プロローグ 蝿の王
黄昏の青い闇の中を、美が、歩いてゆく。
神か、魔か。
北欧的な長身を純白のスーツに包み、白いサマーコートのすそをなびかせて──
ふうわりと肩をおおってきらめく、豊かな巻き毛は黎明の金。雪花石膏の美貌は天上の調和に光り輝き、微笑のたゆたう瞳は海より碧い。時ならぬ至高位の天使の降臨を迎えて、薄汚れた裏路地も心なしか明るむかのようだ。そこへ、
「おおっと、待ったあ! ここ通るにゃ通行料がいるんだよ」
物陰から飛び出し狭い路地をふさいだのは、三人組の少年だった。
平日の夕方だというのに手ぶらで私服、悪さに慣れきった顔をしている。そんな彼らも、白ずくめの獲物の、夕闇の中で発光せんばかりの美しさに一瞬、たじろいだ。
だがすぐ気を取り直し、口々に野卑な声をあげる。
「ひゅーっ、びっじーん! けどでけーな……モデルかあ?」
「ハァイ、おねーさん、日本語ワカリマスー? お金、持ってる? お・か・ね!」
「ちょっとでいいからさあ、ぷりーず・ぎぶ・みー……」
へたくそな英語の、語尾が宙に消えた。
目前の神の美貌に、聖母さながら麗しい笑みが広がったからだ。
その姿が、水に映った幻影のように揺らめいた。相手を「女性」と判断した少年たちの期待に応えるかのように、シルエットにまろやかな魅力を加えてゆく。
「財を得たいのだね」
今や女神と化した者のくちびるから、男とも女ともつかぬ魅惑的な低音がこぼれ出た。
「では、これをあげよう」
という言葉に少年のひとりがついふらふらと進み出、両手で碗の形を作る。
女神は光の微笑をたたえてうなずき、なにも持っていない白いてのひらを優雅に、少年の手の上に傾けた。
「!?」
とん、と、赤くきらめく大粒の宝石のついた指輪が一個、少年の手の中にこぼれ落ちた。
続いて台座にはめられていない小粒なダイヤモンドらしき石数個、瑪瑙が象眼された銀製のブローチ、古い時代の金貨、銀貨──。
まばゆい財宝は見る間に少年の手からあふれ、涼しく澄んだ音を立てて路上に散らばる。
「足りるかな?」
聖なる美をまとった女神は、にこやかに問うた。少年が、文字通りあふれんばかりに与えられた法外な富を前に返事もできないのを見て、足りたと判断したらしい。
白いサマーコートのすそをひるがえし、立ちつくす少年たちのわきを悠然と抜けていく。
数秒後、暗い路地に、うおおおおっ、という獣じみた叫びがあがった。
「よこせっ、おっ……おれにもよこせよ!」
「ひゃーでっけえ! このルビーはおれんだぞっ」
「なっ……なに勝手なこと言ってやがんだ! 返せっ、こいつはおれがもらったんだあっ!!」
争いはまたたく間に加熱、金銀のまき散らされるきらびやかな音に混じって、人が人を殴り、蹴る、湿った暴力の音が続けざまに響く。罵声と悪態、悲鳴とうめきが交錯し、次の瞬間──
誰かがナイフを抜き、誰かを刺した。
恐怖にかられ、宝石もひろわず逃げ出す足音、置き去りにされた者の断末魔のあえぎにうっとりと聞き惚れながら、白い女神は軽やかに、みずからもたらした惨劇の場をあとにする。
「……ロキだ!」
押しつぶされたような悲鳴をあげて飛び立ったのは、電線に留まっていたカラスだった。
「ロキ!? で、ではこのお方があの名高い……」
「バ、バカ者! 目を伏せよ! 蝿の王のお姿は、見ただけでも災いがあるというぞ……!」
クモの子を散らしたように逃げていく妖怪たちの、恐怖のささやきを歓呼の声のように機嫌良く聞き流し、天使の美に輝く魔王は裏路地を出た。
明るくにぎやかな大通りを、信号どころか車の往来も気にせず渡っていく。そのとたん、
「!」
魔王の美に目を奪われたドライバーが運転を誤り、次々に電柱や消火栓、前を行く車に突っこんだ。客に手渡されようとしていた陶器が取り落とされて砕け、工程を間違えた作業員の手もとで配電盤が炎をあげる。カップルはたちどころに恋人に幻滅し──魔王を目にしたすべての人が、日常のささやかな喜びから人生の目的にいたる、あらゆる大切なものを見失った。
嵐のように広がってゆく大小さまざまな災厄の連鎖をあとに、白い魔王は悠々と通りを渡り終えると狭い路地に姿を消す。
直後。
つんざくような急ブレーキの音が響いた。
「ひっ……人が轢かれたあ!」
誰かの動転した叫びとともにあたりが騒然となる。
「道の真ん中でぼうっとしてたんだっ! ト、トラックの下に……子ども連れだったぞ!?」
黄昏の空を陰らせんばかりに黒々と噴きあがる人々の負の感情の渦を味わって、
「ふふふ」
かかわるものすべてに災いをもたらす魔王は、至高の美貌を満足そうにほころばせる。
そのまま、ひとけのないもつれた路地を迷わずたどり、古いビルの裏手にまわりこんだ。
間口の狭い階段を見つけて、おりてゆく。と──
「おお、尊き明けの明星、いと古き神アザゼルにして妖霊たちの父、愛すべからざる光の名を名乗り、古今すべての霊能者を退けてこられた……栄光曇ることなき数多き方よ」
妖しくも官能的な女性の美声とともに、重たげな木の扉がみずから開いた。
薄暗い入り口ホールで、きららかな黒髪の異国の美女が、うやうやしく腰をかがめる。
「ようこそ、いらせられませ、世界を終わらせるお方」
と言った褐色の美貌は、誘惑する夜のようにあでやか。たわわな胸を大粒の真珠のネックレスで飾り、妖艶な曲線を描くなまめかしい腰の下、黒いドレスのすそからは黄金にきらめく蛇体が伸びている。蛇体は長く、狭いホールのなかばを埋めて、重たげにとぐろを巻いていた。
「あいかわらず美しいね、アイシャ。太陽も月も、君の前では色あせよう」
北欧の悪神、ロキの名を持つ碧眼の魔王は、異形の女主人をほめたたえながら中へ入る。
たちまちその、女神めいた姿がさざ波立ち、女主人の好みを反映しようとするかのように男性的な美を獲得していった。肌の色さえ相手に合わせて褐色に陰らせながら、ロキは恋人よりも親しげに蛇女神の顎に指をかけ、そっと仰向かせようとする。
「……お許しを、ロキ様」
ネックレスを鳴らし、必死で顔をそむける蛇女神の、琥珀の美声がかすかにわなないた。
このあたりではもっとも年長の、力ある神のひとりである彼女が、恐怖に震えているのであった。その蛇体をおおう黄金のウロコがちりちりと澄んだ音を立てて逆立ち、七色の輝きを宿すブラックオパールの瞳が恐れのあまり、蛇の本性をあらわして鋭く縦にすぼまる。
女神の恐怖にあてられ、カウンターに飾られた花束が、みるみるうちにしおれていった。
「いい子だ。君の恐怖はかぐわしい」
うっとりと言うロキに、黒髪の蛇女神は長いまつげを伏せたまま、震える声で懇願する。
「恐るべきお方……どうか……どうかなにもなさらず、お立ち去りくださいませんか……」
「おや、せっかく君と君の可愛い臣下たちに、素晴らしい贈り物を用意して来たのに?」
至高位の天使よりまばゆく、魅惑的に微笑む太古の悪神に、蛇女神は必死で首をふった。
「いいえ、いいえ! お気遣いにはおよびません。我らなど、お目にも留めず行かれませ」
「ふむ。では残念だが……君のその、愛らしい恐怖にめんじて、そうしよう」
ロキは蛇女神の黒髪をひと房、さも愛おしげにすくいあげて口づけすると、おびえる女神の頭上すれすれに天使の麗貌を寄せる。恋する悪魔のように、甘やかにささやいた。
「ところでアイシャ、あのハディードが泣いたといううわさを聞いたんだけど、本当かい?」
きかれて、蛇女神の表情が凍りつく。
「答えておくれ、絶世の歌姫よ、夜叉神の中でももっとも無慈悲なあの少年が、本当に?」
重ねて問いを発するこのうえなく優しい声音に、どんな脅迫の響きを聞き取ったのか──
隠しきれず、無言のまま小さくうなずいて肯定する蛇女神を前に、恐怖と絶望、悲しみを糧とする太古の神は、燦然と微笑した。
「すばらしい……!」
◆
ほどなく蛇女神の住みかを出たロキは、暗い路地を上機嫌で歩き出しかけて、ふと眉をひそめた。
ついさっき、あれほどかきまわしてやった街の気が、もう平穏を取り戻している。
轢かれた親子がよほどの強運の持ち主で、無傷ですんだとでもいうのだろうか?
それにその向こうの暗い路地で、死にかけていた不良少年の気配も、もうない。
「…………」
ロキは不愉快そうに碧い目を細め、少年を置き去りにした路上に思念を伸ばした。
苦痛と後悔、絶望のにおう真新しい血痕をまさぐり、憎悪のしみたナイフをなで……しかし次の瞬間、死の寸前に誰かに救われた少年の、素直な驚きと喜び、感謝の残留物を感知し、炎にでも触れたかのようにさっと思念をひっこめる。
不意に、天地の王のように寛大な、威厳あふれる歓迎の微笑とともにふり返った。
「ああ……なるほど! 君が助けたというわけか」
「お久しぶりです」
礼儀正しく答える声とともに、一瞬前まで誰もいなかった路地に、忽然と人影があらわれる。
遠隔移動。
超常現象の中でももっともまれな、強力な現象をやすやすと操ってその場に立ったのは、貧相ななで肩にくたびれた背広をひっかけた、さえない男性だった。
地味で凡庸な顔だちの中で、目立つのは無精ひげと度の強い角ぶち眼鏡ばかり。髪もぼさぼさで、会社に泊まりこんで三日めの万年平社員といった風情だ。
だが、威厳のかけらもないこの人物こそは当代随一の霊能者──千年の伝統を持つ対妖異司法機関、警察庁霊能局零課を率いる大谷野真悟課長であった。
「大谷野君、君の仕事熱心にはほとほと感心するよ。人間はこんなにたくさんいるというのに、街角で死ぬ者のひとりやふたり、見なかったことにしようとは思わないのかい?」
からかうように言う魔王に、大谷野課長は浮世離れした穏やかさで、用件を述べる。
「ロキ様、みだりにお姿を人目にさらしていただいては困ります」
「わたしが姿を見せている? とんでもない!」
ロキは一点の曇りもない友好的な微笑とともに、なめらかに反論した。
「ごらん、わたしはかぎりなく小さい力でこの姿をあらわしている。本来なら、人ならぬ存在を見ることを忘れた現代の人間たちが気づくはずもない、ささやかな姿だ。だが人はみな美しいものを愛する。それがこの世ならぬものであればあるほど、競ってひと目見たいと望む。ゆえに、霊能者でもないのに見てしまうのだ。それがわたしの罪だろうか」
「人が見てしまうと知ってやっておいでなのですから、あなたにも責任がおありです」
「それはまさか……もう一度、わたしと戦ってみたいという意味かな?」
ロキが冗談めかして切り返した瞬間、黄昏の闇が、おののいた。
白い魔王の全身から、地底の闇より昏く、沸騰する金属より凄惨な邪悪の気配があふれ出し、見る者の視覚を灼きつくさんばかりにその美貌を燃えあがらせる。
アスファルトの割れ目に根づいていた雑草が、恐怖のあまり、枯れた。
狂ったアリが同士討ちを始め、ねぐらの中で絶望した小鳥が次々に、翼をたたんで墜落する。
魔王の気の影響が街に広がるのを防ぐべく、静かに祈念をこらす大谷野課長の額にも、冷や汗が噴き出した。
「わたしはかまわないよ、そうしたければ前任者の仇を討ちたまえ。十年前、わたしと戦ったばかりに君の癒しも通じぬほど深く狂い、妻子を殺して自殺してしまった……あの哀れな男の仇を討ちたいのだろう? 君は彼をいたく尊敬していたからねえ。だが知ってのとおり、寛大なわたしも霊能者にはつい手が出てしまう……おお、そういえば、義足の調子はどうだね?」
思いやり深い口調とは裏腹に、魔王の碧い瞳は他者の不幸をむさぼる歓びに燃え輝く。
同時にその白い片腕が黒く揺らめき、痩せこけた狼の口に変わって飢えた牙をむきだす。
「ああ、我が子フェンリルに足を喰いちぎられた時の、君の悲鳴を思い出すよ。気の毒に、今でも夢に見るだろう? 君は夜ごとわたしへの怒りを思い出し、憎しみを思い出し、恐怖と絶望を思い出す……君は一生、わたしを許せまい。にもかかわらずあの美しい感謝と鎮静の祈りを今度こそ、わたしに向かって唱えきることができるというなら、いつでも聞いてあげるとも」
虚偽の神ロキの優しい言葉には、黄金をも腐らせかねない、凄まじい呪いがこもっていた。
その邪悪な響きを浴びて、道ばたに転がっていた無関係な人形まで、自分が経験したはずもない怒りと憎しみ、恐怖と絶望に打ちのめされ、作り物の瞳から血の涙をあふれさせる。
まして当事者である大谷野課長は、かつて敗北の時に体験した苦悩と苦痛のすべてを今この時に呼び起こされ、重病人のような顔色になった。しかし、炎のように笑み崩れるロキに、
「お忘れですか、でもあの時、あなたは我々に誓約なさったのですよ」
大谷野課長が凛とした声音で言ったとたん、清めの水を打ったかのように闇の気配がゆるむ。
「姿定まらぬヒルコ神、現存するもっとも古き大神よ……確かに人間はあなたにくらべればあまりに弱い。ですがそれゆえこれ以降、人には、その自発的了承を得た上でなければ決して、いかなるものも与えない、と言あげなさったではありませんか。お姿とても同じことです」
「ふむ。わたしは言あげになど左右されぬ、と言ったら?」
「その時には、この命にかえても今一度あなたを拝し奉り、御身を残らず鎮め祓うまでです」
驚くべきことに。
宣言がなされた瞬間、すべてがすでに達成されたかのように清浄な和の気があたりに広がり、夜を追う昼の確かさで、ロキからあふれる闇をやんわりと押しやった。
希代の霊能者の気に打たれ、さしものロキの気配が感電したかのようにかすかに震える。
だがロキの、至高位の天使の美貌に広がったのは恐れではなく、邪悪な歓喜の微笑だった。
「これは驚いた。まさか君がはったりを言うとは! 言霊をなにより大切にする君のようなタイプの魔術師が、そんな、自分も信じられないようなウソをついていいのかね?」
「!」
大谷野課長の宣言は決して、ウソではなかった。
しかし、ロキがそれをウソと決めつけたとたん、心の奥底にひそんでいた一万分の一にも満たないわずかな不純物──できないかもしれないというかすかな恐怖が無限大に増幅されてふくれあがり、宣言は瞬時に効力を失う。
霊力の守りを吹き飛ばされ、一気にロキの闇にのみこまれた大谷野課長の眼鏡にひびが入った。太古の悪神ロキによって極大とされた絶望と恐怖と悲哀に魂を蹂躙され尽くし、その平凡だが温和な顔がみるみるうちに、人が変わったように無惨な荒廃の表情にむしばまれていく。
ロキは、微笑んだ。
人魚より美しい、万人の心をとろかす声音で歌うように言う。
「君が好きだよ。まれにみるほど勇敢な君の、その絶望の味が大好きだ。だから、君がこれ以上無駄な試みをして命を落としたりしないよう、言あげを守ってあげよう。あらためて誓うよ。我が美をふくめ、自発的了承を得ないかぎり決して、人にはなにものも与えぬと」
言うより速く、燃えさかる美に包まれたその姿が、闇より昏い闇色に反転してほどけた。
「恥じることはない。人類の発祥以来、君よりすぐれた魔術師などいくらもいたが、誰ひとり、わたしを滅ぼすことなどできなかったのだから」
黒い雲と化して親しげに犠牲者を抱き、変わらぬ典雅な声音でささやきかけるなり、わああん、と蝿か蜂の大群を思わせるおぞましい羽うなりを残して、夜空はるかに飛び去る。
「…………」
闇の圧力が去ったとたん、大谷野課長は、糸の切れた人形のように路上に崩れ落ちた。
生ける屍さながら虚ろな目でうずくまったきり、動かない。
一度ならず二度までも最悪の神に敗れ、心を餌食にされたのであった。
並みの霊能者なら霊力どころか生きる気力そのものを失い、そのまま倒れて死んだだろう。
しかし、
「……それでも……」
というつぶやきがその口からもれるやいなや、瞳と表情にじわりと力がよみがえってくる。
「それでも……永久にあなたの時代が続くはずはありません」
冬の次は春です、と言うのと同じほど単純素朴な、不動の信念に満ちた言い方であった。
その場違いなほど明るい響きに、たちまちあたりにただようロキの気の残響が浄められ、魔王への恐怖で立ち枯れた草も、新しい芽を芽吹かせる。
平凡な見かけからは想像もつかない、文字通り奇跡を起こす力を持つ不屈の霊能者、零課の課長はひと息つき、よいしょ、と自分にかけ声をかけて立ちあがった。
威儀を正し、もう誰もいない路地の闇へ向かって、なにもなかったかのように一礼する。
「当方の要望を聞き届けていただきましたこと、心から感謝いたします。あ、それと、今度のうちの新入課員はたぶん、あなたにとって一番苦手なタイプです。間違ってもちょっかいなどお出しになりませんよう、あらかじめご忠告申しあげます」
どこまで本気なのか。去ったはずのロキが聞いていることを疑わない様子で丁寧に挨拶をすませると、古傷が痛むらしく、わずかに片足をひきずってきびすを返す。
とたんに空間転移し、かき消すように姿が消えた。
ややあって──
「大谷野め、負け惜しみか。このわたしに苦手な相手などあるものか」
すっかり陽の落ちた都会の夜空のどこかで、無数の分身を持つ数多き者……蝿の王の、姿なき羽音がかすかに、不吉な嘲笑めいてこだました。
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