるなり、いきなりメイの両の二の腕を、左右からがしっとわしづかみにした。
軽々と持ち上げられ足が床につかなくなってしまったメイは、面食らって声も出ない。
一方ミコは、金と白のメッシュの入った短髪を逆立て、鋭い牙をむいて怒鳴った。
「ちょいと虫っ! あんたこんなとこでなに優雅に、男たらしこんでんのさ!?」
「そっ、そんなことしてません! こ、この方はクラスの委員の方で、ただ通りすがりに……」
メイはけんめいに釈明しようとするが猫娘は、怒りもあらわに手に力をこめただけ。
腕が今にも握りつぶされそうにきしみ、しびれた指先から鞄がすべり落ちた。
メイはミコに、素手で人を八つ裂きにするだけの力があるのを初めて実感し、ぞっとなる。
とはいえ、不問に付される生き霊殺しならともかく、ミコにかぎってまさか人を殺すことまではしないと信じて、メイは無我夢中で訴えた。
「ミコさん! い、痛いです、放して……!」
しかしミコは答える代わりに、牙をむくライオン並みに濃密な殺気を放つ。
メイは思わず死を覚悟して目をつむったがそのとたん、ミコの恐ろしい握力が急にゆるみ、足が床についた。
へたりこんでしまいかけながら、メイはかろうじて踏みとどまってきく。
「な……なにかあったん……ですか?」
わけもなくミコがこんな無茶なことをするはずはない、と思ったのだがそこへ、
「神納さん! だ、大丈夫!?」
割りこんだタクトに、ミコはふたたび敵意に目をぎらつかせる。
しかし妖異の見えないタクトが気づくはずもない。タクトはメイの、半袖セーラー服のそでに血がにじんでいるのを見て顔色を変えた。見えない敵を探して身構えて、
「なんだってんだよ! あっ、さてはあの時缶を斬ったやつがいるんだな!?」
「ち、ちがいます、じゃなくてあのっ、な、なんでもありませんから……」
メイはミコの怒りがますます強まるのを感じ、泣きそうになってタクトをなだめる。が、
「なんでもないわけないじゃん、今、神納さん浮きあがって……ケガまでしたってのに!」
憤慨したタクトが今にもミコのいる方へ物でも投げつけ始めそうなのを見て取って、メイは必死で間に立ちはだかり、ミコを背後にかばった。
「そっ、それでもなんでもないんです! こ……この人はいい人ですからっ!」
(あ、言っちゃった……)
一瞬しまったと思ったが、おかげで胸につかえていたものが取れた心地がして、「いい人?」と異口同音に顔をしかめるタクトとミコに、メイは開き直ってうなずく。
「そうです! その、タクトさんには見えないかもしれませんけど、こちらにいるのは化け猫のミコさんって言います。いい人なんですよ! 助けてもらったこともあるんです。あ、ミコさん、こちらはタクトさん、転校先のクラス委員の方です」
ミコは生まれて初めて、妖怪が見えもしない人間に紹介され、無言で顔を引きつらせた。
あいかわらずなにも見えていないタクトも当然、納得しない。
「い……いい人って、そんな、だったらなんで神納さんにケガさせて……」
「そっ、それは猫だから! ほら、悪気なくてもひっかかれちゃうことってあるでしょう?」
「あのねえ!」
素直に「はい」とふり返るメイに、猫娘は怒る気力も失せたらしい。
頭痛をなだめるような手つきで額のわきをもみながら、深々とため息をついた。
「あんた、吸血鬼のお貴族さんのお守りしてなくていいのかい? 探してたなんとかいう花が咲いちまって、なんかトラブッてるらしいってのにさあ」
「えっ……?」
どきっと胸を押さえるメイに、ミコは思い入れたっぷりに身ぶりをまじえて続ける。
「あたいはさ、妙に強い霊気がただよってるんでちょいと様子見に行っただけだったんだよ。そしたらどっかの学校の裏にこおぉーんなでっかい花が咲いてて、その横で獣くさい大男どもが、おたおたしてるじゃないか。つい話しかけたらそいつらに、あんたを連れて来てくれーってすがりつかれちまって……ったく、いい迷惑だよっ!」
「そ……で、ア、アナスタシアさんは?」
「そんなことは行ってから確かめりゃいいだろっ。さァ来るのかい、来ないのかい」
「も、もちろん行きます!」
あわてて鞄をひろい、ミコについて行こうとするメイの手を、タクトがつかんで止めた。
「行くってどこへ!? 神納さん変なもんについてっちゃダメだ、絶対、たぶらかされてるよ!」
「ええと……だ、だから、その……」
メイは、いらだたしげに顔をしかめるミコと、真剣そのもののタクトの間で数瞬ためらう。
(ど、どのていどまでなら無関係な人に話してもいいんだっけ。ええっと、た、確か……)
「わたし実は、怪奇現象とか妖怪さんがらみの事件を担当する、警察官なんです」
規則の詳細をど忘れして思い出せず、ウソが苦手なメイはつい、バカ正直にぶちまけた。
タクトの表情豊かな顔にたちまち「マジ?」「こんな鈍い子がおまわりさん?」「作り話にしてもめちゃくちゃだ」「本気ならどっかおかしいのかも……」等々のもっともな疑いや心配が浮かぶ。メイは恥ずかしさに頬が熱くなったが、途中でやめるわけにもいかない。
「け、警察庁零課って言います。わたし、なりたての新米ですけど、あ、これが警察手帳で」
ごそごそと鞄の中を探し、支給された手帳を開いて見せた。
手帳が本物だと納得するにつれ、強まっていく驚きにぼうぜんとし始めるタクトに、メイは遅ればせながら口止めする。
「あ、で、でも、お願いですからこのことは誰にも言わないでくださいね! すみません、普通の人にはないしょってことになってるんです。お願いします」
「いつまでやってんだよ、早くしなっ!」
言われて「す、すみません」とふり向くと、ミコが、かっぱらってきたらしいお買い物自転車にまたがって待っていた。確かに、徒歩で行くと時間がかかる。
メイは覚悟を決めて鞄を抱き、ミコの後ろの荷台に恐る恐る腰かけた。
「じゃああのこれで、し、失礼します」
タクトに挨拶を終えるより速く、ミコはすごい勢いで自転車をこぎ出し、ふり落とされそうになったメイはあわてて、猫娘の引き締まったウェストにしがみつく。
あぜんと立ちつくすタクトの姿は、あっという間に見えなくなった。
◆
眼鏡も鞄も落とさずにすんだのは、たぶん奇跡にちがいない。
なにしろミコときたら信号なんか見もしないし、対向車線も平気で横切る。
何度もクラクションや罵声を浴び、車すれすれをかすめて寿命が縮む思いをし──真っ暗な校舎の裏手でやっと自転車から降りた時には、ひざががくがくしていた。
しかしミコは平然と自転車を乗り捨て、さっさと校内へ入って行く。
「ミ、ミコさん、待って!」
メイは震える手で鞄をつかみ直し、転びそうになりながらあとを追った。なぜか施錠されていない裏門を抜け、街灯の光の届かない暗がりを、おっかなびっくり進む。
「こっちだよ、早く来な!」
ミコの声をたよりに、メイはけんめいに足を早めた。
校舎も体育館も真っ暗で、どこを見てもオバケが出そう。でもアナスタシアの気配はない。
「バカ! こっちだってんのに、ほんっと、とろくさいヤツだねっ!」
「あ、はい、すみませ……」
ミコの姿を見失い、真っ暗な渡り廊下をびくびくとのぞきこんでいたメイは、あわてて声の方をふり返り、あっとのけぞった。
ミコの首と手だけが、宙に浮いて手招いている。
「なにびびってんのさ!」
ミコがこちらに身を乗り出すとすぐ胴があらわれ、腰と足もちらっと見えた。
どうやら空中に、一定ラインから先を不可視にする場のようなものがあるようだ。
驚く間もなくミコに腕をつかまれ、足がもつれるほどの勢いで場の内側にひきこまれる。
そのとたん、青い、宝石を溶かしたような光が顔を照らし、
「!」
メイは、息をのんだ。
絵本でしか見たことのない魔法陣が、神秘的な真珠色の光を放っている。
その円いっぱいに、夢のように美しい植物が生い茂っていた。
夜風にそよぎ月光をはねちらす葉は、一枚一枚が青銅の鏡のよう。
不思議な茂みの真ん中には、メイの背丈ほどもある、大きな青い花が咲いている。
かたちは睡蓮に似ていた。
かすかに首をかしげ月を見あげているような巨大な花の芯からは、花粉だろうか、夜空へ向かってきらきらと、金にきらめく光粉がたちのぼっている。
意識を吸いこまれそうな、とほうもない青さをたたえた大きな花は、なぜかほほ笑んでいるように見えた。どんな吸血鬼、いや不死族よりもなまめかしく、ぞくぞくするほど魅惑的だ。
ミコでさえ異界の妖花を前に、気味悪そうに首をすくめて沈黙していた。
おかげでメイは魔法陣のわきに倒れている獣人従者ふたりに気づく余裕ができ、
「?」
駆け寄りかけてやっと、なにかおかしいということに気づいた。
魔法陣を描いたのはたぶんアナスタシアだという気がした。
青い花はきちんと魔法陣におさまって咲き、不可視の結界に包まれている。
アナスタシアがいないこともふくめ、花に関しては予定外の問題が起きたようには見えなかった。獣人従者が倒れていることをのぞけば。
(ううん、眠らされてることをのぞけば……?)
大男ふたりが軽く、のどかないびきをかいているのに気づいてメイは考えを訂正する。
花から妖怪を眠らせるなにかが出たとしたら、ミコも眠ってしまったはずだ。
第一、良くも悪くも自由気ままなミコが、そんな危険な場所に自分から戻るはずがない。
(あ……!)
メイはその時、獣人従者の手のそばに、くしゃくしゃになった銀紙が落ちているのに気づいた。裏は銀色、おもては赤い。どうやら高級なチョコレートの包み紙のようだ。
「ああもうっ、何度見ても気色の悪い花だよ! さァあんた、とっととその花に入りな!」
我に返ったミコにせかされ、メイはあっけにとられてきき返す。
「は、花に入る……んですか? でもどうやって?」
「そんなこと知るもんか! 吸血鬼のお貴族さんも入ったってんだから入れるんだろっ」
「アナスタシアさんも? じゃあ、入れそうですね」
「そうゆうこと! だからほらっ、早く入っちまいなって!」
ミコはいらだたしげにメイの腕をつかみ、茂みをかきわけて花の方へ向かう。
メイはおとなしくひっぱられながらたずねた。
「それでミコさん、あの……ホントはどういうことなんでしょう?」
「ホ……ホントはって、なっ、な、なんのこと……」
ミコは、不意を衝かれた猫そっくりに髪を逆立て、目を真っ黒にしてふり返った。
おかげでメイは、ミコさんって意外と根は正直者なのかも……と場違いな感想を抱く。
「おっ、おかしな言いがかりつけてんじゃないよっ! あたいがせっかくこいつらのたのみを聞いて、わざわざニブちんのあんたを案内までしてきてやったってぇのに……」
夜闇に目を金に光らせてまくしたてる猫娘に、メイは言った。
「でもミコさん、このひとたち、わたしのことなんか全然あてにしてなかったんですよ」
「そっ、そりゃまあ……そーだろーけどさ」
「でしょう? だからホントに困った時に、わたしを呼ぶなんてまずないと思います。それぐらいなら零課に直接、協力要請した方がいいもの」
「そ、そんなことあたいに言われても、あたいはこいつらの考えなんかわかんないし……」
「それにミコさんもしかして、この人たちに眠り薬とか食べさせませんでした?」
きいたとたんミコの大きな瞳が一瞬、猫の本性をあらわして針のようにすぼまる。
どっとあふれた殺気にひるみ、メイはあわてて言い足した。
「あ、か、勘違いだったらごめんなさい! でもあの、お菓子の包み紙みたいなものが……」
「それがなんだってんだよ!」
ミコは妖花の青い光に牙を光らせて叫び、メイを突き放して地団駄を踏んだ。化け猫の怪力で踏まれた地面が、大きなハンマーで突き固めたみたいにへこんでいくのもかまわず、
「ちくしょうっ、もう少しだったのにっ! 鈍いくせにつまんないことに感づきやがってっ」
死ぬほど悔しそうに毒づいた。しかし次の瞬間、その大きな瞳が見る間に思いつめたような涙でうるんでいくのを見て、メイはどうしていいかわからなくなる。
「あの、あの、ミコさん、いったいどうして……」
なぐさめようと口を開きかけたとたん、ミコが憎々しげにわめいた。
「天魔王様はご病気なんだ!」
「え……?」
天魔王、と言えば確か破壊神のこと、と思い当たって、メイはどきっとする。
ミコは見る間に顔をくしゃくしゃにし、
「まさか……まさかあの方が謝ったりするなんて……ヘ、ヘンだと思ったんだよう!」
しゃくりあげ、涙をぼろぼろこぼして手放しに泣きだした。
「ど、どういうことなんですか? お願いミコさん、教えてください! ね、教えて」
メイは嗚咽する猫娘の背を遠慮がちにさすりながら、必死でたずねる。
その真剣さが通じたのか、あるいは、メイを花に入らせるつもりがうまくいかなかったことで、もう全部あきらめてしまったのかもしれない。
ミコは涙に汚れた顔を不器用にぬぐい、むっつりと口を開いた。
「スサノオ様がさあ、珠貴様を狩りにいらしたんだよ」
「えっ……あ、あの、蛇の女神様を!?」
しんら同様、どちらかといえば仲は良さそうだったのに、と胸の痛む思いをするメイをよそに、ミコは重いため息をつく。
「なのに、途中でまわりの物壊すの、おやめになっちゃってさ……しかも珠貴様に謝ったんだ。『悪かった』って……! あたいも珠貴様も、度肝抜かれてさ」
確かに破壊神が誰かに謝る、というのは想像しにくい。とはいえ、
「あの……そ、それってそんなに、みんなして驚くほど異常なことなんですか?」
思わずきいてしまうメイに、ミコは声を荒げた。
「異常に決まってんだろバカ! 夜叉神様が謝るなんて、それも狩ろうとした相手に謝るなんて……そりゃもう火がそのへんの紙くずに燃やしてごめんて謝るぐらいヘンなことだよっ!」
自分で言っておいて、実に核心を突いたたとえだと納得した様子で何度もうなずく。それで少しは気が落ちついたらしくやっと背筋を伸ばし、不機嫌に語を継いだ。
「そのうえなんか、誰かに勝つ方法がどうとか、天魔王様らしくないことばっかりおっしゃるし、右腕がなんか火傷したみたいになってて治らないみたいだし……」
そこまで聞いてメイはふたたびどきっとする。
そういえば最後に会った晩、破壊神の右手を見た覚えがなかった。ずっと肩布の陰になっていたような……隠していたのだろうか?
「あげくスサノオ様は珠貴様の薬を使って消えちまうし、珠貴様までヘンになってまわりを石にし始めたんで、あわてて逃げ出したんだ。でも逃げる途中でよそ者の化け猫に会って……そいつ、水占いの得意なインテリでさ、エサ場とか地元の習慣とかいろいろ教えてやったらお返しにって言って、あたいのグチも親身に聞いてくれてさあ」
ミコは新たにこみあげてきた涙に、ぐすっ、と鼻をすすりあげて続けた。
「お、教えてくれたんだ。今夜、ここに咲く特別な花に、天魔王様と契約してる人間が入れば、それで天魔王様はもとどおりになられるって! だからあたい……なのに……」
涙をいっぱい浮かべた目で恨みがましくメイをにらみ、ミコは破れかぶれでわめく。
「なんだよバカ虫っ! 吸血鬼のお貴族さんが花に入ったってのはべつにウソじゃないし、もともとあんたの仕事はお貴族さんの手伝いなんだろ!? 花に入るぐらい簡単じゃないかっ、ほらあっ、とっとと行っ……」
行っちまいな! と続けようとした語尾が宙に消えたのは、メイのどこか幼さの残る顔が、無邪気なほど純粋な、まじりっけなしの感謝に輝いたからだった。
「ミコさん、ありがとう」
「え……えっ!?」
たじろぐ猫娘に、メイは嬉しさのあまり、勢いこんでくり返す。
「わたし、知らなかったから! 教えてくださってホントにありがとう!」
あっけにとられて声もないミコに明るく手をふると、メイは大きな鏡みたいな葉をいそいそとかきわけ、青い妖花に歩み寄った。
(良かった! わたしでも、スサノオの役に立てるかもしれないなんて……!)
そう思うだけで、驚くほど胸が軽い。
もしかすると破壊神が去ったのだって、自分のふがいなさに愛想を尽かしたからではなく、その不調のせいかもしれない。しかもその不調は、自分が花に入るだけで復調するのだと言うのだから、こんなに嬉しいことはなかった。
あんまり喜んでいたので、メイはそれ以上深く考えず、青い花に手を伸ばす。
(でも……どうやったら花の中になんか入れるのかしら? べつに穴なんかどこにも開いてないし……よじ登るのはちょっと大変そうよね)
思ううちに、美しい花びらのふちに指先が触れた。
暖かいのにつめたい、不可思議な感触に目をみはるより早く、さあっと、まぶしいほど強い青い光が視野いっぱいに広がり、
「!」
思わず顔の前に手をかざし、一歩後ずさりかけて、メイは仰天した。
青い花が、ない。
青銅の鏡のような葉の茂みも、神秘的な魔法陣も見当たらなかった。
それどころか校舎も渡り廊下も、月の輝いていた夜空まで消え失せ、青い光が霧のようにたなびく空間だけが、がらんと広がっている。
足もとはいつの間にか土ではなくなり、黒い石のタイルが一面に敷き詰められていた。
たゆたう水のような青い光の中、神殿めいた柱がずらりと列をなしている。見あげると、柱ははてしなく、ありえないほど高く薄闇の向こうにかすんでいて、天井は見えなかった。
生き物の気配はない。
そこここにわだかまる影はと見れば、みな骸。人や獣、そして、そのどちらでもない異様な生き物の骨が、朽ちた衣服や鎧をまとって積み重なっているのだった。
メイは思わず鞄を抱きしめ、来た道をふり返る。
しかし背後の眺めも同じだった。帰り道はないようだ──。
そう確認してようやく、なにも考えずに入って来てしまったことを少しだけ後悔し、メイはぞくっと肩をすくめる。その時、
「?」
どこか遠くでかすかに、タクトの声と、ミコの悲鳴が聞こえたかと思うと、
「きゃっ!」
メイは背中から思いきり突き飛ばされて転んだ。
4 チョコレートと猫と遠い道のり②へ続く
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