表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【第一章完結】名もなき森の後砦   作者: フリィ
プロローグ 不完全な名前
9/64

009 共感は温かく、冷たい

──夕食の後、賑やかな声に誘われるまま、少女は他の女の子たちと一緒に浴場へ向かった。


扉を開けると、白い湯気がふわりと舞い上がる。中ではすでに何人かの子どもが湯船に浸かっており、あちこちから楽しげな笑い声が響いていた。


「お姉ちゃん、こっちこっち!」


先に服を脱ぎ終えた子どもたちが、楽しそうに手招きする。少女は少し戸惑いながらも、そっと足を踏み入れた。


桶でお湯を掬い、ゆっくりと体にかける。少し前までは、冷水で体を洗わせてもらえることさえ、ほとんどできなかった。これからは、こんなことが毎日できるのだと考えると、とてつもない幸運に恵まれたのだと実感する。


しかし他の子たちは、それだけでは終わっていないようだ。お湯に全身を浸し、談笑している。リリィも他の子に倣って、お湯の中に片足を入れてみる。


「んぅっ……!」


湯の中に沈んだ右足を伝い、熱が全身を駆け巡る。こんな感覚は初めてだ。……しかし、徐々に慣れてきた。さらに左足を入れ、ゆっくりと座ってみる。傷だらけの体を包み込むように、温もりがじんわりと染み込んでいく。


「ふぅ…」


思わず漏れた息に、すぐそばからくすっと笑う声が聞こえた。


「お風呂、久しぶり?」


少女が顔を上げると、少し離れたところにいた年上の少女が、穏やかな笑みを浮かべていた。


「え… あ、こうやって、浸かるのは初めてで……」


年の頃は十五、六だろうか。濡れた髪を後ろでまとめ、どこか落ち着いた雰囲気を持っている。


挿絵(By みてみん)


「フフ、そっか。わたし、リーベルっていうの。…食堂で泣いちゃってた子、だよね?」


少女ははっとして、思わず俯いた。


「あ… えっと… ごめんなさい… 変、でしたよね…」


「ううん、全然。」


意外なほどはっきりとした声に、少女はそっと彼女を見上げる。彼女はゆっくりと近づいてきて、少女の隣に座った。


「私も、昔同じことしたから。」


「…え?」


「初めてここでご飯を食べたとき、私も泣いちゃったんだ。恥ずかしいくらい、ぽろぽろと。」


彼女はくすっと笑いながら、湯に手を滑らせた。その表情はどこか憂いを帯びていたが、優しかった。


「…なんで、泣いちゃったんですか?」


少女がそっと尋ねると、リーベルは一瞬だけ遠くを見つめ、それからゆっくりと口を開いた。


「…たぶん、ずっと知らなかったから、かな。温かいご飯の味も、人の優しさも、普通に笑いながら食卓を囲むことも… 何もかもが、知らないものだったから。」


少女は息を呑んだ。


「君も… 似たような感じ、だった?」


少女は、小さく頷いた。


「わたし… なにも、分かんないです。気付いたときには… 奴隷、で…」


それだけで、リーベルはすべてを察したようだった。


「そっか…」


彼女はそっと湯に身を沈め、天井を仰ぐようにして微笑んだ。


「だったら… たぶん、君も私と同じだね。」


「同じ…?」


「うん。私も… 物心ついた時には、もう奴隷だった。何も知らなかった。家族も… 優しさも… 幸せも… もう戻れない。」


そう言って、リーベルは少女の方を向く。


「知ってしまったでしょう? 温かいご飯の味を。誰かと一緒に食べる幸せを。」


少女は、はっと息を呑んだ。


「…それを知るまでは、生きるだけで精一杯だった。でもね、一度知っちゃうと、もうそれなしじゃ生きられないんだよ。」


リーベルの言葉は、どこか切なさを含んでいた。それでも、彼女の瞳はどこまでも優しい。


「だからね、君ももう、大丈夫。」


「…大丈夫?」


「うん。だって、君はもう『幸せ』を知ったんだから。」


そう言われた瞬間、少女の胸の奥に、またじんわりと熱いものが込み上げてきた。


「…っ」


「…フフッ。先生も言ってたでしょ?泣きたいなら、泣いてもいいよ。」


リーベルがそう言って、そっと少女の背中を撫でる。


少女は唇を噛みしめ、それでもこらえきれず、小さく肩を震わせた。湯の温もりが、涙と混ざり合う。


初めて出会ったばかりの少女なのに、どうしてこんなにも心に寄り添ってくれるのだろう。


「…ありがとう、ございます…」


震える声でそう呟くと、リーベルはただ「うん」と頷いて、そっと微笑んだ。


湯に涙を落としながらも、少女は不思議と心が軽くなった気がした。ここには自分の気持ちを理解してくれる人がいる。リーベルの存在は、ほんの少しだけ胸の奥に灯りをともしてくれた。


「ねえ、ところでさ」


リーベルが急に身を乗り出し、にやりと笑った。


「あの先生って、かっこよくない?」


「……え?」


少女は思わず瞬きをした。さっきまでのしっとりとした空気が一変し、リーベルの表情にはどこか楽しげな色が浮かんでいる。きっと気を遣ってくれているのだろう。


「優しくて、強くて、それでいてどこか影があるっていうか… なんかさ、守られてるのに、逆に守ってあげたくなる感じしない?」


「え、えっと……」


少女は戸惑った。


「私ね、前からちょっと憧れてるんだ。先生のこと。」


「……!」


少女の胸が、小さく跳ねる。


「フフッ。まあ、先生は誰かを特別扱いしたりしないから無理なんだけどね?でもさ、考えてみてよ? 私たちみたいな孤児を集めて、面倒を見てくれるような人なんて、なかなかいないよ? しかも、あの落ち着く温かい雰囲気… あれ、ずるいよねぇ。なんかこう、安心させてくれるっていうか…」


リーベルはうっとりと天井を見上げながら、ぽつぽつと語る。その言葉に、少女は小さく頷きながらも、胸の奥がざわついていくのを感じていた。


(そう… だよね。旦那様はすごい人で、優しくて… みんなにとって、大切な人で…)


それはわかっている。間違いなく、リーベルの気持ちにも共感できるはずだった。


でも。


(なんで… こんなに、苦しいの…?)


心の奥がじくじくと疼くような、言いようのない感情が広がっていく。リーベルの言葉に頷きながらも、どこかでそれを聞きたくないと思っている自分がいた。


「ねえ、君もそう思うでしょ?」


リーベルが楽しげに問いかける。少女は、咄嗟に「はい」と答えようとした。


──けれど、その言葉は喉の奥でつかえてしまった。


「……わかんない、です。」


そう口にした瞬間、自分の心が乱れていることをはっきりと自覚してしまった。


(いやだ、こんなこと思いたくない…!)


なんでモヤモヤするの? なんで胸が苦しいの? わたしはただ、旦那様に恩を返したいだけなのに。この子と、仲良くなりたいのに…


「……ごめんなさい、わたし、もう上がります…!」


少女は急いで湯から上がり、タオルを手に取った。


「あれ? もう?」


リーベルが不思議そうに首をかしげるが、少女はそれ以上言葉を交わすことなく、そそくさと浴場を後にした。


胸が苦しかった。息が詰まりそうだった。


(わたし、なんで…?)


濡れた髪のまま更衣室を飛び出し、静かな廊下を歩く。肌寒い夜の空気が、ほてった頬を冷やしていくのがわかった。


(なんで、こんな気持ちになるの…?)


わからなかった。ただひとつ、確かなことがあった。


──こんな気持ちを抱いてしまった自分が、嫌だった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ