009 共感は温かく、冷たい
──夕食の後、賑やかな声に誘われるまま、少女は他の女の子たちと一緒に浴場へ向かった。
扉を開けると、白い湯気がふわりと舞い上がる。中ではすでに何人かの子どもが湯船に浸かっており、あちこちから楽しげな笑い声が響いていた。
「お姉ちゃん、こっちこっち!」
先に服を脱ぎ終えた子どもたちが、楽しそうに手招きする。少女は少し戸惑いながらも、そっと足を踏み入れた。
桶でお湯を掬い、ゆっくりと体にかける。少し前までは、冷水で体を洗わせてもらえることさえ、ほとんどできなかった。これからは、こんなことが毎日できるのだと考えると、とてつもない幸運に恵まれたのだと実感する。
しかし他の子たちは、それだけでは終わっていないようだ。お湯に全身を浸し、談笑している。リリィも他の子に倣って、お湯の中に片足を入れてみる。
「んぅっ……!」
湯の中に沈んだ右足を伝い、熱が全身を駆け巡る。こんな感覚は初めてだ。……しかし、徐々に慣れてきた。さらに左足を入れ、ゆっくりと座ってみる。傷だらけの体を包み込むように、温もりがじんわりと染み込んでいく。
「ふぅ…」
思わず漏れた息に、すぐそばからくすっと笑う声が聞こえた。
「お風呂、久しぶり?」
少女が顔を上げると、少し離れたところにいた年上の少女が、穏やかな笑みを浮かべていた。
「え… あ、こうやって、浸かるのは初めてで……」
年の頃は十五、六だろうか。濡れた髪を後ろでまとめ、どこか落ち着いた雰囲気を持っている。
「フフ、そっか。わたし、リーベルっていうの。…食堂で泣いちゃってた子、だよね?」
少女ははっとして、思わず俯いた。
「あ… えっと… ごめんなさい… 変、でしたよね…」
「ううん、全然。」
意外なほどはっきりとした声に、少女はそっと彼女を見上げる。彼女はゆっくりと近づいてきて、少女の隣に座った。
「私も、昔同じことしたから。」
「…え?」
「初めてここでご飯を食べたとき、私も泣いちゃったんだ。恥ずかしいくらい、ぽろぽろと。」
彼女はくすっと笑いながら、湯に手を滑らせた。その表情はどこか憂いを帯びていたが、優しかった。
「…なんで、泣いちゃったんですか?」
少女がそっと尋ねると、リーベルは一瞬だけ遠くを見つめ、それからゆっくりと口を開いた。
「…たぶん、ずっと知らなかったから、かな。温かいご飯の味も、人の優しさも、普通に笑いながら食卓を囲むことも… 何もかもが、知らないものだったから。」
少女は息を呑んだ。
「君も… 似たような感じ、だった?」
少女は、小さく頷いた。
「わたし… なにも、分かんないです。気付いたときには… 奴隷、で…」
それだけで、リーベルはすべてを察したようだった。
「そっか…」
彼女はそっと湯に身を沈め、天井を仰ぐようにして微笑んだ。
「だったら… たぶん、君も私と同じだね。」
「同じ…?」
「うん。私も… 物心ついた時には、もう奴隷だった。何も知らなかった。家族も… 優しさも… 幸せも… もう戻れない。」
そう言って、リーベルは少女の方を向く。
「知ってしまったでしょう? 温かいご飯の味を。誰かと一緒に食べる幸せを。」
少女は、はっと息を呑んだ。
「…それを知るまでは、生きるだけで精一杯だった。でもね、一度知っちゃうと、もうそれなしじゃ生きられないんだよ。」
リーベルの言葉は、どこか切なさを含んでいた。それでも、彼女の瞳はどこまでも優しい。
「だからね、君ももう、大丈夫。」
「…大丈夫?」
「うん。だって、君はもう『幸せ』を知ったんだから。」
そう言われた瞬間、少女の胸の奥に、またじんわりと熱いものが込み上げてきた。
「…っ」
「…フフッ。先生も言ってたでしょ?泣きたいなら、泣いてもいいよ。」
リーベルがそう言って、そっと少女の背中を撫でる。
少女は唇を噛みしめ、それでもこらえきれず、小さく肩を震わせた。湯の温もりが、涙と混ざり合う。
初めて出会ったばかりの少女なのに、どうしてこんなにも心に寄り添ってくれるのだろう。
「…ありがとう、ございます…」
震える声でそう呟くと、リーベルはただ「うん」と頷いて、そっと微笑んだ。
湯に涙を落としながらも、少女は不思議と心が軽くなった気がした。ここには自分の気持ちを理解してくれる人がいる。リーベルの存在は、ほんの少しだけ胸の奥に灯りをともしてくれた。
「ねえ、ところでさ」
リーベルが急に身を乗り出し、にやりと笑った。
「あの先生って、かっこよくない?」
「……え?」
少女は思わず瞬きをした。さっきまでのしっとりとした空気が一変し、リーベルの表情にはどこか楽しげな色が浮かんでいる。きっと気を遣ってくれているのだろう。
「優しくて、強くて、それでいてどこか影があるっていうか… なんかさ、守られてるのに、逆に守ってあげたくなる感じしない?」
「え、えっと……」
少女は戸惑った。
「私ね、前からちょっと憧れてるんだ。先生のこと。」
「……!」
少女の胸が、小さく跳ねる。
「フフッ。まあ、先生は誰かを特別扱いしたりしないから無理なんだけどね?でもさ、考えてみてよ? 私たちみたいな孤児を集めて、面倒を見てくれるような人なんて、なかなかいないよ? しかも、あの落ち着く温かい雰囲気… あれ、ずるいよねぇ。なんかこう、安心させてくれるっていうか…」
リーベルはうっとりと天井を見上げながら、ぽつぽつと語る。その言葉に、少女は小さく頷きながらも、胸の奥がざわついていくのを感じていた。
(そう… だよね。旦那様はすごい人で、優しくて… みんなにとって、大切な人で…)
それはわかっている。間違いなく、リーベルの気持ちにも共感できるはずだった。
でも。
(なんで… こんなに、苦しいの…?)
心の奥がじくじくと疼くような、言いようのない感情が広がっていく。リーベルの言葉に頷きながらも、どこかでそれを聞きたくないと思っている自分がいた。
「ねえ、君もそう思うでしょ?」
リーベルが楽しげに問いかける。少女は、咄嗟に「はい」と答えようとした。
──けれど、その言葉は喉の奥でつかえてしまった。
「……わかんない、です。」
そう口にした瞬間、自分の心が乱れていることをはっきりと自覚してしまった。
(いやだ、こんなこと思いたくない…!)
なんでモヤモヤするの? なんで胸が苦しいの? わたしはただ、旦那様に恩を返したいだけなのに。この子と、仲良くなりたいのに…
「……ごめんなさい、わたし、もう上がります…!」
少女は急いで湯から上がり、タオルを手に取った。
「あれ? もう?」
リーベルが不思議そうに首をかしげるが、少女はそれ以上言葉を交わすことなく、そそくさと浴場を後にした。
胸が苦しかった。息が詰まりそうだった。
(わたし、なんで…?)
濡れた髪のまま更衣室を飛び出し、静かな廊下を歩く。肌寒い夜の空気が、ほてった頬を冷やしていくのがわかった。
(なんで、こんな気持ちになるの…?)
わからなかった。ただひとつ、確かなことがあった。
──こんな気持ちを抱いてしまった自分が、嫌だった。