069 完璧の鬼と愛着の悪魔
リリィは震える手でフォークを持ちながら、テーブルの上に置かれた残り少ない朝食を見つめていた。
「リリィ、よく頑張ったね。慣れない食器の扱い方は大変だろう。残りは私が食べさせてあげるから、君は手を休めるといい。さあ、あーん……」
ヴェルメイン先生が微笑みながらフォークを近づけてくる。リリィは遠慮がちに小さく口を開け、ひとかけらのニンジンが旦那様の手によって口の中に運ばれる。いつもより甘く感じるのは、このニンジンが新鮮だからか、それとも……
などという甘い妄想が浮かんでしまい、リリィは思わず顔を赤く染める。
そんなリリィの周囲では、朝の食堂に独特の空気が張り詰めていた。
ヴェルメイン先生は用事のため席を立ち、食事作法の指導はメイド長・ロザーナに引き継がれていた。子どもたちは皆、慣れない貴族式の作法に悪戦苦闘した。
しかしそんな中でも、アルメリア、フィデル、アンドリューといった年長組はさすがに飲み込みが早く、既に食事を終えて優雅に退席している。その一方で、リリィ、カリタス、クラージュ、ジャスティンの4人は未だ苦戦中だった。
食堂に響くのは、食器と皿がかすかに触れ合う音、そして……ロザーナの足音。ほんのわずかでもカトラリーと皿がぶつかる音を立てれば、次の瞬間には背後に、「完璧の鬼・ロザーナ」が立っている──そんな緊張感が、取り残された子どもたちを縛り付けていた。
リリィは、無理に背筋を伸ばし続けた結果肩が強張り、手がぷるぷると震え始めている。ナイフを持つ指はしびれ、食事を進める度に体力が削られていくようだ。
そんな時、リリィの視界の端で小さな騒動が起き始めた。相変わらずメルエナの膝の上に座り、愛おしそうに抱きしめられているカリタスの元へ、ロザーナが静かに歩み寄っていったのだ。
「……カリタス様。ナイフは右手に、フォークは左手に持つものでございます。逆になっておりませんか?」
ロザーナはいつものにこやかな「笑顔」を浮かべながら声をかけた。
「ご、ごめんなさい!」
カリタスは慌てて持ち替える。だが、右手でのナイフの取り扱いはどうにもぎこちない。すぐに皿とナイフがカチリと音を立ててしまう。その瞬間、カリタスを抱えていたメルエナがくるりとロザーナに向き直り、憤慨したように口を尖らせた。
「いいではありませんの〜……カリタスちゃんは左利きでしてよ?右手でナイフを持たせるなんて、可哀想に……もしカリタスちゃんが怪我をしたら、どうしますのよ?」
ロザーナは額に手を当て、深くため息をつく。
「……メーレ。もういいでしょう?あなたも本来、指導役として回って頂くはずでしたわよね?」
メルエナは抱え込んだカリタスの髪を撫でながら、気だるげに肩をすくめる。
「イヤよ〜。こんなに可愛い子たちに厳しく指導するなんて、わたくしにはできないわ〜。そういうのは、貴女の方が適任でしょう?」
そう言いながら、再びカリタスの頭に頬をすり寄せて深呼吸を一つ。しかしカリタスはロザーナに怯え、わずかに震えていた。
「あらまぁ……大丈夫よカリタスちゃん!作法はあくまで作法、食事は楽しむことが一番大切ですのよ!」
カリタスは少し緊張を解き、メルエナの腕の中で小さく笑った。
「かあさ……メル、エナさん……ありがとうございます……」
──かあさ……
その言いかけた言葉を聞き逃さなかったメルエナはガバッと顔を上げ、瞳を輝かせる。
「……っ!?今、なんてっ!?えっ!?も、もう一度、言ってご覧なさい?遠慮しないで、さあっ!!」
「ああっ、ごめんなさい!間違えて、かあさまって……」
メルエナは感極まったように鼻息を荒くし、
「ハ〜〜〜ンッ!!カリタスちゃん!!わたくしの娘になりませんこと!?ね?いいでしょう?ねぇぇぇ!?」
と叫びながら、カリタスをぎゅううっと抱きしめた。
「やっ、やめなさいメーレッ!!」
ついにロザーナが荒々しい声を上げ、メルエナの肩を掴んでカリタスから引きはがそうとする。食堂の一角は、朝から小さな騒動でざわめいた。
その様子を見ていたクラージュとジャスティンは、何やら怪しい挙動をし始める。二人はロザーナとメルエナの小競り合いをちらりと横目で確認すると、まるで合図を交わしたかのように目を合わせ、小さく頷いた。その表情には「今しかない」という確信が満ちている。次の瞬間、二人はスプーンとフォークを巧みに操り、残っていた朝食を勢いよくかき込んだ。皿の上はみるみるうちに空になり、カチャカチャという音がリズミカルに響く。ロザーナが背後に来る前に食べきってしまおうという目論見だった。
その様子を見たリリィも、はっとして背筋を伸ばした。
──わ、私も早く……!
目の前の皿には、まだ少しだけ残った朝食がある。食器を持つ手に力を込めるが、緊張と疲労で震えが止まらない。作法を守らなければと意識すればするほど動きがぎこちなくなり、思うように進まなかった。カリタスも、メルエナの膝の上に座ったまま手際よく食事を進めている。ロザーナとメルエナの口論の真横にも関わらず、なんと大胆な行動だろうか。今なら誰にも咎められずに食べ進められる──そんな状況を本能的に理解しているようだった。
その時、ふと食堂の扉が開いた。
「……メルエナ。まだそこに座っていたのかい?」
ヴェルメイン先生の落ち着いた声が響く。子どもたちは一斉にそちらを向いた。先生は眉をひそめ、腕を組みながら部屋に入ってくる……にも関わらず、メルエナは待ってましたとばかりに、カリタスを降ろして椅子から立ち上がり、両手を広げた。
「あらご主人様、聞いてくださいまし!わたくし、この子を──このカリタスちゃんを、わたくしの養子にすると決めましたの!!」
その突拍子もない宣言に、食堂は一瞬凍りつく。ロザーナは目を見開き、唖然としたまま固まった。先生は額に手を当て、深いため息をついたあとで、淡々とした声で応じた。
「あ〜……分かった、分かった。ひとまず落ち着きなさい。そうだな……孤児院はいつでも里親を募集している。本当に養子が欲しいなら、院長先生宛に手紙を書きなさい。ただし、厳しい審査が待っているぞ?それに、君の部屋には到底、カリタスを住ませることなど……」
「……!」
主人が言葉を言い終えるよりも早くメルエナの瞳がキラリと輝き、次の瞬間にはスカートを翻して食堂を走り去っていった。まるで風のような勢いだった。
「……まずいな。本気にさせてしまった。」
先生が眉間に皺を寄せながら呟く。続けてカリタスのほうへと歩み寄り、しゃがんで目線を合わせた。
「その……カリタス。昨日の夜、君たち二人に何があったのかは知る由もないが……君は、かなりメルエナのことを気に入っている、そうだね?」
その言葉に、カリタスは一瞬びくりと肩を震わせ、頬を染めて俯いた。そして、小さく、こくんと頷く。先生は苦笑を浮かべ、優しいがどこか現実的な声で続けた。
「あの人は良くも悪くも……愛情に満ち溢れている。……持て余している、と言ってもいいだろう。もし本当に君を養子にした暁には……メルエナは、片時も君から離れようとしなくなるだろう。……まあ、家族として迎え入れられること自体は喜ばしいことだ。あの様子だと恐らく近いうちに、彼女の審査と相性を確かめるテストが始まるから……申し訳ないが、考えておいてくれ。」
そう言い残して、先生は立ち上がり、食堂の中央を横切っていった。その頃、クラージュとジャスティンはすでに皿を空にし、こそこそと目配せを交わしながら、逃げるようにして食堂を後にしていた。
そして、先生はリリィのもとへとやってきた。
リリィの皿には、まだかなりの量が残っている。手は途中で止まったまま、体力も気力も限界に近かった。
「おや、リリィ……まだ少し残っているね。疲れたかい?」
リリィは俯きがちに、小さな声で答える。
「ごめんなさい……うまく、できなくて……」
「いいんだ、リリィ。まだパーティまでの日にちはあるからね。残りは、いつものようにリラックスして食べるといい。」
先生はそう言うと、胸ポケットから一通の手紙を取り出した。淡いクリーム色の封筒には「リーベル」と記された綺麗な筆跡がある。
「今日のリーベルからの手紙だ。食べ終わったら、ゆっくり読みなさい。」
そのまま立ち去ろうとした先生に、リリィの口から思わず声が漏れた。
「あっ……!」
先生はぴたりと足を止め、振り返った。
「なんだい?」
リリィは自分でもなぜ声を出したのか分からず、目をぱちくりとさせて戸惑った。
「えっ、えっと……ごめんなさい、えっと……」
先生はその様子を見て……
(リリィ……君の胸の内には、まだ打ち明けたいことが山ほどあるのだろう。私は、「親」にならなければ……受け止めてあげなければ!)
と決意し、頼れる「親」としてのスイッチを入れてしまう。椅子を引き、リリィの隣に腰を下ろした。
「ゆっくりでいい。落ち着いて……」
そう言って、リリィの肩に優しく手を置いた。しかしそれは逆効果となり、リリィの心臓はドクン、ドクンと高鳴り、頭の中は真っ白になっていく。そして……
「たっ、食べさせて、くだしゃいっ!」
……言ってしまった。底の底に押さえ込んでいた願望が、そのまま口をついて出た。リリィの頬は真っ赤に染まり、瞳はうるうると揺れる。先生は一瞬だけ目を瞬かせたが、次第に口元に、柔らかくも怪しげな笑みが浮かび始めた。




