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【第一章完結】名もなき森の後砦   作者: フリィ
第二章 籠中の小鳥、夢眠る居城
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068 鏡の中のわたし

リリィとヴェルメイン先生が朝の支度を終え、並んで食堂の扉を開けると、そこにはすでに子どもたちが綺麗に整列し、長机の椅子に腰かけて待っていた。磨き上げられた床に朝の光が反射し、静かな緊張感の漂う空間に、小さなざわめきと期待の匂いが入り混じっている。


自分の席に近づくと、隣に座っているアルメリアが穏やかに声をかけてきた。


「おはようございます、リリィ。……フフッ。昨晩はよく眠れたようですね?」


「お、おはようございます…。えっと……どうして、分かるのですか?」


すると、アルメリアはリリィの頬へ右手を伸ばす。細長く美しい指がリリィの頬を包み込み、花のいい匂いが微かに鼻腔をくすぐる。


「フフフ……リリィ。今自分が、どんな表情をしているか、想像してみるのはいかがです?」


「え…?」


唐突な言葉に目を丸くする。今までリリィは、自分の顔を想像したことも、何かに映る自分の顔をまじまじと見たこともなかった。むしろ、そうすることを避けていたのかもしれない。傷と痣だらけの顔を見ることなど、自らの心をさらに締め付ける行為でしかなかったのだ。今でも、治りきっていないいくつかの傷跡が残っていることだろう。


リリィは落ち着いて席に腰を下ろし、今自分がどんな顔をしているのか、想像してみる。……しかし、自分がどんな顔の輪郭を持ち、どんな目つきをして、どんな表情をしているのか……何一つ分からなかった。


「….…ごめんなさい。わから、ないです……自分の顔、見たことが、あまりなくて……」


「あら、そうですのね…。いいのですよリリィ。ここに手鏡があります。一緒に、見てみましょう?」


アルメリアは懐から、小さな銀縁の手鏡を取り出した。装飾は繊細で、持ち手には花模様が刻まれている。彼女はそれをそっとリリィの手に渡すと、穏やかな声で促した。


「さあ、リリィ。少し勇気を出して、覗いてみましょう?」


リリィは両手で鏡を受け取り、胸の前でしばらく固まった。心臓が不自然なほど大きく鳴っている。視線を落とすだけで、そこに「自分」が映っている──それを思うだけで、手が震えていた。


「……こ、こわい……」

か細い声が、口をついて洩れる。


アルメリアは隣で柔らかく微笑み、リリィの背を軽く撫でた。

「大丈夫。どんなお顔でも、それはあなたの大切な一部ですわ。それに、あなたは本当に可愛らしいお顔をお持ちですのよ?」


深呼吸をひとつして、リリィは意を決して鏡を覗き込む。


そこに映っていたのは──治りかけの小さな傷痕がいくつも散らばる、自分の顔。驚きと緊張で頬は少し強張り、目元はぎこちなく固まっていた。それは、リリィがずっと避けてきたものだった。


「……わたし、こんな顔……」

喉の奥が詰まり、言葉にならない感情が胸を押し上げる。


アルメリアはそんなリリィの手をそっと握り、静かに言葉を添える。

「どうかしら?今は少しドキドキしているのかもしれませんが……先程までのあなたの顔は、それはもう、とても幸せそうに緩んでおりましたのよ?フフフ……」


リリィは、はっとしてアルメリアを見上げる。

「……わたしが、しあわせそうに……?」


「ええ。あなた自身が気づかないほどに。……とても柔らかく、温かな表情でしたわ。」

アルメリアの瞳はまるで、リリィの心の奥を見透かすように澄んでいる。


リリィはもう一度、恐る恐る鏡を覗き込む。そこにはまだぎこちない表情が映っているけれど──心のどこかで、昨夜の温もりを思い出すと、確かに少しだけ頬が緩むのを感じ取れた。


リリィは両手で大事そうに握っていた手鏡を、そっとアルメリアへ返した。


「……あの……ありがとうございます……」

控えめに礼を告げると、アルメリアは嬉しそうに目を細め、ゆっくりと鏡を懐に戻した。


「リリィ、先生と一晩お供して……心の底から安心できたようね?フフ……良かったわ。ねぇ、今夜も頼んでみたらいかが?」


その何気ない一言は、リリィの心臓を容赦なく撃ち抜いた。頬が一瞬で赤く染まり、耳の先まで熱が広がる。

「そっ、それは……っ!ダッ、ダッ……ダメですっ……!」

リリィは慌てて両手を胸の前で振り、大きく首を横に振った。


アルメリアは唇に指を添えて、ふふっと小さく笑う。

「あら、そう?う〜ん……お貴族様だからって、遠慮しているのかしら?でも先生は、そんなことを気にする方じゃありませんわよ?」


「ち、違いますっ……!そっ、そうじゃなくて……!」

リリィは必死に言葉を繋ぎ、俯きながら声を震わせる。


「はっ、恥ずかしいんです……!」


その告白めいた響きに、アルメリアの瞳がきらりと輝いた。

「あら……リリィ。もしかして、先生のこと……」


「~~っ!!」

リリィは反射的に両拳をぎゅっと握り、その小さな拳で口元を覆った。

「あっ、ちっ、違います!えっと……その……!」

声は裏返り、語尾は消え入りそうに揺らぐ。


アルメリアはそんなリリィの様子を見て、楽しげにクスクスと笑った。

「いいのよ、リリィ。あの先生が本当に素敵なお方であることは、私にもよく分かるわ。それに、あなたは先生に直接助けられたのでしょう?……フフッ、応援しているわね!」


その声音はからかい半分、しかし確かな温もりを含んでいた。


アルメリアはそれ以上深追いせず、ゆったりとした所作で正面──食卓の方へと向き直った。その横顔は、どこか余裕のある大人びた微笑みを浮かべている。


一方のリリィは、真っ赤に染まった顔を俯かせたまま、小さな肩を震わせていた。胸の奥に込み上げる甘い羞恥と、心を支配するような幸福感──それらをどう処理すべきか分からず、ただ両手を膝の上に置いてぎゅっと握り締め、目を頑なに閉じたまま正面を向くことしかできなかった。


食堂のざわめきが、妙に遠く感じられる。リリィの耳の中では、まだ自分の心臓の鼓動が、ドクンドクンと大きく鳴り響いていた。


──


しばらくして心が落ち着き、そっと目を開く。その視線はふとある一点に釘付けになってしまった。その光景は、なぜ今まで気が付かなかったのかと、自分の目を疑うほどの異様さだった。


カリタスが、普段よりも背が高く見える……いや、違う。カリタスを、誰かが抱き抱えながら座っている。彼女は、メイドのメルエナの膝の上に小さく収まっていたのだ。


メルエナは至福に頬を染め、まるで宝物を抱えるようにカリタスを両腕で包み込んでいる。ときおり彼女の頭を撫でては、深く鼻で息を吸い込み、胸いっぱいにその存在を堪能している様子だった。


「……メルエナ?何をしているんだい?」

背後に歩み寄ったヴェルメイン先生の声は、驚きと呆れを混ぜ込んだ低い調子だった。


しかし、メルエナは顔をカリタスの髪に埋めたまま、動く気配も返事もない。先生はため息をひとつ洩らし、軽く肩を叩いた。


「ひゃっ……!」

メルエナは弾かれたように顔を上げ、くりくりした瞳を大きく見開いた。そのまま先生を認めると、赤くなった頬を両手で押さえながら慌てて言う。

「……ああっ!ご、ご主人様……おはようございますわ!」


「おはよう。……その、なんだ。自分の位置に戻ったらどうだい?そこはカリタスの席だが……」

そう促す先生に、メルエナは潤んだ瞳を向ける。唇を噛み、首を小さく振る仕草は、言葉にせずとも「まだ離れたくない」と訴えていた。


「……もう十分だろう?さあ、ほら……カリタスがこまっ──」


だが、先生の言葉は最後まで続かなかった。メルエナの膝の上に座るカリタスが、こちらを向いたからだ。


「……ごめんなさい、先生。このままが、いいです……」


消え入りそうな声で、けれど確かな意志を含んで。カリタスはメルエナの腕をぎゅっと掴み、恥ずかしげに目を伏せながら告げた。メルエナの瞳がパッと輝き、力強くカリタスを抱きしめる。


先生は一瞬言葉を失い、目を瞬かせた。

「ああ、そ、そうか。君がそう言うのなら、構わないが……」

小さく咳払いをしつつ、自らも席に腰を下ろす。


そして姿勢を正すと、場の空気を改めるように声を張った。

「……あー、みんな。おはよう。……みんなは知っていると思うが、我が家では定期的にパーティを開いている。皆、参加したいだろうと思ってはいるが……私からも、参加をお願いしたいのだ。……どうかな?」


子どもたちは顔を見合わせ、戸惑いから次第に穏やかな笑みへと変わり、静かに頷き合う。アルメリアが代表するように手を挙げ、柔らかく言った。

「ありがとうございます、先生。みんなで、参加させて頂きます。」


「……ああ、ありがとう。」

先生は頷き、少し間を空けてから続ける。


「では……パーティの場には、もちろんたくさんのお客様がいらっしゃる。特に、今回からは……一般のお客様を入れて、今までより盛大に開くことになったんだ。私が特に信頼しているお客様の中には、君たち『ウッドワード』の子が、ここに滞在していることをお伝えしている方もいる。きっと、君たちに会いたがっていることだろう。」


その言葉に、子どもたちは小さく身じろぎする。期待と不安が同時に心を揺さぶっているのが、机越しにひしひしと伝わる。


「そこで、今日の朝食では……」


先生が手を軽く叩くと、奥の扉から香り豊かな湯気を立てる料理が次々と運ばれてきた。焼きたてのパンや温かなスープ、彩り豊かな果実が皿に盛られ、長机の上に整然と並んでいく。


「君たちに、食事の場での作法を知ってもらいたい。君たちは、普段から『マナー』を大切にしていると思うが、これから教えるのは『作法』だ。小難しく煩わしいことかもしれないが、できる限り覚えていってもらいたい。」


重みを帯びたその言葉に、場の空気がぴんと張りつめる。子どもたちの小さな背筋が一斉に伸び、緊張の色が顔に浮かんだ。

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