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2 悪魔の奏でる音楽①

 開け放された窓の外から運動部の笛の音、ボールを蹴る音やかけ声が遠く聞こえてくる。

 夕焼け色に染まり始めている空を見やって、


「のう、メイさん、いつまでここにおるんね? 他の子らァもう帰りよるが」

 遠慮がちにきく鬼のしんらに、メイは必死でシャープペンシルを走らせながら答えた。

「す、すみません、もうちょっと……もうちょっとですから!」


 〆切間際の漫画家みたいな返事だが、もちろん漫画を描いているわけではない。

 教師に借りた英語の教科書を、意味もわからないままひたすら、ノートに書き写しているのだった。メイのあまりの出来の悪さに憤慨した英語教師が、居残って三課分を三回書き写して提出せよ、と命じたからだ。


 今日。

 メイは生まれて初めて、転校を体験したのだった。

 アナスタシアと出会った先週末の夕方。

 帰宅すると零課から荷物が届いていた。

 メイの両親をどうごまかしたのか、驚いたことに転校手続きはすでに完了していて、新しい学生証と制服まで入っていた。サイズもぴったり。


 デザインは少しだけちがうが着慣れたセーラー服タイプで、メイは少しホッとした。

 それから分厚い資料ファイルをおそるおそる開き、読んだ。

 それによると──


 アナスタシアのもとから「盗まれた品」とは花の種、二粒なのだそうだ。

 もちろん、ふつうの花の種ではない。

 不死族(ノスフェラトウ)の祖、古い女神ヘカテーが亡くなる時に遺したもので、ひとつは〈眠り(ヒュプノス)〉、もうひとつは〈(タナトス)〉と呼ばれる、それぞれ非常に強い魔力を秘めた種だという。


 盗まれたのはなんと、十年前。

 世界各地の能力者の透視や占いでも行方がつかめず、あきらめかけていた矢先。日本のある学校の校内、あるいは学校にかかわりのある場所に隠されている──という暗示が出た。

 そこで、魔の種の形状や性質について他の誰より詳しいアナスタシアが、みずからその学校に立ち入り、現場を調べたいと申し入れてきたのである。


 零課は当初、断ろうとしたようだ。

 なにしろアナスタシアは「きわめて強力な」吸血鬼。

 しかも恒久的に人の目に見え鏡にも映り、陽光の下で活動できる体質まで獲得している。


 加えて資料にわざわざ、

『気に入った人間には男女を問わず誰にでも言いより、誘惑して血を吸う悪癖あり』

 と注記される危険人物──ならぬ危険妖怪である。

 できれば来日はご遠慮願いたい、というのが零課の意向だったのだが──


 人間社会に堂々と在籍、薬学の知識を生かし巨額の富まで築いているアナスタシアは、正規のルートでパスポートを取得、さっさと来日してしまった。

 すでに入国してしまった相手を、むげに追い返すわけにもゆかず──

 零課はつまり、押し切られたのである。


 しかし、である。


 だからといって、だ。


()()()()()()()……?)

 メイは写しても写しても終わらない英語の教科書の、もとの学校で使っていたのよりもずっと印刷がこまかくて、知らない単語がびっしりの紙面に、泣けてきそうになる。


 これまでずっと、生まれ育った地元の学校で過ごしてきた。

 だからまず、問題の学校が遠い他県にあり、数日か数週間か知らないが、調査が終わるまでそこで寮生活をしなければならない、と知っただけでショックで目の前が暗くなった。


 しかも入ってみると、学校のレベルが段違いなのである。

 授業進度も違うし、そもそも使っている教科書からして違う。

 きいてみれば当然の話で、実はこの学校、県内では名の知れた進学校らしい。


「…………」

 英語も数学も物理も、中では得意なつもりだった古文までついていけなかったことを思い出し、メイはこんな学校に通わなくてはならない不運に、あらためて打ちのめされた。


(でも……高校生の年ごろの課員なんて、他にいないのかもしれないし、いたとしても他の人はきっともっと有能で忙しくって、アナスタシアさんのお供には向かなかったのかも? だからきっと、このお仕事は初心者のわたし向きの、やさしくて安全な仕事……なんだわ!)


 せいいっぱい自分をなぐさめつつもやはり、こんな学校に自分を送りこんだ課長を恨まずにはいられない。目の前が涙でじんわりぼやけてくるのを必死でこらえつつ、


(次からは……そうよ、次からは転校が必要って言われたら、学校のレベルをちゃんときこう……! それで、ついていけないレベルだと思ったらちゃんと……ちゃんと……)


 しかし、そんなみっともない理由で仕事を断るなんて、恥ずかしくてとてもできそうもないと気づいて、メイはいっそう深く落ちこむ。


「おまえ、もうここから出ろ」

「え?」

 目をあげると、前の席の椅子の背に、小さい破壊神が立っていた。


 破壊神は字が読めない。

 だからだろう。メイが学校にいる間はたいてい、教室の後ろや窓の外で死ぬほど退屈そうにしていて、とりわけ本を広げた机には絶対、近づいて来ようとしない。なのにどうして、と目を丸くするメイを、小さな破壊神はにこりともせずに見あげてくり返した。


「なにをハトがマメ鉄砲食らったような顔してやがんだ。さっさと外へ出ねえか」

「どっ……どうしてですか?」

「ここにいるとおまえが()()()()

「…………はい?」

「のみこみの悪いヤツめ! おまえはどうせ、どこでなにをしてようがたいてい怖がってばかりのくそ苦いバカだが、今日ここに来てからの苦さは今までで最悪だ! いいか、人間はあるていど以上苦くなると()()()()()()。そうなっちまうと食えん。だから出ろ!」


 つまり、食料(メイ)をこんなところに置いておくと変質する、と言っているのである。

 しかも口で言うだけでは気がすまなかったらしい。

 小さな破壊神はメイの机に飛び移ると、だいたいこれが良くねえんだ、とでも言わんばかりに腹立たしげに、机の上の缶ペンケースや消しゴム、教科書を次々に机から蹴落とし始めた。


 メイはあわてて、

「ち、ちょっと! やっ、やめてください、困ります!」

 蹴落とされた筆記用具と教科書をひろい集め、借り物の教科書を万一にも斬り刻まれたりしないよう、抱きしめて守りながら腰を浮かせる。


 破壊神はけげんそうに眉をひそめた。

()()? おまえが苦くなるほど困ってんのはそいつのせいだろうが。捨てちまえ!」

「そっ、そ、そんなことできません!」

「なぜできん? おまえはミミズののたくったような字を書いてりゃ強くなるってのか?」


「そ……そういうわけじゃないですけど……」

「じゃあやめろ。必要ない」

 あっさり断定されてしまい、メイは本気でめまいを覚える。

「そ……そんな、でも、だって、妖怪はそれで良くても人間は、その……」

「なんだ」

 真正面からきき返されてメイは返答に窮した。


 言われてみると、学校の勉強が人間にどう必要なのか、きちんと説明できる自信がない。

(でも……だからって教科書捨てて学校出てくなんて……できるわけないよ……)

 と主張する勇気もなく、またもや大きな目をうるませるメイに、破壊神はますますいらだちをつのらせ、しんらはわきでおろおろと、ふたりをなだめるタイミングをうかがう。

 その時、


「あ! 神納さん、まだ残ってたんだ?」

 サッカー部のユニフォームを着た少年が、ひょいと教室をのぞきこんだ。

 メイは驚きに跳びあがり、あわてて大きな鬼と小さな破壊神の両方に『目立たないでくださいね!』と目顔で念を押す。


 すでに前の学校でも、しんらが通りすがりにゴミ箱を蹴倒したり、破壊神が実験中の試料に思いつきでちょっかいを出して勝手に混ぜ、ビーカーの中味を発火させてしまったり、と何度か事件が起きていた。例によって誰も妖怪の存在には気づかなかったが、代わりにメイがやったと思われ、そのたびに言い訳と後始末に苦労させられている。


「ちっ、小心者め」

 破壊神は舌打ちしたが、これ以上メイの悩みの種を増やすのは得策でないと判断したらしい。

 近づいてくる少年にちらっと無関心なつめたい瞳を向け、そのまま意外とあっさり場所をゆずって隣の机に移る。


 律儀なしんらも気配をしぼったまま、そうっと天井すれすれまで浮き上がった。これでまわりの机や椅子を蹴飛ばす心配はないぞ、というように、周囲を確かめる。


「どしたん? すくんじゃって。オレ、オバケにゃ見えねーつもりだけど」

 頭上に浮いている鬼にも、隣の机の上の小さな神にも気づかず、サッカー少年は近づいてくると手にした缶ジュースを飲み干し、近くの机に置いた。それで初めてメイが抱いているのが英語の教科書なのに目を留め、ぴしゃりと自分の額をたたく。


「あっちゃー、神納さん、ナスに言われたことマジにやってたんだ!?」

「ナ……ナス……?」

「英語のセンセだよ。眉がつながり気味であごがこう長くって、ナ・ス! って感じだろ」

 言いながらぎゅうっと音がしそうなほど顔全体を動かし、巧みに英語教師の似顔を形作る。


 ついくすっと笑いそうになるメイを前に、少年はけろりともとの顔に戻った。小わきにかかえてきたサッカーボールを、器用に頭ではずませ始めながら続ける。

「とにかくやめ! 三回も写せー、なんてよぉ、あんなのただのみっともねーオステリーの嫌がらせなんだから、できませんでしたー、ですませときゃいーの!」

「そっ……そうなんですか?」


「みんなそーしてるよ。ただ写したって覚えられねーもん。神納さんは覚えられんの?」

「い、いえ……でも……」

「だったら意味ないことはやめやめ! 泣いても笑っても自分の人生は一度っきりなんだぜ、楽しくやんなきゃ損だろ?」


 そんなふうに言われるとなんだか一理あるような気がしてくる。メイはようやく少し気が楽になって、帰り支度を始めた。しかし心の中ではまだ、

(じゃあ……持って帰ってやるぐらいはきっと、許されるわよね)

 などと、どこまでも行儀のいいことを考えている。


 一方、隣の机の上では小さな破壊神が、どうして自分が言っても動かなかったメイが、急に気を変えて帰る気になったのかといぶかるように銀の目を細めた。メイはそれには気づかず、


「あ、あの……それじゃわたし、帰ります。ありがとうございました」

 生真面目に頭をさげる。するとサッカー少年は、頭上ではずませていたボールを膝へ移しながら、今度はアヒルそっくりの、ひょうきんなしかめ面になった。


「ブーッ、()()もやめ! 神納さんごめんなさいとありがとうが多すぎ! かたくるしーよ」

「す、すみませ……気をつけます。で……あのう、し、失礼ですけど……」

「ん?」

「わたし物覚え悪くてその……ど、どなたでしたでしょう?」

 きくと、百面相少年はとうに覚えてもらっているつもりだったらしく、派手にずっこけた。


「ごっ、ごめんなさ……わたし、もともと人の顔とか名前とか覚えるの、に、苦手で! その……先生の名前もまだ覚えきれてないぐらいで……」

 しりつぼみに小さくなる声で言いながら、メイは必死で相手を観察し、思い出そうとする。


 確かに、印象に残りやすい少年ではあった。

 やや小柄で、どちらかといえば平凡な顔立ちだが喜劇俳優より表情豊か。寝ぐせのついた髪から歩き方までまんべんなくおどけていて、旺盛なサービス精神を感じさせる。


(そ、そういえば休み時間に見た顔のような……えーっと名前、名前は……)

「タクトだよ、クラス委員の(いかり)卓人(たくと)

 少年はメイが思い出すのを待たず、あっけらかんと名乗った。


「でも碇君って呼ぶのはNGな。怒りん坊みたく聞こえてヤなんだ。その点タクトならカタカナで書けば指揮棒のことだろ。お祭り屋のオレにぴったりだってんでみんなそう呼ぶよ」

 頭の上のボールを立てた人さし指の上に移し、コマのように器用に回転させながら、タクトは童顔のくせに年上のような、不思議におとなびたまなざしでメイを見る。


「まあ、困ったことがあったらさ、オレでも他の誰でもいいから遠慮なく言いなよ。ここ、レベルの高い学校ってことになってるから、初めのうちはみんなマジメで出来がいい! みたいに思うだろーけど全然ンなことないから」

「あ、ありがとうございます、よろしくお願いします」


 ついまた礼を言うメイにタクトはだからそれはよせって! と身ぶりで止め、「ところでクラブはもう決めたん?」「いえあの、放課後は用があるので……」「なんかやんなよ。ここ、クラブの数だけは多いぜえ」などと、自然にうちとけた雑談が始まる。


 その様子を天井から見守りつつ、鬼のしんらはそわそわと落ち着きなく、横目で破壊神の様子をうかがった。

 待たされて気を悪くするのではないか、メイが他の男と親しげにしゃべっていて不快に思うのではないかと心配なのである。しかし当の破壊神は腹を立てるどころか──


 メイの苦味、すなわち不安や恐怖、絶望感がどこかに消えたことを大いに評価していた。

 どうしてうまくいったのか、わきで見ていても実はよくわからなかったが、ともあれ、この騒がしい人間は実に手際よくメイの苦さを消した。


 ()()()()


 役に立つ物はなんでも、容赦なく利用するのが夜叉神だ。破壊神は、なんならこのふたりを常にいっしょにしておこうかとさえ考え始める。が、その時、

「あ!」


 タクトが会話に熱中して大きく身ぶりをした拍子に、指の上で回していたサッカーボールを取り落とした。

 あわてて手を伸ばしたがつかまえそこない、かえって軌道をそらされたボールは、さっきタクトが机に置いた空き缶にぶつかり、はね飛ばす。


(!)

 メイは、空き缶が運悪く、隣の机の上にいる破壊神の方へ飛んでいくのに気づいてドキッとした。だが気づいたからと言って、とっさに受け止めるほどの反射神経はメイにはない。

 それに、破壊神の信じがたい速さを知っているから、簡単にかわすはず、と思ったが、瞬間、つめたい銀の光がきらっと夕陽にひらめき、


「……えっ?」

 タクトの口から驚きの声がもれるより早く、空き缶はまっぷたつに割れ、かららん、と軽い音を立てて床に散らばり落ちた。

「ええーっ!? なっ、なんだあ? 缶が勝手に……割れたぞおっ!?」

 タクトは机の上の破壊神には気づかないまま、興奮して割れた缶をひろいに走る。


 メイは青くなった。

 妖怪の見えない人は普通、妖怪がドアを開けても、無意識のうちに()()()()()()()として無視してしまう。あるいは事故か偶然として納得する。しかし納得できないほどのことが起きると、妖怪の存在に気づかざるをえず──結果、ポルターガイストのような騒ぎになるのだ。


(じ……事件になっちゃう!)

 事件を解決する側の人間が、事件を作っていては世話はない。

 しかし、あせるメイをよそに、


「すげえっ! 見てよこれ、金属カッターでだってこんなきれいには切れないよ! カマイタチってやつかな……神納さん、なんか見た?」

 ひろった缶を手に、タクトは目を輝かせて原因を求め、缶が割れた場所、すなわち小さな破壊神がまだいる場所を手で探ろうとする。


 メイはあわててタクトと机の間に割りこんだ。

「えーっと、そ、その、か、缶が金属疲労してただけかもしれませんよ! そ、それにもしホントにカマイタチとかなら、さ、さわったらその、ケガするかも……」

 必死で苦しい言い訳をするうちにすぐ、自分でもなにを言っているのかわからなくなり、


(だ、だから目立たないでくださいっていつも言ってるのに……どうしてかわせるものを斬ったりなんか……!)

 思わず、机の上に立つ小さな破壊神に非難のまなざしを向けてしまう。

 瞬間、思いがけず相手と視線が合い──


 一寸法師サイズの破壊神は、どうにも納得がいかないといった表情を浮かべていた。よければすむものをなんで斬ったのかと、自分でも不思議に思っている様子だった。

 しかしたまたまメイと目が合い、メイの非難の表情に気づいたとたん、そのつめたい銀の瞳に、ひやりとするような恐ろしい光がひらめく。


(あ……!)

 メイは、破壊神を怒らせてしまったことに気づいてハッとなった。しかしなにを言う間もなく小さな破壊神はふいと目をそらし、開いた窓から無言で飛び出して行く。

「みっ、(みこと)!」

 天井近くに浮かんでいた鬼のしんらがあたふたとあとに従い、その動きにあおられてカーテンがばさっと大きくひるがえった。メイも呼び止めようと窓へと駆けだしかけたが、


「なあ、今……窓からなんか、出て行った?」

 驚きのあまり気の抜けたような声にタクトの存在を思い出し、かろうじて踏みとどまる。

「い、いいえ、わ、わたしはなんにも……見ませんでしたけど?」

 せいいっぱい否定してはみたものの、窓へ向かって走りだしておいて、説得力があるわけがない。みるみるうちにタクトの表情豊かな童顔にあからさまな疑いが、それからその疑いを追いやってあまりある、強烈な好奇心があふれてきた。


「あの、あのさあ、まさかとは思うけど、今……」

 割れた缶を手になにか、メイが答えられそうもない質問を口にする、と思われたその時。

「あら神納さん、まだこちらでしたのね。校門にいらっしゃらないから探しましたわ」

 膝まで届きそうな太いニンジン色のおさげを揺らし、緑瞳の吸血公女、アナスタシアが優雅な足取りで教室に入ってきた。


 制服が間に合わなかったからと、今日もヒマワリ柄のサンドレス姿で登校したアナスタシアの、あまりの派手さにタクトはぽかんと口を開ける。

「あ、す、すみませんお待たせして! えっと、か、課題が終わったら出ようと……」


 メイは待ち合わせを忘れていたことに気づいて冷や汗をかきながらも、いいところに吸血公女が来てくれたことに心から感謝した。あわただしくタクトのそばを離れ、

「ごめんなさい、わたし、今日はその、や、約束があって……」


「転入生同士のよしみで、今からクラブ見学をご一緒することになってますの」

 言い訳するメイに、アナスタシアは上手に調子を合わせてくれる。ついでにさっそく、腕をからめてくるのはどう考えても余計だが、この際ぜいたくは言っていられない。


「じ、じゃあそういうわけで、お先に失礼します!」

 会釈もそこそこに、メイはなかばアナスタシアに引きずられるように教室を出た。

 タクトはようやく気を取り直し「えっ、ちょっと待っ……」と呼び止めかけたが、アナスタシアの独特に色っぽく、威圧的な流し目にひるんであとを追うのをやめる。


「あの、あ、ありがとうございました……!」

 少し行って、意外にも自分から手を放してくれたアナスタシアに、メイは深々と頭をさげた。

「あの、お、おかげさまで助かりました。約束忘れちゃったりしてその、も、も、申し訳ありませんでした」

「気にすることはありませんわ。資料室の標本のチェックにも、いちおう零課の方に立ち会っていただいた方がいいかしら、と思っただけですもの」


 にっこりほほ笑むそばかすの吸血公女に、

「あ、はい、じゃあ立ち会います。アナスタシアさんの判断に従うよう言われてますから」

 答えながらさすがのメイも、校内の標本に、盗まれた種がまぎれている可能性はかぎりなく低い気がした。となると、どこかへ行ってしまった破壊神の行方の方がだんぜん気になり、廊下を歩きながらもつい、窓の外へ視線が行ってしまう。と、


「ふふっ、(みこと)を怒らせましたのね?」

 アナスタシアがとなりを歩きながら、見透かしたように楽しげにささやいた。えっ? どうしてわかったんですか? と思うが口に出せないメイに、くすくす笑いながら続ける。

「驚くほどのことかしら。守護神がそばから消えたのですもの、それ以外考えられませんわ」

「あう」


「ご存じかしら、古来、神と契約を結んだ巫女や神官は、みだりに俗人と交流を持ってはならず、人里離れた地での孤高の生活を強いられてきましたの。なぜだかわかって?」

「い……いいえ」

 話の要点がつかめず戸惑うメイに、アナスタシアは秘密めかして語を継ぐ。

「なぜなら古い神は、わたくしなどと違ってそれはそれは心が狭いからです。もう猫の額以下の狭さなの! ね、だからあなたも尊のことなんか忘れて、わたくしに乗り換えません?」


 またもやしなだれかかって来ようとする痩身(そうしん)の吸血公女から、メイはあわてて身をひく。

「な、なにをおっしゃりたいのかわかりません!」

 一瞬、吸血公女も零課の仕事も放って、破壊神を探しに行こうかともう一度窓の外を見たが、破壊神はもちろん、しんらも近くには見あたらなかった。


(そうよね、わたしじゃ追いつけないし……しんらさんがついていったからきっと大丈夫……)

 そう思うそばから急に、わけもなく強い不安がこみあげてきて、メイは思わず胸もとでぎゅっと手を握りしめる。その耳もとで、アナスタシアがささやいた。


「ところで神納さん、あなたメイって愛称お持ちなんですってね。そう呼んでもよくって?」

「お……お断りしますっ」

 我に返って逃げるように走りだすメイを、アナスタシアは楽しそうに追う。

 ふたりが階段を降りていくのと前後して、廊下のロッカーの陰に留まっていた蝿が一匹、嘲笑めいた奇妙な羽音を残して窓の外へ飛び立ったが──


 気づいた者はいなかった。


        ◆


 校舎をあとにまっすぐ飛んでしばし──

 市街地が途切れ、田畑もまばらになり、こんもりした山が緑に重なりあうところまで来てようやく、小さな破壊神は下へと方向を変えた。


 林の中の踏み分け道に生えた雑草の一本に降りたち、ひややかに背後を見あげる。

「いったいどこまでついてくる気だ?」

「ハアそのう……ど、どこまででもっちゅうか……」


 鬼のしんらは大きな体で梢を押し分けながら、もじもじとごつい指を突きあわせて口ごもった。ふわりと破壊神の近くに着地すると、ゴリラそっくりの姿勢で拳を地につけ、草の上に立つ小さな相手と同じ高さまで律儀に視線を下げてから、力をこめて断言する。

「尊がお戻りになられるまでご一緒しますけえ!」


「バカかおまえは」

 あきれかえって顔をしかめる小さな破壊神相手に、しんらは哀願の面もちでうなずいた。

「ワシゃあバカじゃけえ、バカでよがんす。けどその、早う戻られませんとメイさんが……」


「おまえだけ戻りゃいい。それでじゅうぶんだ」

「そっ……そんな(そがあな)ことおっしゃらんでください(つかーい)! お、お腹立ちはもっともじゃが……」

「……ふん」

 ヘソを曲げた幼児のようにわきを向いてしまう相手に、しんらは身を乗り出して力説する。


「あのタクトとかいうガキがお気に召さんのじゃったら、ワシがどうにかしますけえ!」

 どうにか、どうするというのだろう。さすがは鬼、こちらも言うことがズレているが、

「ほっとけ。あいつはいた方がいい」

「……ハア?」

「メイのバカの苦味を消すのに役に立つからな」


 小さな破壊神は、どうでもいいことのように言い捨てて雑草から飛び立った。西日の射しこむ踏み分け道を、どんどん奥へ飛んでいく相手に、しんらはあわてて追いすがる。

「尊! ど、どこまで行かれるおつもりで?」

「人間が来ねえとこまでだ」

「ハア……しかしそりゃまたどうして?」


「ふん、誰もいなきゃ目立たねえだろうが。……くそっ、メイのドアホウめ、なにが()()()()だ! どうせ頭の硬い人間どもは、目の前でなにしたって気づきもしねえってのに……」

 腹立ちまぎれに言いかけて、破壊神はふと気づいた。


 そのとおり。普通の人間はほうっておけば妖怪の存在は無視する。よほどのこと……たとえば目の前で物をまっぷたつにするぐらいのことをしなければ、気づきもしない。

 つまり、必要もないのにわざわざ目立つ行動を取った自分は、他でもない、あのなんとかいう妖異を見る力もない凡人に、自分の存在を知らせたかったということになるではないか。


(……()()()()()()()?)

 生まれてこの方、そんな無意味な行動などした覚えがない破壊神は、思わず眉をひそめた。

 しかも、よく考えてみるとそのあともおかしい。

 メイが、破壊神が故意に目立つことをしたと考え──確かにそのとおりだ──少しばかり怒ってこちらをにらんだ。まさにその瞬間に、自分は腹を立てた気がする。


 そう。

 今も、他のなによりメイが怒りを向けて来たこと、そのものが腹立たしい。

 だがそれこそあまりに、わけのわからない反応だった。


 闘志を持って向かってくる相手しか狩ることのできない破壊神にとって、獲物の敵意や怒りこそは望むところ。最初に会った時から、小心者のメイをどうやって怒らせ、やる気を出させるかが問題だった。しかもさっきのメイの怒りは珍しく涙抜きで、なかなか甘かったのだ。


 なのにどうしてメイが怒ったからといって、こんなに不愉快にならねばならないのか。

「メイさん悪気はねえんです。ただその、目立つっちゅうんは人の社会ではあんまり良くねえことで……ほいじゃけえ、ついその、たぶん……」

 しんらが必死でとりなそうとするのも耳に入らないほど真剣に考えこみかけて、


「……!」

 小さな破壊神は不意に、空中で止まった。

「み、尊?」

 その小さな後ろ姿にただならぬ緊張を見てとって、しんらがわけを聞こうとするより早く、


「やあハディード、ずいぶん久しぶりだね」


 魅惑的な声とともに、落ち葉の積もった小道に忽然(こつぜん)と、まばゆいまでに白い美が出現した。



 2 悪魔の奏でる音楽②へ続く



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