3 黄昏に咲く②
駅前交差点周辺では、数時間前から奇妙なことが起き続けていた。
たとえば昼すぎ、横断歩道わきのやぶに隠れて死を待っていた病気の猫が、歩く気力を取り戻して立ち去った。その真上、街灯と同じ高さに掲げられた大きな路線標識板の上に、羽根の抜けたハトや痩せたスズメが次々やってくるのも妙だった。場所を争っていさかうこともなく、温泉にでも入っているかのように行儀良く並んで休み、妙に元気になって飛び去る。
歩行者もドライバーもふだんより気が短く、絶えず小さなトラブルが発生していた。
しかも今日はなぜか、ふだんの負け組に分があるようだ。
バイクに当て逃げされそうになった気の弱そうな女性ドライバーでさえ、堂々と相手をひきとめ警察に通報、きちんと事故処理することに成功した。
一方、道ばたのベンチで一日中、鞄をかかえ、うなだれてすわっていた男性も、つい先ほど突然すっくと立ち上がった。「よし、言うぞ! 言ってすっきりするぞ!」誰になにを言うのか知らないが、気負い立って駅へ向かった。
今や鳥たちはねぐらに帰り、ヘッドライトとテールライトの行き交う大通りの向こうでは、太陽が赤々と、西の空を燃やして沈もうとしている。
「…………」
破壊神は標識板に腰かけて、見るともなく夕陽をながめていた。
まわりで起きていることなど、目にも入っていない。
にもかかわらずさっきから漠然と、こんなに人間の多いところに居座るのはよくないかもしれないな、と感じていた。
「……なんでいけねえんだ」
ムッとして思わず、声に出して反論する。
メイが目立つなと言ったから? それこそバカバカしかった。もうなんの関係もない相手の言うことなど、気にかける必要も意味もない。あるわけがない。
「人の多いところにいようが少ないところにいようが、俺の勝手だ……!」
不機嫌につぶやいたが、どうもすっきりしなかった。
なにかがとてつもなく、不快だ。
ロキの毒にあたってただれた右腕は、一日たってもまだ灼けるようにうずき続けていた。不快さの少なくとも半分は、しんらのせいのような気がして、破壊神は銀の目を細める。
(くそ! いてもいなくてもうっとうしいやつめ)
思ってしまったとたん、しかし、わけのわからない不快感はかえって勢いを増した。
無言でいらだつ暗黒神の手の下で、標識を支える鉄柱がゆっくりと錆び始める。
メイのそばを離れてだいぶたつのに、骨を噛むような飢えの感覚が戻って来ないのも──それ自体は悪いことではないのだが──わけもなく不快だった。
生き霊だった時のメイが逃げ出した時は、すぐに飢えが戻ってきたのに、こっちが見捨てた今は、一日以上離れていてもなにも起きない。
よくわからないがこれではまるで──
メイがまだそばにいるかのようだ、という奇妙な考えに破壊神はひるんだ。
その時ようやく、数時間前からずっと、メイやしんらのことばかり考えている自分に気づいて、さらに動揺する。
死んで、いなくなってしまった妖怪の一匹ぐらい、どうでもいいではないか。
どうせいつかは食うつもりだったのだから、ロキの悪ふざけのせいで多少時期が早まったぐらいなんでもない。すんでしまえばそれまでのことだ。
まして、手に入らないと決まった獲物のことなど考える価値もない……はずだ。
「…………」
だがふりはらおうとするそばから、捨ててきた時のメイの、今までで一番苦かった最悪の悲しみぶりを思い出してしまい、破壊神はいらだちの代わりになぜか、深い困惑を覚えた。
いまだによくわからない。
いったい昨夜、自分はあの場所になにをしに行ったのか。
結果を見るかぎり、単に、メイを悲しませに行っただけのように思えるが、
「違う」
反射的に否定したとたん、毒に冒された右腕以外のどこかが、嫌なうずき方をした。
そうじゃない。
そうではなく……ではなにがしたかったのか?
怒りになりきらずにくすぶる激しいいらだちにかられ、破壊神は自分の動機をつきとめようとムキになって考える。
しんらを食ってしまったことを断りに行った?
バカな! そんなことをしてもメイは泣くだけだ。それぐらいわかっている。
しかし、立ち去ることを告げに行ったというのも同じぐらいバカバカしい。ではなぜ……。
「!」
不意に、破壊神は自分がたぶん、したかったことを自覚した。
ロキと出会った時しんらに対してしようとしたように、メイを追い払ってしまいたかったのだ。どこか遠く……恐らくは、ロキの手が届かないところに。
しかし、人間の行けるところでロキの行けないところなど、ない。
すなわち、メイをロキに横取りされないために、できることなどなにもないのだ。
わかっていたから、なにもせずにあの場をあとにした──。
そう理解したとたん、存在を逆なでされるような絶大な不快感とともに、破壊神はかつて経験したことも想像したこともない、恐ろしく異質な憤怒を覚えた。
その怒りは、どこへもあふれていこうとしない。
ぶつける対象は外にないらしい、と気づいて戦神である破壊神は心底、戸惑ったが、次の瞬間、自分が、他ならぬ自分自身に腹を立てているのに気づいて、驚愕した。
生まれてこの方、自分に腹を立てたことなどなかったからだ。
その怒りは実のところ、人間が無力感と呼ぶ感情にかぎりなく近いものだった。
しかし、死も裏切りも平然と受け入れ、手に入らないものには執着せず、そもそも生きられるだけは生きるという以外、これといってなにも望むことなく生きてきた無情の神に、そんなこみいった感情がすぐ理解できるわけがない。
「…………」
行き交う車の列を無関心に見おろす破壊神の白銀の瞳が、行き場のない殺気に濁った。
人間なら泣くか、絶望すればそれですむ。
しかし夜叉神の中の夜叉神は、不慣れな怒りをもてあますあまり、今にも衝動的に自分の刃を自分に向けて放ちそうになる。その時、
「……?」
ごく近くであがった幼児の、ひどく苦い恐怖の泣き声が破壊神の注意をひいた。
見ると、よちよち歩きの幼い男の子が、通りの中ほどで転んでわあわあ泣いている。
栄養のゆきわたった血色のいい顔をしているくせに、このままでは死ぬと信じているような、あきれるほどせっぱつまった泣き方だった。
「うわああああん、おにいちゃあああん」
だが、歩く者に道を渡ることを許可するらしい灯りの色は、まだ青だ。
つまり安全なのであり、仲間としゃべりながら先に通りを渡り終えた兄らしき子どもは、「なにやってんだ、早く来いよ!」とめんどうくさそうにせかすだけ。
破壊神もまったく同感だった。
苦いからさっさと失せろ、と思いながら、ここにメイがいればきっと、おせっかいにも助けて道を渡らせてやっているんだろうなと想像してしまい、ますます不愉快になる。
しかし幼児は立ちあがろうともせず、べったり座りこんだまま泣き続け、と、そこへ、
「……!」
信号を無視したのか、あるいは右折許可の信号が青の間にすべりこもうと急いだのか。
いずれにしても破壊神の理解のおよばない複雑な理由で、歩く者が渡っていていいはずの場所にかなりのスピードで、車が一台突っこんできた。
幼児はヘッドライトの強い光を横から浴びてぽかんとふりむき、死の予感が現実のものになろうとしていることに気づいて凍りついた。
同時に車の中でもドライバーが、路上の小さな障害物が幼児なのに気づき、総毛立った。無我夢中でブレーキを踏んだが、停まりきれないと悟ってこれまた絶望する。
事ことにいたってやっと、幼児の兄とその仲間たち、そして道行く人間のうちの何人かが目の前で惨事が起きかけていることを悟り、あっと立ちすくんだ。
しかし破壊神から見れば、車など速いうちに入らない。
あたりを満たすさまざまな絶望の、強烈な苦さに閉口しながら、最初の数瞬は転んだ幼児相手に(今立ちあがって一歩後ろにさがればぶつからんぞ、早くよけろバカ!)と考えていらいらし、次の数瞬は、もういないしんらが後ろで、早く助けてやりませんかとおろおろしているような気がしてさらにいらだつ間があるほど、物事の進行はゆっくりに見えた。
なのに人間たちにとって事故はもう起きてしまったも同然らしく、誰も、今にも轢かれそうな幼児本人もふくめて、なにひとつ行動を起こそうとしない──。
「ちっ」
破壊神は衝動的に標識から飛び降り、許しがたいほどグズな幼児の服の背のあたりを無造作にひっつかむと、突っこんでくる車の進路からどかした。
車は車輪から煙とつんざくような騒音をあげ、だいぶ通り過ぎてようやく停まる。
破壊神は、片手にぶらさげた幼児を荷物のようにぞんざいに突き放した。
とはいえよちよち歩きの幼児が転びもせず、よたつきはしたもののちゃんと着地したのだから、夜叉神としてはありえないほど気を遣ったと言えよう。
いや、ありえないと言えば、夜叉神が通りすがりの赤の他人の命を救うこと自体、月が熱を放つよりありえないことだったが、破壊神はあまりにいらだっていたので気づかなかった。
まだ幼児を轢いてしまったと信じて車内で震えている男の絶望や、今さらのように悲鳴をあげる通行人たちの恐怖を嫌って、そのまま飛び去ろうとする。が、
「おにいちゃん、だれ? がいこくのひと?」
きょとんと見あげている幼児に気づき、ぎょっと足を止めた。
一瞬、鈍い人間が存在に気づくほど、目立ってしまったらしい、と後悔したが、すぐにそんなことはどうでも良くなり、
「このドアホウ!」
見えるならこれ幸いとばかり、さっきからのいらだちを遠慮なく爆発させる。
「泣いてるヒマがあったらとっととてめえの足で歩きやがれっ! 助けなんか待ってるな!!」
戦神の怒号には落雷に匹敵する迫力があったが、命を救われた幼児は動じなかった。それどころかムッと幼い口をとがらせ、一人前に口答えする。
「だって! おにいちゃんあしがはやいんだもん。どんどんさきに、いっちゃうんだもん」
「それがどうした、そんなのぁ今だけのことだ! おまえら人間はみんなあっという間におとなになって、そうなってみりゃあ、今度はおまえの方が足が速いかもしれねえんだぞ!」
いらいらと言い返した瞬間、不意に、破壊神の中で怒りが消滅した。
幼児が死なずにすみ、図々しい口をきいている現状が妙に心楽しいのを意識したとたん、自分はできればしんらも、こんなふうにしてやりたかったのだと気づいたからだ。
愕然とした。
どうでもよくなどなかった。
なぜかはよくわからないが、あのうっとうしい鬼は食ってしまうより、生かしてバカを言わせておく方が価値があったらしい。
もちろんメイも、芯まで苦くされるより今のままの方がいいに決まっている。だが──。
心の中が急に耐えがたいほどうつろになり、やけに苦い、もしロキが近くにいれば小躍りするに違いないような、なにかとても嫌な感情が、どこかからわいてきかける。
気配の変化を敏感に察した幼児が、心配そうにきいた。
「どっかいたいの?」
「うるさい」
みずからがもっとも忌み嫌う、絶望寸前の無力感にとりつかれながら、破壊神は呼び止めようとする幼児を見もせずきびすを返す。
幼児に駆け寄ってくる人間たちを無意識にかわし、日暮れの道を当てもなく歩きだした破壊神はその時忽然と、異質な考えを抱いた。
(強くなりたい)
生まれながらに最強の戦神、変化とも成長とも無縁の存在にとって、それは天変地異にもひとしい異常な思考だった。もっと強く、と望むということはすなわち、おのれの弱さ、不完全さを認めてしまうことであり、夜叉神の本質に反する。
しかし、その思考の秘める危うい可能性はかえって、暗黒神の気に入った。
破壊神はたちまち白銀の瞳にしたたかな光をよみがえらせ、方法を検討にかかる。
強くなるのはいい。しかしロキとの相性は最悪、ただ強くなるだけでは永久に勝てない。
必要なのは──。
(新しい力だ)
持ったことのない力、たぶん想像したこともない能力がいる。
そう判断すると同時に、破壊神は新しい力を手に入れるための、もっともシンプルな方法を見いだしていた。
簡単なことだ。
誰でもいい、誰か強い妖怪の霊玉を奪って食えばいい。そうすれば破壊神の霊玉を食べた龍が不死になったように、なにか今までなかった能力を得る可能性がある。
もっとも相手が自分にくらべてあまり弱いとうまくいかない、と聞いたことがあった。
実際、破壊神は今まで、他者の霊玉から異なる能力を得たことはない。が、
「……あいつなら、いけるかもしれねえな」
存在そのものが根本的に無慈悲にできている破壊神は平然と、この国に住む顔見知りの中から獲物を選ぶと、いそいそと夕焼けに燃える空へ飛び立った。
◆
「おとな、二枚」
ごぼごぼと泥沼の底から響くような声とともに、分厚い冬物の手袋をはめた手が、受付テーブルに、金の小粒を落とす。
「いらっしゃいませ! 最前列右手にまだ空きがございます。お好きなお席へどうぞ」
ミコは愛嬌たっぷりに応対しながらさっと金の粒を取り、チケットを差し出した。
冬物のオーバーのえりを立て、目深に帽子をかぶった客は、ぶくぶくと礼の言葉らしき音を吐き出し、おもむろに店内へ向かう。ちらっと帽子の陰に見えた横顔は太りすぎのサンショウウオといった感じで、厚手のオーバーのすそからも湿ったしっぽが伸びていた。
年寄り両生類に九月の日本は寒すぎるらしい。
連れはすらりと背の高い細身の女で、これも寒がりなのか、豪華なヒョウの毛皮を着こんでいた。つば広のしゃれた帽子の陰から見えた顔は植物の蔓と花とでできていて、ミコが化け猫であることを見抜いたらしく、毛並みを品定めするような笑みを残して店内へ去る。
なにも気づかない人間のガードマンの横で防音扉がはたり、と柔らかく閉まった。
とたんにミコは営業スマイルをひっこめ、白と金色のメッシュの入った短い髪を逆立てて、フーッ、と猫そのものの怒りの声をもらす。
「ハン! これ見よがしに猫の毛皮なんか着やがってヤな女っ! 化け猫のあたいがツタ女なんかに毛皮むかれると思ってんのかいっ! バラして燃してやるからかかってきなっ!」
黒いマニキュアを塗った爪で受付テーブルをひっかくが、大事なお客にケンカを売るわけにはいかないから口だけだ。ミコはため息とともに肩を落とし、テーブルにつっぷした。
「……あー、退屈だあ」
黒と金のアイシャドウにいろどられた、野性的な瞳がもの悲しげに曇る。
細身だがグラマーな猫娘は、耳に何十個もピアスをし、黒のビスチェにおへその見える超ミニスカート、金物をじゃらじゃらぶらさげた革ジャンという出で立ちだった。すらりと伸びた足には最近入手したばかりのアーミーブーツを履いている。もちろん全部盗品だ。
夏の中頃までは、破壊神の近くにいたいばかりに、メイやしんらという邪魔者にも零課の研修所などという恐ろしい場所柄にもめげず、いちずに追っかけをやっていたのだが──。
実地研修とやらが始まり、メイがあちこちに出張するようになって、急に熱が冷めた。
「フンだ! なにさ、あんなチビでグズな女……」
アーミーブーツを履いた足で貧乏揺すりしながら、ミコは悔しそうにつぶやく。
メイなどどのみち、破壊神に食われてしまう人間だ。夜叉神の中の夜叉神、天魔王の異名を持つ名うての無慈悲な神が、獲物に妙な感情など抱くはずはない。
それはよくわかっているのだが、しかし、文句は言いつつも、決してある程度以上メイから離れようとしない破壊神を見ていると、いたたまれなかったのだった。
それで追っかけをやめ、蛇女神の珠貴の店に舞い戻って、妖怪客相手にチケットを売るバイトを再開した。とはいえ、もうひと月たってしまった。
「どーせ、あたいのことなんか、とっくに忘れてらっしゃるんだろーけどさ……」
ミコはテーブルにつっぷしたまま、思わずぼやく。
「……あーあ、スサノオ様に会いたいよう」
店の入り口の重たい木の扉が開き、金持ちくさい人間の夫婦が入ってきた。
彼らは壁際の小さなテーブルにすわるミコの存在には気づかず、人間のガードマンに案内されて中へ入って行く。
美声の蛇女神には世界中にファンがいて、人間の客も大金を払って歌を聴きにやって来る。
もっともほとんどの人間は妖異が見えないから、異形の美をまとう蛇女神を前にしても、幻術で用意された人間の美女を見るだけ。音楽に関心のないミコでさえ、聴けば魂の震える心地のする絶世の歌声でさえ、鈍感にも割り引いて聴いているようである。
誇り高い蛇女神がなぜそんな無神経な客まで迎えるのか、ミコにはよくわからなかった。
なにかの呪いを解くため願をかけているのだともっぱらのうわさだったが、世界でも指折りの魔法の使い手である蛇女神に、そんな努力を必要とさせる呪いがあるとは信じられない。
「…………」
そういえば数日前、たまたまミコが仕事をさぼった日に変わった客があったと聞いた。
その到来を察知するやいなや、蛇女神は従業員全員に外を見ないよう命じ、みずから入り口ホールで応対したのだという。なんか関係あるのかな、とミコがぼんやり思った時、
「!」
入り口の重い木の扉が、割れそうな勢いで開いた。
「てっ、天魔王様! お待ちを……!」
蛇女神の古くからの臣下である物言うフクロウが、必死で制止しようとする。
ミコは、たった今会いたいと望んだ相手、破壊神が白銀の髪をなびかせ、突風の勢いで目の前を横切るのを見て、あっと椅子から腰を浮かせた。
しかし声をかける間もなく、破壊神は防音扉を蹴散らして店内へ侵入した。
妖怪客たちの悲鳴に続き、地響きが建物を震わせたのは、どうやら地下三階の蛇女神の楽屋まで、らせん階段をぶち抜いて降りたものらしい。
衝撃で壊れ、閉まらなくなってしまった防音扉の向こうから、妖怪客たちのどよめきと、異変に気づいた人間の客たちの不安げなざわめき、破壊された建材の埃があふれてくる。
「わ、我らが姫に対し、なっ、な、なんとご無体な……!」
物言うフクロウがおろおろと飛びまわりながら、もっともな非難の声をあげた。
しかし驚きに目を丸くしていたミコの顔には、ゆっくりと歓喜の輝きが広がった。
見たところメイはそばにいないし、破壊神ももとの大きさに戻っている。
これはきっとついに、あのうるさいメイを食べてしまったに違いない……!
「あっは! やったァ!」
嬉しさのあまり、ひと跳びに受付テーブルを踊りこえる猫娘に、フクロウがけげんそうな顔をした。ミコはそのまま「あっ、これ猫っ! 危ないぞ、中へ入ると巻き添えになるかもしれん……」と呼び止める親切なフクロウをしりめに、足取りも軽く店内へ駆けこむ。
そこへまた地下深くから地響きがして、妖怪客が浮き足だって逃げ出した。
ぼやが発生したと信じた人間の客たちも、ガードマンに案内されて避難を始める。
ミコだけが混乱の中を逆行し、埃のたちのぼる楽屋入り口にたどりつくと、興味津々で下の暗がりをのぞきこんだ。
無惨に壊れたらせん階段の下は、たちこめる埃のせいでなにも見えない。
下へ行こうかやめようか、ミコはしばしためらった。
蛇女神に仕事をもらうようになってだいぶたつが、楽屋まで会いに行ったことはない。
下働きの者にも親切だし、気性も穏やかだが、歳経た美貌の蛇女神はやはり、圧倒的に恐ろしかったからだ。不真面目なバイトが勝手に姿を消すたび、妖怪の仲間内で「うっかり楽屋で蛇姫とふたりきりになったスキに、ぺろっとのまれちまったらしいぜ」「いやいや、あいつの甲羅は珍しい色だったから魔薬の材料にされちまったんだ」などと一種の「怪談」がささやかれるほどだ。ミコも、まさかと笑い飛ばしつつも、実はかなり信じていた。
しかしすぐ、破壊神に会いたい一心が蛇女神への恐怖に勝ち、ミコはふわりと宙に身を躍らせた。三階分の高さを慎重にただよい降り、音もなくがれきに着地する。
むしり取られたドアの向こうからやわらかい光がもれているのを見て、抜き足差し足戸口に忍びより、そうっと室内を盗み見ようとした。そのとたん、
「くそっ、なんでおまえはいつもそう、やる気がねえんだっ!」
ひと月ぶりのなつかしい破壊神の声に、ミコはどきんと胸を高鳴らせた。
用心なんか忘れ去り、声をかけようと勇んで中をのぞく。
「!」
楽屋の中は、惨憺たるありさまだった。
豪華な鏡台は粉々に砕けて吹き飛び、奥の壁にめりこんでいる。精緻な透かし彫りのほどこされた家具や衝立、衣装箪笥も中味ごとつぶされ、まき散らされて、見る影もなかった。
破壊神はと見ればなんと、踏みつけた家具の残骸を、さらに踏み砕いたところ。
ミコはその時ようやく、破壊神が乾いた殺気を放っているのに気づいてぎょっとなった。
「無駄ですわ。なにをなさっても、わたくしは貴方とは戦いません」
楽屋のあるじ、褐色の美貌の蛇女神が、半ば破壊された黒檀の寝椅子に腰かけたまま、もの憂げに口を開く。椅子を取り巻いてとぐろを巻くその黄金の蛇体の上にも、長く垂れた波打つ黒髪の上にさえ破片と埃が飛び散っていたが、ふりはらうそぶりさえ見せなかった。
「そうか?」
太陽も青ざめそうな殺伐たるひと言とともに、破壊神の銀の刃が蛇女神ののどもとめがけてひらめく。ミコは一瞬、首をはねたのではと息をのんだが、蛇女神は微動だにせず、
「!」
ひと呼吸遅れて蛇女神ののどもとで真珠のネックレスがぷつりと切れた。
大粒の海の至宝がばらばらと、ガラスや木材の破片の中へ散らばり落ちる──。
蛇女神が真珠をこよなく愛していることを知っているミコは、破壊神の情け容赦のない挑発ぶりに青ざめながら、いくらなんでも変だ、と思った。
蛇女神の古い臣下たちの話によれば、破壊神と蛇女神の珠貴は何千年来の顔なじみで、いずれ劣らぬ古い夜叉神同士だから友人とまでは言えないが、仲は悪くないらしい。
そもそもミコが破壊神と知り合えたのも、他ならぬ蛇女神が、破壊神の探し物を手伝うよう命じてくれたからだ。なのに、
「なぜ怒らん?」
いぶかしげにきく破壊神は、どうやら本気で蛇女神を狩る気らしかった。
沈黙を守って動かない蛇女神を横目にいらいらと荒れた室内を往復し、はたと足を止める。
「そういやおまえは壊れた物をもとに戻すのが得意だっけなあ! 小さな物を壊したぐらいじゃ痛くもかゆくもねえってことか。よし! なら簡単にはもとに戻せそうにねえ物を……」
言いさしてこちらへ向き直るやいなや、びくっと壁の陰に身を縮めるミコには気づいた様子もなく、いきなり額の第三眼を開いた。
「!!」
どっとあふれた暗黒神の猛烈な気に当たって、周囲の絨毯も壁紙もみるみる色あせ、腐り、あるいは風化していく。音を立てて乾き、ひび割れていくドア枠から、ミコはあわてて後ずさった。破壊神は、楽屋の天井あたりに視線を据え腕に力をこめた。どうやらこのうえ、店を納めた建物そのものをたたき斬ってしまう気らしい。
このままでは巻き添えになる。ミコはあわてて逃げ出そうとしたが、その時、
「尊、お願いですわ、どうか、そこまでになさって」
蛇女神が、弱々しく訴えた。
その琥珀の美声が悲しみと絶望のあまりかすかに震えるのを聞いて、ミコは仰天した。
蛇女神も古い夜叉神の生き残りである。
ふだんは破壊神同様動じない、恐るべき心の持ち主に見える。なのに、悲しみや絶望などという感情を知っていただけでも驚きなのに、そのうえその感情を、あらわにするとは!
夜叉神の中の夜叉神である破壊神が、いったん狩ると決めた者相手に手をゆるめるはずはなかった。下手に動揺など見せたら、「あとひと押しで怒る」と勝手に決め、もっとひどいことをしかねない。他者のたのみを聞き入れるような神ではないのだ。
実際、蛇女神もそう思っているようだった。
それでも訴えずにはいられなかった悲しみが、その声音にありありとにじんでいた。
だが、魂を砕くように戦神の笑いか、さらなる破壊を予期して無意識に身をすくめていたミコは、破壊神の気配が急に静かになったのに気づいて、そっと様子をうかがう。
「……?」
破壊神は、足もとをにらんで立ちつくしていた。
蛇女神の、二度ともとに戻らないものを破壊されようと、見ていることしかできない……その無力感と悲しみの苦さを浴びた瞬間、なぜか理解してしまったのである。
自分は蛇女神に、ロキが自分に対してしたのとよく似たことをしてしまったらしい、と。
そしてそのとたん、破壊神はかつて感じたことのない恐ろしく不快な動揺に襲われた。
どういうわけか、これ以上この場を破壊することは、絶対に許されない気がした。
いや、ここまで破壊してしまっただけでもすでに、とんでもない間違いだった気がする。
どうすればいい?
こういう場合すべきこと、あるいはしていいことはなんだ?
破壊神は、荒れはてた室内で目のやり場にも足の踏み場にも困っていらだったあげく、
「悪かった」
あろうことか、謝った。
ミコは夜叉神の謝罪など見たことも、昔語りで聞いたことさえなかったので、あっけにとられて凍りつく。蛇女神も同感だったらしく、驚愕のあまり不安げに眉をひそめた。
しかし、当の破壊神は自分が奇妙なことをしたかどうかなど、どうでも良かったらしい。
あっさり額の第三眼を閉じると、もうこんなところに用はないとばかりに肩布をひるがえし、不機嫌そうにきびすを返した。
口に出して悪かったと認めてしまったからには、同じことを繰り返すわけにはいかない。
つまりもう、その気のない蛇女神とは戦えないということだ。
それ以上破片ひとつを砕くことさえ嫌って、宙を踏んで去ろうとする破壊神を、
「お待ちになって」
我に返った蛇女神が、平静を取り戻した声音で呼び止めた。
「ロキ様に勝つ方法をお探しなのでしょう?」
ミコは「ロキ」の名など初耳だったが、それより破壊神が誰かに「勝つ方法」を求めることがありうる、などということ自体よく理解できず、耳を疑う。
しかし破壊神は蛇女神の発言に反応して足を止め、ますますミコを驚かせた。
「方法はありますわ」
蛇女神は、向き直る破壊神を前に、鎌首をもたげる蛇の動きで片手を挙げる。
ちん、と長い爪が銀をはじくような涼しい音がした。
たちどころにその手の中に、妖しい紫にたゆたう、煙とも液体ともつかぬ魔薬を満たしたグラスが出現する。
蛇女神は不気味なグラスを乾杯するようにかかげ、またたきもせずに続けた。
「ロキ様に次いで古い……今はもう亡くなってしまわれた女神ヘカテーの宮殿では、誰の、どんな願いでもかなうと言い伝えられています」
蛇女神の言うこととはいえ、ミコには根も葉もないおとぎ話に聞こえた。
しかし破壊神の横顔にはたちまち、計算高い興味の色がわく。
「それはどこにあるんだ」
「この世ではないところですわ、尊。そこへ入る道はこの薬をお飲みになる他にもいくつかありますけれど……無事に出てきた者はほとんどないとか」
「ふうん」
破壊神はすでに蛇女神の居室を荒らしたことも、成り行きで謝ってしまったことまですっかり忘れた様子で、にやっと辛辣な笑みを浮かべた。
「そいつぁ、ロキの入れ知恵か」
「貴方のその腕を見れば、ロキ様にお会いになったことぐらいわかります」
はぐらかすように返した蛇女神の、ブラックオパールに似て七色にきらめく瞳がふと陰る。
その視線を追って初めて破壊神の、肩布の陰になった右腕が赤黒く焼けただれているのに気づいて、ミコは仰天した。なにしろ強い神だ。たいていの傷はまたたく間に治癒するはずなのに、どうしたことか。蛇女神の指摘にいらだったのか、破壊神の変色した拳に力がこもった。拳から死滅した血肉がバラバラとこそげ落ち、塵になって散る。
蛇女神は破壊神の怒りを予期してか、黄昏の美貌を蛇の無表情に凍りつかせた。
しかし破壊神は、声を立てて笑った。
「くくっ、まあいい。やつはいつもろくなもんをよこさねえが、今度のはおもしろそうだ。その話、乗った」
言うより早く銀の刃が一閃し、蛇女神の持つグラスを中味ごと両断する。断ち割られた紫の薬煙は獲物の塵同様、たちまちその輝く刃に吸収されて消え──
「!?」
まっぷたつにされたグラスが床に落ちて割れるのとほぼ同時に、ミコは、破壊神の姿があとかたもなくかき消えるのを見た。
あわててあたりを見まわすが、どこへ消えたのか、影も気配も、かけらも残っていない。
「ち、ちょっと珠貴様、今のはいったい……」
ミコは動転のあまり蛇女神への恐怖も忘れ、説明を求めて室内に入りかける。が、
「……?」
見えない山にのしかかられるような凄まじい圧迫感に、本能的に足が止まった。
蛇女神はミコに気づいた様子もなく、ひどくもの憂げに壊れた寝椅子に寄りかかった。
割れたグラスを直そうとも、ちらばり落ちた真珠を集めようとさえしない。黒髪を汚した埃もそのままに、ただ無言でゆっくりとうつむき、見るともなく床の一点を見つめた。
瞬間。
津波のように広がってきた恐ろしい気配に、ミコは総毛立った。
これは悲しみ。
とてつもなく深い悲しみだ。
破壊神はどうか知らないが、蛇女神は破壊神に友情に近い感情を抱いていたのが、自分のことのようにありありと感じられた。行かせたくはなかった。だが、ロキの意向に逆らってまで止めることもできなかった。だから……。
「あ……れっ?」
ミコは、頬をこぼれ落ちる涙に気づいてぎょっとした。
他人に同情などしないタチなのに、なぜかもらい泣きの涙が止まらない。今にもふらふらと部屋に入り蛇女神をなぐさめるなどという、らしくもないことをしてしまいそうだ。その時、
「!!」
夜叉神の涙なき嘆きに沈む蛇女神のまわりで、ぱきん、ぴしっ、と凍てつくような音をたてて、木や鏡のかけらはもちろん、じゅうたんや真珠まで、じわじわと石になり始めた。
ミコの足もとをすり抜け、涙を持たぬ夜叉神の代わりに泣きながら駆けこんで来たネズミたちもまた、蛇女神のもとにたどりつくより早く石になりはて、ころんと転がってしまう。
「ひっ……!」
石化の範囲が恐ろしい勢いで広がってくるのを見て、ミコはあとも見ずに逃げ出した。
◆
「結界だ! 人間が近づかんよう結界を張れ! 消防車も通すでないぞっ!」
物言うフクロウが夕陽の射しこむ路地のどこかで、声を枯らして指図している。
人間の客たちは非常口から路地の外へ誘導され、すでに姿を消していた。路上や空中で押し合いへし合いしているのは、逃げ出す妖怪客と、野次馬に押し寄せた妖怪たちだ。
「なんだなんだ、なにがあった?」
「暗黒神が殴りこんだんだっ、おかげで……なんてこった、夜のステージが台無しに……」
「今度ばかりは珠貴様もお怒りじゃろう」
「なあなあ、そしたらどっちが勝つと思う?」
「ボケ! どっちにしたってこんな近くにいたら全員道連れにされちまうぞっ!」
身を守ろうと、仲間より先にその場をあとにした妖怪たちはしかし、路地の出口で、そこに立つ存在に目を奪われて立ちつくし、あるいはあわてて目を伏せ逃げ出すことになった。
純白のサマーコートをまとった長身の美が、陶然たる面もちでたたずんでいたからだ。
「ああ! 嘆かぬ者の嘆き、恐れぬ者の恐れ、絶望せぬ者の絶望こそは無上の美味……!」
夕映えに細やかな金髪をきらめかせ、ロキは雪花石膏の天使像さながらの横顔を仰向けた。
蛇女神の悲しみを味わってうっとりと頬をゆるめ、深海の碧をたたえた双眸を見開く。
「素晴らしい前菜だった。さて、仕上げに……」
その時、誰か恐れ知らずな妖怪がどんっ、とロキに突き当たった。しかも、
「痛いじゃないかこのデカブツっ、道の真ん中でぼさっとしてんじゃないよっ!」
ろくに相手を見もせず威勢良く罵声を浴びせる。ついでに、埃ともらい泣きの涙でまだらに汚れた顔を、ぐいとそででぬぐったのはミコだった。
「と、とにかくスサノオ様を捜そう……! この世じゃないとこなんて……あるもんかっ」
口の中でぶつぶつつぶやきながら、ミコは最古の神にぶつかったことになど気づきもせず、よってその気にもなんの影響も受けないまま、決死の形相で走り去る。ロキは意表を衝かれた面もちで活きのいい猫娘を見送り、ややあって、昏い炎のようにひそやかに微笑んだ。
「これは驚いた。ハディード、君は思ったより友人が多いのだね。ふむ、それでは……」
悠然と白いすそをひるがえし、猫娘のあとを追って路地を出る。
その姿がたちまち水鏡に映った影のように揺らめき縮み──変幻自在の魔王は人の注意を惹かずミコの警戒も招かない、ありふれた野良猫の形を取るなり、軽やかに走りだした。
3 黄昏に咲く③へ続く
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