2 悪魔の奏でる音楽②
純白のスーツに白いサマーコートを重ね、人のような装い。
しかし肩にかかる長さの、繊細な巻き毛は傾いた陽射しに黄金に燃えきらめき、彫りの深い高貴な顔は見る者すべての心を打つ、聖なる調和に光り輝いている。
美醜に頓着しない鬼のしんらでさえぽかんと見とれ、一瞬、我を忘れた。が、
「ロキ」
破壊神は、背後のしんらがすくむほど凄まじい嫌悪をこめて、相手の名を呼んだ。
「てめえ、まだ残ってやがったのか」
まだ一寸法師サイズのままなのに、破壊神の強烈な殺気に触れて近くのやぶの葉が茶色く縮れ、枯れ始める。ロキはしかし気にした風もなく、天使のようにほほ笑んだ。
「ご挨拶だね、ハディード。無数の分身をもってあまねく天地に広がり、数多き者と呼ばれるわたしがそうやすやすと滅ぶと思うかい? ああ、もっとも、このわたしの身にあれほどの損害を与えたのは、あとにも先にも君ひとりなのは認めるけれど」
「失せろ。俺はこの世でおまえにだけは用がない」
面と向かって言われたなら、どんな魂も凍ってひび割れるであろう──破壊神の極限の拒絶の声音に、しんらまで全身の毛を逆立て、一歩さがった。
周囲数キロの小鳥やセミの声がぱたりとやみ、逃げられる生き物は残らず、あとも見ずに逃げ出す。
しかし太古の悪神ロキは破壊神の殺気を涼しい顔で受け流し、いよいよ美しくほほ笑んだ。
「そう、君にとってわたしは苦いのだったね、ちゃんと覚えているとも! だからほら、見たまえ、わたしはこんなにも君に配慮し、力を抑えてあげているだろう?」
命なき石像でさえ、つられて頬をゆるめそうなほどにこやかに続ける。
「信じてくれなくてかまわないが他意はないのだよ、ハディード。ただ、君が泣いたと聞いてね、あんまり驚いたものだからつい、顔を見に来てしまっただけなんだ。夜叉神の涙は忌むべき病、いずれは君を破滅させる。この世で唯一、わたしを滅ぼしうる力を持つ君になにかあっては余生が退屈になってしまう。どうか健康には気を遣っておくれ」
「……おまえが消えてなくなりゃ、さぞかしせいせいするんだがな」
呪われた刀が鍔鳴りするような、破壊神の不穏なつぶやきは返事になっていなかった。
とっくにロキの言葉を聞くどころか、姿さえろくに見ていないのに気づいて、
「ああ……君はどうしていつも、そんなにつれないのかな」
至高位の天使の美に輝く魔王は、さも悲しげに嘆息する。
「なにが気に入らないのだね? 以前会った時も、君はわたしの贈り物をひとつも受け取ってくれなかった。最強の戦士も恐れ知らずの軍隊も……せっかく最高の闘志を持つ、君好みの獲物まで用意してあげたのに」
それは、事実だった。
おおむね数千年ほど前、この、世界でもっとも年老いた妖神は破壊神のもとを訪れた。
ロキ、または蝿の王と呼ばれる姿定まらぬ存在は、妖怪の間でも有名だ。自在に人間の国々を操り、戦争を起こさせ和解させ、新しい宗教を信じさせ、またそれを自分たちの手で破壊させる──人間で遊ぶのがとても好きな、古く強い神として。
ロキが通ったあとの土地はすべて苦くなるので、破壊神は会う前からロキが嫌いだった。
だが、直接見てますます嫌いになった。
相手がいわば、恐怖と絶望、悲哀の気の化身であることがわかったからだ。
ここまで苦い相手では斬ることもできない。狩ることができないならかかわる意味もない。
破壊神はさっさと立ち去ろうとしたが、するとロキはどこまでもしつこくついてきた。
しかもどういうつもりか、たのみもしないのに次々に獲物をお膳立てする。
確かにちょっと見には良い獲物ばかり連れてくるのだが、みな、どこかが苦い。
それで破壊神はすべて無視して通り、さしものしつこい老神もあきらめたのか飽きたのか、しばらくあらわれなかった。
だがある日。ロキは、たまたまその時荒れ地で破壊神の後ろをついて歩いていた孤児を、行き倒れ寸前で助けて連れ去った。
物好きなやつ、人間の子どもなんか助けてなにをする気なのかと見ていると、富を与え運を与えて近くの国でどんどん出世させていく。
ついには国を乗っ取る野心家にまで育て上げ──しかしそこで失脚させた。そのうえで、悲嘆に暮れるその男に、すべては破壊神のせいだと丁寧に信じこませてのけた。
愚かな男は大人になり、妖怪を見る目を失っていたが、にもかかわらず復讐心に燃えて、破壊神のいる廃墟にやってきた。
幼い日に出会った魔物に、人生のすべてを奪われた──と信じて。
もう戻るところも行くあてもない、その絶望を残らず、捨て身の怒りに変えて。
確かに、見えもしない破壊神相手に剣をもって向かってきたその男は、人間としては比類ないほど極上の闘志を発散していた。狩って食うことはじゅうぶん可能だった。
だがそんなふうに……子どもの時はまったく苦くなかったのに、本質的に苦い存在に変質して育ってしまった男を目にしたとたん、破壊神はかつてないほど強い不快を覚えた。
背後でのたれ死んでもべつに気になどならないが、こんな育ち方をするのは気に入らない。
ゆえに、狩ってやらなかった。
男は、すぐそこに座っている破壊神をついに見つけることができず、数日間ひとりむなしく暴れ続けた末に、力尽きて死んだ。
男が息絶えるまでをひややかに見届けて、しかしその瞬間、破壊神は、この世の何にもまして、ロキが大嫌いになっていることに気づいた。
なぜかはわからないが、ロキのことを考えるだけで殺意に全身が震えるほど。心のどこかがゆがむ感じがするほどだ。
それで、贈り物の感想を聞きにのこのこあらわれたロキを、見るなり灼きはらった。
灼いた相手は食べられない。
塵も残さず蒸発してしまうからだ。
食うためでもないのに殺したい相手などめったにいないので、それまでその力はほとんど使ったことがなかった。だがそれでもこうして残ったとなれば、
(相手にするだけ力の無駄だ)
というのが破壊神の結論だった。
ロキにとっても本来、破壊神は獲物ではありえないはずなのだ。
妙な勘違いをして時々たかってくるが、おしゃべりな年寄り蝿はうならせておけばいい。気がすめば去る。いささかうるさいが、それだけだ。しかし──。
「それにしても気の毒に。ちょっと見ない間に、君はなんと弱くなったことだろう」
天上の美をまとう魔王は無視されていることなど気にもせず、ふわりと輝かしい金髪をなびかせ、小さな相手へかがみこんだ。
「昔なら君の気にはじかれて、とてもこの距離まで近づけなかったのに……おや? いつの間にか霊玉がひとつ減っているね。どこの誰にあげたのだい?」
言葉だけならまだしも、あつかましくも触れようと近づいてくるロキの手に気づいて、嫌悪の限界に達した破壊神の額でついに第三の瞳が開きかける。その時、
「何者か知らんが、ええ加減にせんか!」
しんらが破壊神の後ろから、憤慨した様子で身を乗りだした。ついでにかなりの勢いで大きな手をふり、怖いもの知らずにもロキをはらいのけようとする。
「!」
破壊神は完全に虚を衝かれた。大嫌いなロキの出現に気を取られ、実のところこの瞬間まで、背後にしんらがいることをすっかり忘れていたのである。
しかも、その存在を思い出したとたん、なにか、恐ろしく不慣れな動揺が破壊神を襲った。
ここにこいつがいるのはまずい。
という奇妙な考えが閃光のようにひらめくが、なにがどうまずいのか、いまだかつて、獲物でもない妖怪の命など気にかけた経験のない夜叉神は、自分でもよくわからない。
わからないまま、おせっかいな鬼をなんとか止めようとする。
しかしその瞬間、破壊神の動揺を見てとったロキの麗貌に、燦然たる笑みがこぼれ──
「!」
ロキの、白くたおやかな手が悪い夢のような速さで伸び、殴りかかってくるしんらの腕に、指先が軽く触れる。そのとたん、信じがたい衝撃を一点に加えられた鬼の腕は、高所から落ちた熟れすぎた柿のように、あっけなくはじけ飛んだ。
あまりにけたはずれの早業に、しんらが起きたことを認識するまで一瞬、間があく。
その横面に、小さな破壊神の拳が炸裂した。
しんらは林の木々を草のようになぎ倒して十数メートル吹っ飛ばされ、なくした腕を再生しながら動転した面もちで立ちあがる。
その鬼を、破壊神はいらだちのあまり地団駄を踏まんばかりの剣幕で怒鳴りつけた。
「ドアホウ! よけいな手を出すんじゃねえ! 失せろっ、二度と俺の前に顔を出すなっ!!」
暴虐の神の容赦のない怒気を浴び、しんらはドブに捨てられた忠犬のような、心底打ちのめされた顔になる。その悲しみの苦さにひるみながら破壊神も、いや、そうじゃない、もっと他に言い方があるはずだと思ったが、とっさになにも思いつかない。そこへ、
「おや、これは気がつかなくて失礼した。それは君の連れだったんだね」
ロキが、聞きたくないほど嬉しそうに口をはさんだ。
「君のことだ、そのうち狩るつもりなんだろうが、こんなに弱くては栄養になるまで育つにはだいぶかかるねえ。よろしい。君の獲物に傷をつけたおわびに、促成栽培してあげよう」
止める間もなくロキの影から一匹の蝿が分離、一直線にしんらの影に飛びこむ。
「!!」
鬼の身体がどくん、と脈打った。
次の瞬間──
体内に侵入した巨大な闇の気によって、鬼は爆発的にふくれあがった。
枯れ草色の毛並みがどす黒く変色して逆立ち、全身の肉が腫瘍のようにでたらめに沸き立つ。苦しみのたうちながら質量を増し、よろめく鬼の足もとで倒木が砕け、岩がつぶれた。大きな影を落とし、みるみるうちに樹木を見おろす大きさに育っていく。
「!」
やぶを枯らして広がってくるとほうもなく苦い気に、小さな破壊神は思わず後ずさった。
「大丈夫、完全に同化すればわたしの気は憎悪か怒りに分解するから、君にとっての毒は残らないよ。変化がすんだら安心して狩りたまえ」
かたわらでロキが明るく請け合う。
その言葉が嘘ではないのは、破壊神にもわかっていた。
自分も最近、龍神相手に似たようなことをしたばかりだ。
弱い妖怪に気の結晶を食わせてやれば、てっとりばやく獲物として育てることができる。それ自体になんの問題もない。ないはずだが、しかし……。
その時、変化途上の鬼が、漆黒に変わった凶悪な爪をぞぶりと自分の顔にめりこませた。
「いっ……い……嫌じゃあああ!」
血の色の突起に覆われた顔をゆがめ、耳まで裂けた口に三重にひしめく牙をむいて吼える。
今や背を丸めていても梢より高い位置にある、大きな洞窟のような口から凄まじい毒気が、真っ黒な噴煙となって噴き出した。
たちまちあたりの木々が根こそぎ腐って倒れ、夕の陽射しまで灰色に陰る。
「嫌じゃああ……! ワシじゃねえ……こ、こんなのァワシじゃねえええ……!!」
血を吐くような叫びとともに、しんらはおのれの顔を骨までえぐる勢いでかきむしった。
しかし最古の神の気を得た血肉は傷つけるそばから再生し、さらに醜く、まがまがしく成長していくばかりだ。
見る間に狂気の様相を呈し始める鬼を前に、小さな破壊神は凍りつき、ロキは笑った。
「おやおや、なんて頑固な愚か者だろう」
麗しい魔王は宝石のような碧い目を細め、さも愉快そうに感想を述べる。
「せっかく与えられた力との同化を拒むとは、理解に苦しむね。まあ、見苦しいけれどそう長くは続かないよ。つまらない自我が消えればすぐ完全に……」
瞬間、破壊神の額で第三の瞳が開いた。
ずしん! と山を震わせて解放された暗黒神の気にはじかれ、ロキは一気に数メートル後方へ押しやられる。
が、悠然と空中に足場を定め直した魔王は、凄惨な死の気配をはらんで吹き荒れる突風に繊細な金髪をなびかせながら、むしろ期待の笑みに麗貌を輝かせた。
一方、破壊神は第三眼を開いて縮身術を吹き飛ばし、もとの大きさに戻って地に足をつけてもまだ、自分がなにをするつもりなのかよくわかっていなかった。
わかっているのはただ、おせっかいでバカな鬼が、これ以上変質するのは見たくないということだけだ──。
瞬時に鉄の名を持つ神は決断をくだした。
月よりつめたい白銀に燃える三つ目で、正気を失いつつある巨大な鬼をにらみあげる。
「しんら! おまえの意志でかかってこい! 食ってやる!!」
おまえがおまえでいるうちに殺してやろう、と言うのである。
破壊神のどこまでも無慈悲な、しかしある意味とほうもなく強力な励ましの叱咤を浴び、毒気に負けて腐り倒れた木々があたり一面で勢いを盛り返し、しぶとく芽吹く。
狂気に濁った巨大な鬼の目にもぽつんと、理性の光がよみがえり──
初めて破壊神に名を呼ばれたこと、無情な少年神に自分の存在を尊重されたことを理解して、鬼は、歓喜のあまり涙ぐんだ。
ごおおおう、と、あげた破壊的な雄叫びで周囲一キロの岩すべてを砕き、なおも異形の成長を続ける醜い巨体をひるがえして、しんらは足下の破壊神に殴りかかる。
刹那、つめたい銀の閃光が、逆流する流星雨のように地上から鬼の巨体を迎え撃ち、
「!」
夕空を流れる雲が割れ、鬼の背後の山肌に、縦横の溝が深々とうがたれた。
林の木々があちこちで切れ目からズレ落ち、断ち斬られた大気がどっと烈風を巻き起こす。
その風が、再生不能なまでに斬り刻まれた鬼の巨体を、積み木細工のようにあっけなく吹き崩し──しかし、バラバラになり、見る間に塵となって砕け散りながら、鬼は、笑った。
「ハア……ありが……てえ……」
「バカめ」
破壊神は眉ひとつ動かさず、冷然とつぶやいた。
その右腕から伸びた光の刃に、死んだ鬼の塵が渦を巻いて押し寄せ、あっと言う間に残らず吸収されて消える。
だがそのとたん、しんらの命だけでなく、まだ同化しきっていなかったロキの気まで吸収してしまった破壊神の刃は急に光を失い、真っ黒に腐って溶け落ちた。
腐敗による変色はたちまち指先から肩まで広がり、腕全体が劇薬でも浴びたかのようにただれ、灼け崩れてゆく。
最悪の毒を取りこんでしまった灼熱の苦痛に全身をおののかせながら、破壊神は歯を食いしばった。こうなることは予想できていた。なにひとつ意外なことなどない。
なのに、なにかが我慢できなかった。なにかが……耐えがたいほど腹立たしい。
抑えきれずにあふれた憤怒と苦悶のうめきが地を震わせ、白銀の髪がざわりと逆立つ。
「だから変化がすむまで待ちたまえと言ったのに。あいかわらず気の短いことだ」
ロキがおもしろそうに言った瞬間、暗黒神の怒りが極大に達し、空から光がかき消えた。
周囲数キロの土地を時ならぬ闇が覆う中、刃よりも純粋な殺意に燃えさかる破壊神の三つの瞳がロキをかえり見、文字どおり、世界をも灼き尽くす凄絶な熱を放とうとする。
が──
「思ったとおりだ、年若き友よ。やはり君は病んでいる」
さも気の毒そうに、しかしどこか嬉しそうに言うロキを、破壊神はぼうぜんと見つめた。
なぜこの、世にもうっとうしい相手をひと思いに灼きはらってしまえないのか?
理解できない破壊神に、ロキは優雅に歩み寄って行きながら楽しげに続ける。
「夜叉神の中の夜叉神である君が、この世でもっとも無情な、凍れる魂の持ち主である君が、どうしてわたしを灼きはらえないか不思議かい? 教えてあげよう、簡単なことだよ。前回、君がわたしを灼いた時には、巻き添えで山が五つ消し飛び、湖と川が永遠に干上がり、ついでに近くの人間の国がふたつ、あとかたもなく灰になった。残ったのは砂漠だけ」
蝿の王は白く美しい指を折って上機嫌で災いを数えあげ、きららかにほほ笑んだ。
「もちろんハディード、君はそんなつまらないことには気づきもしなかった。そう、夜叉神はそうでなくては! だが今の君は違う。わたしの後ろの小さな山の、そのまた向こうで、もしかすると消えてしまうかもしれない人間の街が気になる。はて、どうしてだろうね」
「…………」
「誰と約束したんだい?」
間近から親しげにきかれて、破壊神は無意識に身をこわばらせる。
そのとたん、ロキの天使の麗貌に、ついに求める物にたどりついた悪魔の、溶岩のような笑みがこぼれでた。
「これは驚いた! 今、かすかにだが君の恐怖を感じたよ。恐れを知らぬ魂の恐怖は……ああ、わたしにはまさに奇跡の蜜だが、君にとってはよくないな」
「…………」
「人間とかかわったりするから情などという病に冒されるのだよ。もっとも、高い霊力の持ち主は我々心霊体にとって最高の獲物だ。つい近づきたくなる気持ちはわかるけれど……」
「蝿め」
砂漠の風より乾いたつぶやきとともに破壊神の額の第三眼が閉じ、空が光を取り戻す。
もはやうるさいとさえ言わず、殺意も放たない。
怒りを通り越した破壊神は、ロキに対する関心を失ったのであった。
攻撃もできないものを、うとんでも意味がない。
みるみるうちに道ばたの石でも見るような、とりつくしまもない無感動にさめてゆく夜叉神の瞳を前に、ロキは、せっかく手に入れた名器を調律に失敗して壊してしまった音楽家のような、実に奇妙な失望の表情を浮かべた。
かろうじて気を取り直し、愛の女神より魅惑的な微笑とともに口を開く。
「ねえハディード、その人間、君が気に入るほどだから、きっとよほど強い霊力の持ち主なのだろうねえ? 知ってのとおり、わたしは君と違ってめったに獲物の命までは奪わない。君の分はちゃんと残しておいてあげるから、ちょっとだけ味見をさせてくれないかい?」
とはいえ、ロキが恐怖や絶望、悲しみを引き出し「味見」した人間はほぼ例外なく本質的に苦い存在に変質してしまう。残しておくとは言いながら、それは君の獲物を横取りするよ、と宣言したにひとしかった。しかも事実上、破壊神にロキを止める方法はないのだ。
ロキは、当然あるべき動揺を期待する目つきで少年神の反応をうかがう。
しかしロキがみずから評したように、この世でもっとも無情な、凍れる魂の持ち主は二度は揺らがず──
「好きにしろ」
魔王もひるむほどつめたい、鋼の声音で言い捨てて、破壊神はその場を飛び去った。
◆
となりの建物の明かりをたよりに、そっとスマホの時刻表示を確かめる。
「もう零時……過ぎちゃった」
雨のぱらつき始めた夜空を見あげ、メイはセーラー服の肩を縮めて小さく身震いした。
閑静な住宅街の一角に建つ、女性専用アパートの屋上である。
学校の寮に空きがなかったためアナスタシアが確保したらしいが、気おくれするほどの高級物件だった。新築のうえ、各室にエアコン、ユニットバスはもちろん光回線まで完備、間取りもたっぷりしている。六畳あるとすでに広すぎる、と感じてしまうメイは、ひとりでは五分と部屋にいられず、夕方遅くに戻るとすぐ、屋上にあがったのだった。
今朝、新しい学校に登校する前に、小さな破壊神、しんらと一緒に一度、荷物を置きにここに寄っている。それで、戻ってきてくれるとすればここだろうし、待つなら屋上で待つ方がお互いに見つけやすいだろうと考えたのだが……。
日が沈み、向かいのパン屋さんがシャッターを下ろし、バスの最終便が行ってしまってもまだ、ふたりが帰ってくる気配はなかった。
遠く霧雨にかすんで見えるオフィスビルの明かりももう、あらかた消えてしまっている。
(やっぱり……もう少し早く、帰ってくれば良かったかも……)
あのあと──吸血公女とともに資料室の標本をひととおりチェックしたが、やはりというかなんというか、なにも見つからなかったのである。
しかもアナスタシアは用がすむなり「お茶でもいかが?」と強引にメイを連れ出し、「ついでに少し、日本で目立たない普段着を見立てていただけません? お願い!」と買い物の同行をせがみ、一向に帰してくれない。
メイは破壊神としんらの行方が気になってそれどころではなかったが、すると、
──「捜しに行ったりしたら、きっともっと遠くに行ってしまいますわよ」
アナスタシアは意地悪な、しかし意外とありそうなことを言って朗らかに笑った。
──「それに空を飛べるのですもの。少なくともとっくに五十キロは離れたところまで行っていると思いますわ。捜しに行くにしても、まず、どの方向へ行くか決められまして?」
確かに決めようがない。
だが「そうですね」と口では言いつつ、なにを話しかけても上の空のメイを見て、赤毛のアン似の吸血公女はふと買い物の手を止め、寂しそうに苦笑した。
──「吸血鬼のわたくしでは、あなたの友人になる資格もないのかしら」
見かけこそ十代の少女でも、中味はもしかするとしんらより年長の、しかも男女問わぬナンパ癖のある老獪な吸血鬼だ。少なくとも半分は演技だったに違いない。
しかしメイはその瞬間、演技の下からあふれた疑いようのない本音、アナスタシアの中にひそむ、無限の人恋しさとでも呼ぶべき渇望に、ハッと胸を衝かれた。
吸血鬼にとって陽光は、絶対的死を意味する。
なのに彼女は、恐ろしい労力を傾けてそれを克服してしまった。
そして、人の娘なら隠そうと、化粧に苦心するに違いないそばかすを誇らしげにさらし、もっと日に焼けたいかのように日なたを選んで、踊るように歩く。
真祖直系の吸血貴族でありながら、そんなことをするのはむしろむずかしいはずなのに、人の食べ物をおいしそうに味わい、衣料品店の鏡の前で幸せそうにポーズを取る。
その──吸血鬼にとっては獲物に過ぎないはずの人間に、かぎりなく近づこうとする切ない情熱に気づいてしまったとたん、メイは胸がいっぱいになり、夢中で答えていた。
──「そんな……そんなことありません! わた、わたしは吸血鬼だってべつに……と、友だちになるのに人種や種族なんて……全然関係ないと思います!」
するとアナスタシアは、たじろいだように緑の目を見開いた。それからほんの一瞬、自分を捨てたと思っていた親が、実は必死で自分を捜していたと知った孤児のような、涙と笑いが入り混じった複雑な笑みをにじませたかと思うと、いきなりメイを抱きしめた。
──「あなた、大好き」
耳もとでささやかれたがなぜか、噛まれるかも、という恐怖は感じなかった。
むしろ放っておくと泣きだしてしまいそうな気がして、メイはそっと吸血公女の痩せた背を抱き返し、
──「あの、でもわたし……こ、恋人にはなれませんけど」
小声で遠慮がちに断ると、アナスタシアはメイの肩に顔を埋めたままクスクス笑い出した。
──「いいえ、あきらめませんわよ」
──「ダ、ダメですってば! それはあきらめてくださいっ」
こりない吸血公女をあわてて押しのけながら、メイはしかしその時には最初よりずっと、アナスタシアのことが好きになっていた。瞳の魔力にたぶらかされたからではなく、ほんとうに、彼女と友だちになりたいと思ってしまったのだ。
だから、それからおよそ一時間ちょっとの間、甘え上手で強引で、でもどこか憎めない吸血公女の買い物に真面目につきあった。彼女になにが似合うかを真剣に考え、感想を言った。まるでただのクラスメイト同士のように──と言っても、内気なメイは今まで、クラスメイトとこんな買い物に来たことなどなかったのだが──時間を忘れて楽しんだ。
けれども店から出て、夕焼けの燃える空を見たとたん、メイはふたたび、破壊神としんらのことを思い出して青ざめた。
理由はなんであれ、たとえいっときでも、彼らのことを忘れたのは許されない裏切りのような気がして、いても立ってもいられなくなった。
アナスタシアは「買い物につきあっていただいたお礼に、夕食をご馳走しますわ」とますます上機嫌になっていたが、メイも今度ばかりは必死だった。
──「ご、ごめんなさい。ご一緒したいんですけど、でも、あの、も……もしかしたもうみんな、帰って来てるかもしれないし……し、心配なんで帰らせてください!」
夕陽のせいだろうか。
吸血公女の瞳に一瞬、魔物そのものの尊大なつめたさがあふれた気がした。しかし彼女はすぐ目もとをやわらげ「じゃあまた明日、放課後に」と、意外とあっさり帰してくれた。
メイは何度も礼を言い、せいいっぱい急いでアパートに戻ったのだが──
「…………」
霧雨にけぶる真夜中の街をあてもなく見やって、メイは季節はずれの肌寒さに身震いする。
(もしかして……ちょうどわたしがいない間に帰って来ちゃったんだとしたら……)
もしそんなことになったら、破壊神は夕方よりももっと腹を立てそうな気がした。
しんらがなんと言おうと今度は数日……いや、半年か一年は戻って来ないのではなかろうか。
と考えただけでむしょうに悲しくなってきて、メイはあわてて眼鏡をはずしてふく。
考えてみると出会って以来、彼らとこんなに長時間離れるのは初めてだ。姿は見えなくても声が届かないほど遠くには行っていないと、いつも信頼しきっていた。
(帰って来てくれたら……なんとか謝らなくちゃ。スサノオは謝罪されるの嫌いだけど……でも、それでも今度はちゃんと、謝らなくちゃ)
メイはここ数時間でたぶん千回めにはなる同じ決意とともに、とぼとぼと反対側の手すりへ移動する。屋上を絶えず往復し続け、疲労で足がしびれたようになっていたが、それでも、今にも見ていない方から相手があらわれそうな気がして、動かずにはいられなかった。
「…………」
ふたたびそっとスマホを取りだして見る。
零時半をまわっていた。
細かな霧雨も、だんだん本降りになってくるようだ。
スマホをハンカチでぬぐってポケットにしまい、メイは冷えきってしまった腕をさすった。
夜通し待つなら傘と、なにかはおるものを取って来た方がいいかも、とぼんやり考える。
そういえば晩ご飯もまだ食べていない。
(でも……そう思って下に降りた隙に、ひょっこり帰ってくるかもしれないし……)
どうしても思い切れず、疲れた足をひきずってまた反対側の手すりへと向かいかけた時、
「……!?」
背後にかすかに、慣れ親しんだ、人ではない存在の圧力を感じ、メイはハッとふり向いた。
「あ……!」
いつあらわれたのだろう。
屋上からやや離れた空中に破壊神が立ち、黙ってこちらを見おろしていた。
なにがあったのか、縮身の封印を破ってもとの大きさに戻っている。
メイは一瞬戸惑ったがすぐ、
「あの! あの、帰って来てくださってありがとうございます、嬉しいです! あの、わたし、戻るの遅くなってごめんなさい! もし、もし夕方先にここに来られたんなら、その……」
喜びとともにせきを切った言葉はしかし、最後まで言い終えられずに宙に消えた。
破壊神が、ぞっとするほど無反応だったからだ。
怒りもいらだちもない。その白銀の瞳は荒野の月さながらにつめたく、初めて会った時よりもなおよそよそしく凍てついていた。
なにかがおかしい。
こみあげる強烈な不安におののきながら、メイはその時やっと、もうひとつの異常に気づいた。小雨の降りしきる夜空をあわてて見まわし、質問する。
「あの……あの、しんらさんは……どこに?」
「食った」
言下に返ってきたとんでもない答えに、メイは耳を疑った。
「ど……どうしてそんなことを……?」
ウソ……ですよね? とすがるように続けかけて、磨いた刃のような破壊神の目が、またたきもしないことに息をのむ。
そういえば、破壊神はそういうウソはつかない。
ほんとうに殺してしまったんだ──と悟ったとたん全身が震えだし、どっと涙があふれた。
悲しくて、そして腹立たしかった。
破壊神が無慈悲なのはよくわかっているけれど、初対面の人間だって平気で狩りかねないのは承知しているけれど、でもそれでも、しんらをいきなり殺したりすることはないと……信じていたのに。
「な……なんでなんですか? どうしてそんなことに、な、なっちゃったんですか……?」
涙を嫌う破壊神のそばで泣きたくはなかったが、いつもと違って苦いと文句も言わず、表情さえ変えない破壊神を見ているとますます悲しくて、どうにも涙が止まらなかった。
しかし、破壊神は返事をしようともせず不意に、まるで、そもそもここに立ち止まる理由などなかったことを思い出したかのように、恐ろしく無関心に空中できびすを返す。
瞬間、メイは全身の血の気が引くような感覚とともに理解した。
今、行ってしまったら、きっと二度と戻らない──。
「ま、待って!」
必死のあまり、悲鳴のような叫びがのどを裂いてほとばしる。
「わけぐらい……い、行くんならわけぐらい話してから行ってください!!」
一番聞いておきたいわけは、しんらを殺したわけなのか、今この場から立ち去ろうとするわけなのか、メイ自身もよくわからなかった。わからないまま、とめどなくあふれる涙と勢いを増す雨に眼鏡が曇ってしまい、もう破壊神の姿もよく見えない。
てっきりそのまま行ってしまうかと思ったが、メイの半泣きの叫びにふくまれた強い憤りに反応したのかもしれない。
破壊神はいっさいの関心をなくしたまなざしでだが、ちらっと一度だけふり返った。
「食えもしねえやつに、ついてても仕方がないからな」
答えるでもなく乾いた声音でつぶやいて、あっと言う間に雨の夜空へ飛び去ってしまう。
敵を嫌うことすらやめられる無情の神は、ロキが「味見」をしたがっており、ゆえに遠からず二度と食べられないほど苦くされてしまうに違いないメイにも、興味を失ったのであった。
夜叉神にとってはむしろ、その興味を失ったはずの相手の顔を見るためだけに、あえてもう一度この場に立ち寄っただけでも、かぎりなく奇跡的な行動と言えた。
だが、そんなことはメイにはわからない。
メイに伝わったのは、理由はともかく、相手が永久に去ったということだけ。
「……ごめ……ごめんなさい」
メイは涙も止まらぬままぼうぜんとつぶやき、だが次の瞬間、この期におよんでもまだ謝ることしかできない自分のふがいなさに打ちのめされ、思わずしゃくりあげた。
「やだ……ごめんなさ……や……」
せめて大泣きはすまいとけんめいに口を引き結び、制服のすそをかじかんだ手で握りしめる。
こらえきれずに嗚咽があふれた。雨のそぼ降る無人の屋上に立ちつくしたまま、メイは置き去りにされた迷子のように泣きじゃくる──。
その痛切な悲嘆を味わって、暗い物陰にひそむ蝿の群れが、笑った。
「面白い!」「続き読みたい」と思われた方は、はげみになりますのでぜひぜひブックマーク、下の評価をよろしくお願いします~☆