3 黄昏に咲く③
同じ頃。
とうに校門も閉まり、ひとけの絶えた校舎裏で、魔術が行われようとしていた。
体育館と校舎、渡り廊下に囲まれた、人目も夕陽も届かぬほの暗い一角で、地面にチョークを走らせているのはアナスタシアだ。
太く長いおさげが土をこするのもかまわず地べたにひざをつき、複雑な線や象徴をすばやく描き連ねていく。若草色の瞳は真剣そのものだ。
重厚な銀の刺繍がほどこされた、膝丈の黒いドレスを身につけていた。細い足には編み上げ式の乗馬ブーツを履き、ふだんよりなお痩せて見える。
最後のひと文字を記し終え、立ちあがった。
「火を」
わきにひかえていた黒服の獣人従者ふたりが、周囲の燭台に火を入れる。
燃えあがる青い炎に浮かびあがったのは、直径五メートルほどの魔法陣であった。
「人間よけの手配は万全?」
品良くひざの埃をはらいながらきく赤毛の吸血公女に、獣人従者は直立不動で答える。
「問題ありません。ご命令どおり、例の零課の娘にも見つからぬよういたしました」
「よろしい」
そばかすの吸血公女は完成した魔法陣に向き直ると右手をさしのべ、高らかに唱えた。
「我、アナスタシア・ドラクルと我が祖、偉大なる夜の女神ヘカテーの名によって命じます。汝、地の底深く秘されしものよ、すみやかに正統なる持ち主の手に帰り来よ」
不死族の魔力の発揮によって一瞬、若草色の瞳に赤光がひらめき、肌も白さを増す。
空にはまだ夕陽の輝きが残っているのにあたりに真夜中の風が巻き起こり、木々の梢が不吉にざわめいた。チョークで描かれた魔法陣が、真珠色の光を放って輝き出す。
「ど、どちらの種が埋まっているのでしょうか」
緊張した獣人従者のひとりが思わず口を開いて、相棒ににらまれた。アナスタシアは気にせず、魔法陣の上の空間が水のように波打ち始めるのを見守りながら答える。
「どちらでもかまいませんわ。〈眠り〉の種でも〈死〉の種でも……ふたつは対、あまり離して置くことはできませんの。片方が見つかれば、もう一方も近くにあるということです」
アナスタシアは昨夜から今日の昼にかけて、メイには知らせず、ひとりで敷地内をしらみつぶしに調べ、地底深くに種のひとつが埋まっていることをつきとめたのだった。
「それにしてもいったい何者が種を盗んだのか……」
とつぶやいたアナスタシアは、すでに種を回収し終えたような面もちだったが、波打つ空間からぽとりと産み落とされた物を見て、ハッと顔色を変える。
「発芽している……!」
魔法陣の真ん中に落ち、薄青く透きとおってうごめくそれは、もはや種ではなかった。
みるみるうちになまめかしい蔓が土を愛撫するように八方へ伸び広がり、青銅の鏡に似た葉がきららかに生い茂る。中央に柱めいて大きく太く育ってゆくのは濃い青のつぼみだ。
古代の女神そのものがよみがえったかのような、巨大な霊気がふくれあがって魔法陣の光がまたたいた。燭台の炎も吹き消されんばかりになびく。
「で、殿下っ!」
主人を守るため前に出ようとする獣人従者を、アナスタシアは手を挙げて制した。
「おさがり! これは〈眠り〉の花、うかつに触れると取りこまれてしまいますわよ」
「で、では、どうすれば……!?」
「アウレリウスの『妖物大系』によれば、発芽した〈眠り〉の開花を止める方法はない……そして誰かが犠牲となって花に触れぬかぎり、二度と種には戻らないそうよ」
と告げながら、そばかすの吸血公女はしかし、うろたえる従者たちをよそに不敵な微笑を浮かべる。夢にまでしみこみそうに青い〈眠り〉の花のつぼみがゆっくりとゆるみ、幾重にも重なった美しい花弁が整然と開いていくのを楽しげに見つめながら、語を継いだ。
「でもこの花こそ、女神ヘカテーの宮殿への入り口だとも書かれていたわ。『青き花を通り、かの地に至ればかなわざる望みなし。ただし無事帰還せし者は希有なり』と。人間も妖怪も欲しがるけれど、争いを招くばかりで役に立たないから封印したのです。でも興味深いこと」
アナスタシアは細い人さし指をくちびるにあて、微笑をふくんだまま小首をかしげる。
「ふたつの種を盗んだ誰かさんは、すべての望みをかなえるこちらの種は、隠しただけで使わなかったのね。では欲しかったのは〈死〉の種の方? あんなもの、いったいなんに使ったのかしら?」
その時、日没とともに開ききった〈眠り〉の花が、青い花びらから金粉めいた光の粒をまきちらした。香りの代わりに薄青い微光がふくよかに、魔法陣いっぱいにあふれ出す。
「でっ、で、では私めが花に触れますので殿下はどうか、種の封印を……」
覚悟を決めた顔で獣人従者のひとりがぎくしゃくと進み出た。あわてて「い、いやその役目は私が!」と言う相棒と、先を争ってもみあう。
アナスタシアは苦笑してふたりを止めた。
「おバカさんたち! せっかく『すべての望みをかなえる場所』への扉が開いたというのに、ただ犠牲を捧げて封印するだけだなんてとんでもありませんわ! 利用しなくては」
「……は? り、利用、ですか?」
「わたくしがヘカテーの宮殿へ入ってその力で〈死〉の種を回収し、帰ってくればなにも無駄にならないわ。おまえたちはここで、邪魔が入らないよう花の見張りをしていなさい」
言うなり青銅の茂みに踏み入る無謀な女主人を、従者たちはあわてて左右からひきとめる。
「お、お待ちを! おっ、恐れながら叔父君の罠かもしれませんっ」
「ありうることです! 叔父君が公国の領主の座を狙っておられるのは周知の事実!〈眠り〉の種で殿下を誘い、帰れぬ場所に追い払おうという算段なのかも……」
「あら、わたくしは領主の座なんて、いつでも叔父上におゆずりしてかまいませんのよ」
痩身の吸血公女は優雅な身震いひとつで、ごつい獣人従者ふたりをあっさりふりほどいた。
軽々と吹っ飛ばされしりもちをつく従者たちに、いたずらっぽい笑みを向ける。
「おまえたちも連れて行ってあげたいけれど、足手まといになりそうだから、また今度ね」
圧倒的力量差を見せつけられてなお、獣人従者たちは必死に言いつのる。
「し、しかしそれなら……そうです! どうしてこの事態を零課の娘に知らせないのです?」
「駆け出しのあの娘は役に立たずとも、零課に連絡させればもっと経験のある者が……」
「おだまり! メイにこのことを知らせたりしたら、首をはねますよ」
たちまちしおれる従者たちに、吸血公女は声音をやわらげた。
「おまえたちでも生きて帰れないかもしれないのに、長生きしてせいぜい百年の人間の霊能者なんて、経験があろうとなかろうと、どうせお荷物になるだけですわ。いいこと、特にあの子はいずれ、モノにする予定ですの、おせっかいに入って来られて死なれては困りますのよ。ふたりとも真面目にここで番をして、朝まで何者も中へ入れないこと! いいわね?」
命じておいて、手際よく茂みをかきわけ、今度こそまっすぐ青い花へ向かう。
「あ、朝までですか? では……そ、そのあとはいかがいたしましょう」
一秒でも長くひきとめようと、勇気をふりしぼってきく大男の従者に、アナスタシアは花へ手を伸ばしながら、愛でるような笑みを向けた。
「誰かが入りさえすれば、〈眠り〉の花は朝日に当たってしぼみ、すぐ種に戻るそうよ。わたくしが帰らなかったら、おまえたちが種を国へ持ち帰りなさいな」
「そっ、そんな……!」
アナスタシアはそれ以上の抗議には耳を貸さず、うやうやしく青い花に触れる。
そのとたん、赤毛の吸血公女は光のオーロラとなってほどけ──消失した。
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