008 家族の甘み、自由の苦み
声はかすかに震えていたが、その瞳はまっすぐだった。
「…私に、かい?」
「はい… あの、お医者様みたいに… すごいことなんて、何も、できない、けど… なんでも、させていただきます!辛くても、痛くても… 我慢しますっ!」
男は少女の必死な表情を見つめ、ふっと柔らかく微笑んだ。夕暮れの光が彼の輪郭を穏やかに照らし、優しい影を落としている。
「…フフ。ありがとう。そこまで必死になる必要はないが… 君がそんなふうに思ってくれるなんて、思わなかった。」
そう言いながら、男はそっと少女の肩に手を置いた。その手は温かく、けれどどこか申し訳なさを滲ませていた。
「君はもう自由なんだ。せっかく手に入れた自由を、私なんかのために捨ててしまうのかい?」
少女は目を瞬かせ、口を開きかける。しかし、男は優しく首を振った。
「恩を返したいと思ってくれるのは、とても嬉しい。でも、それは義務じゃないし、無理をすることでもない。今君は、君自身の幸せを一番に考えるべきなんだ。」
少女は俯き、ぎゅっと手を握りしめた。何かを言いたそうにしていたが、言葉にならない。
男は静かに続ける。
「もしここで暮らすなら、君は不自由なく、立派な大人になれると保証する。…無理に何かをしようとしなくても、君が笑っていてくれるだけで、私は十分なんだ。」
優しい声が、少女の胸の奥に染み渡っていく。ずっと持ち続けていた「恩返し」という名の焦りが、そっとほどけていくような気がした。
「…でも…」
「もし、どうしても何かしたいなら… ゆっくり考えればいい。君が心からやりたいと思えることをね。」
そう言って、男は少女の頭をそっと撫でた。少女は驚いたように目を瞬かせたが、その手の温もりに抗うことはできず、静かに目を閉じた。
窓の外では、夕陽が沈みかけている。柔らかな風がカーテンを揺らし、静かな夜の訪れを告げていた。
──すっかり日は落ち、孤児院には美味しそうな匂いが立ち込めていた。少女はひとまず孤児院の制服に着替え、男と共に食堂へと向かっていた。
「わぁ!先生も一緒なんだ!やった!」
食堂の入り口で待っていた小さな子どもたちが、男の手を引く。彼女は少し戸惑いながらも、男を追いかけるように食堂の中へ足を踏み入れた。
部屋の中は、にぎやかな声と温かい香りに満ちていた。長い木のテーブルには、大皿に盛られた料理が並び、子どもたちが楽しそうに笑い合いながら座っている。パンをちぎる手、スープをすする音、誰かが冗談を言っては弾ける笑い声。それらがすべて入り混じって、食堂はまるでひとつの大きな家族のようだった。
少女はふと、自分の手を見る。こんな光景を、こんな雰囲気を、今まで知らなかった。
「ほら、おいで。ここに座りなさい。」
男の隣の席に腰を下ろすと、目の前の皿に湯気の立つスープと焼きたてのパンが置かれる。その香ばしい匂いに、思わず喉が鳴った。
「遠慮しないで、食べるといい。」
男の優しい声に背中を押され、少女はそっとスプーンを手に取る。スープを一口すすると、口いっぱいに広がる優しい味に、思わず目を見開いた。温かくて、柔らかい。こんな記憶はないはず。しかし、どこか懐かしい。
「おいしい…」
ぽつりとこぼれた言葉に、隣の子どもがにっと笑った。
「だろ? ここのごはん、すごくおいしいんだ!」
「ねえ、お姉ちゃん、パンも食べる? これ、ちょっと甘くておいしいんだよ!」
「スープのおかわりもあるよ!」
次々と向けられる言葉に、少女は目を瞬かせる。自分がこんなふうに、誰かと食卓を囲むなんて、考えたこともなかった。ただ食事をするだけなのに、胸の奥がじんわりと温かくなっていく。
ふと、隣の席の男と目が合う。彼は静かに微笑みながら、何も言わずに頷いた。その仕草が、少女には「ゆっくりでいいんだよ」と言っているように思えた。
「…はい。」
少女は小さく頷き、再びスープを口に運ぶ。その温もりが、心の奥まで染み渡っていくのを感じながら。
スープをもう一口、もう一口と運ぶたびに、少女の手は止まらなくなった。温かくて、優しくて、ほんのり甘みのある味が、空っぽだった心と身体にじんわりと染み渡っていく。
パンをちぎり、夢中で口に運ぶ。頬張るたびに広がる香ばしさとほのかな塩気。スープと一緒に飲み込むと、喉を通る温もりが、今まで知らなかった安心感をもたらしてくれた。
「おかわり、いる?」
隣の子が、笑いながらパンを差し出す。少女は一瞬戸惑ったが、気付けば無意識に手を伸ばしていた。
「…ありがとう、ございます…」
声が震えたのは、何のせいだったのだろう。緊張?疲れていたから? それとも、ただお腹が空いていただけ?
違う。
スープの温かさも、パンの優しい甘さも、そして何より、このにぎやかであたたかな空間が、自分を包み込んでくれているから。
次の瞬間、ぽたりと滴るものがあった。少女は驚いて手を止め、自分の頬に触れる。
涙だった。
「……あれ?」
どうして泣いているのか、わからなかった。でも、止めようとしても次から次へと溢れてくる。静かに、こぼれるように。
「お姉ちゃん…?」
「ど、どうしたの…?」
子どもたちが不安そうに覗き込む。少女は慌てて袖で目元を拭おうとするが、涙は拭っても拭っても溢れてきた。
「ご、ごめんなさい…っ なんでか…わかんない、です…っ」
震える声でそう言ったとき、不意に背中にそっと、温かい手が置かれた。
顔を上げると、男が静かに微笑んでいた。
「無理に止めなくていい。」
少女は、はっと息をのむ。
「泣きたいときは、泣いていいんだよ。」
その言葉が決壊の合図だった。
「…ひっ、ぐ… うぅ…っ」
少女はスプーンを握りしめたまま、小さく肩を震わせる。泣いてはいけない理由なんて、今はどこにもなかった。ただ、溢れてくる感情のままに涙を流しながら、温かい食事をひたすら口に運び続けた。
それはきっと、初めて味わった「幸せ」の味だった。