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【第一章完結】名もなき森の後砦   作者: フリィ
第二章 籠中の小鳥、夢眠る居城
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067 涙を分け合う夜

寝台の上に流れる空気は、言葉にできないほど重たく、張りつめていた。


互いに背を向け合い、視線を合わせることすらできず、時を刻む音は自分たちの呼吸だけ。耐えきれなくなったヴェルメイン先生は、布団越しに背を向けたまま、喉の奥から無理に声を絞り出した。


「リ、リリィ。……何か、してほしいことが、あったら……遠慮なく、言いなさい。」


声はかすれ、張り詰めた気遣いと不器用さが混じっていた。リリィは一瞬、胸の奥を締めつけられるように感じた。


──自分のせいで旦那様に気を遣わせてしまっている。そう悟った彼女は、恥ずかしさと後悔に沈みかけたが、それ以上に「今しかない」と心の奥で灯る小さな決意を手放したくなかった。


「お、おそばに……近づいても、いい……ですか?」


蚊の鳴くような声が夜気を震わせる。先生は振り返らず、わずかに息を呑んでから答えた。


「あ、ああ……」


その一言に導かれるように、リリィは身体を横たえたまま、ゆっくりと隣へ身を寄せた。布団が擦れる微かな音が、鼓動よりも大きく響く。彼女は旦那様の背中へと顔を近づけ……やがて、額をそっと触れさせた。


先生の肩がびくりと震える。だが、そこから逃げようとはしなかった。「離れてはいけない」という、理屈を超えた直感が彼の全身を縛りとめていた。


二人の間を、沈黙のまま時が流れていく。互いの鼓動が伝わってくるような錯覚が、余計に緊張を募らせる。先生の胸は張り裂けそうなほど早鐘を打ち、これまで味わったことのない不安と戸惑いに飲まれていた。


一方で、リリィの心は逆に穏やかになっていった。

背中に触れる温もりが、まるで荒波が静まるように彼女の心を落ち着かせ、固く張っていた身体の力を少しずつ解いていく。


彼女は迷うように左手を伸ばし、旦那様の背中にそっと添えた。その瞬間、温もりが指先から胸の奥へ流れ込み、眠気にも似た安心感が広がる。そしてその奥底から──かつて奴隷として生きる中で押し殺し、決して表に出せなかった「誰かに甘えたい」という、幼子の純粋な願いが静かに顔を覗かせる。


そのとき、不意に先生が低く小さな声を発した。


「リリィ……他のみんなと離れて……寂しくはないかい?」


布団越しに届く問いかけは、心を見透かすように優しくて、リリィの胸を強く打った。

旦那様がとても緊張していらっしゃるのが伝わってくる。でも、こんな状況でも自分を思いやってくれる──その事実に涙が滲むほど感動しながらも、同時に彼女は思い出してしまう。


「自分はこの人の役に立たなければならない」と。


甘えかけていた自分を恥じ、リリィはそっと背中に置いていた手を引いた。


「いえ……だっ、旦那様が、いてくれます、ので……」


声は震えながらも、必死に取り繕う。しかし、予想外の返答が返ってきた。


「……いや、違う。……怖い、かい?この平穏な日々を、過ごすことが……」


その言葉は、彼女の胸の奥深くへと真っ直ぐに届き、再び波紋を広げていった。先生の口からこぼれた問いは、リリィにとって理解が追いつかないほどの不意打ちだった。


その意味を掴みかねて、「えっと……」と戸惑いの声を洩らす。しかし、胸の奥底から黒い渦のような不安と恐怖が再び湧き上がってくるのを、はっきりと感じ取ってしまった。


「えっと……っ」ともう一度声を出したときには、嗚咽の震えが混じっていた。

その瞬間、先生が布団の中でぐるりと振り返り、リリィを正面から抱き寄せた。


「すまない、リリィ……ずっと、君の気持ちのことを考えていた。」


深い声が耳元に響き、彼の腕がしっかりと背中を包み込む。大きな手が背をゆっくりと撫でるたびに、リリィを押し潰していた黒い感情は霧のように消え去り、ただ穏やかな温もりが心を満たしていった。


先生の胸元から聞こえる声は、どこか悔恨を滲ませていた。

「でも……結局、分からなかった。私は所詮……貴族の身なんだ。君たちのような存在を、自分からは知ろうともせず……知っていても、見て見ぬふりをして……ハァ。私のような者は、君たちを本当の意味で『救う』ことなんて、できないのだろう。」


吐息混じりの言葉に、リリィは胸を締めつけられる。彼女はそっと先生の背に手を回し、震えながら答えた。


「……違い、ます。旦那様は、わたしたちのことを……ちゃんと、見て……わたしたちの声に耳を、傾けて……わたしたちに、寄り添って、くれます……。先生の言うことは、合っています。わたしは……怖いです。いつかまた、あの日々に戻るかもって……いつもどこかで、思っています。」


震える告白に、先生は言葉を詰まらせる。「……そうか。でも、私は……」と言いかけた瞬間、リリィは先生を抱く腕に力を込め、その言葉を遮った。


「いいの、です。旦那様は……そのまま、わたしたちのそばに、いてくだされば……」


抱き締め合った距離で、先生が掠れた声を落とす。

「リリィ……私は……君たちの役に、立てているのかい?」


その問いに、リリィははっきりと悟った。今この瞬間、旦那様が初めて自分に「弱み」を見せてくれているのだと。だから彼女は落ち着いた声で、ゆっくりと返す。


「とても……暖かいのです。旦那様は……わたしたちを、優しく包み込んで、くれます。少なくとも、わたしと、リーベル、は……旦那様のこと、本当に……お、お慕い、しています……」


声は途切れ途切れになりながらも、最後まで言い切った。

先生は静かに息を吐き、「……ありがとう」とだけ言い、リリィを抱いたままそっと目を閉じる。


リリィはその腕の中で、今度は自分が先生を慰めるように、優しく背を撫でた。

すると先生が小さく笑みを浮かべる。


「ハハ……私は君の親になると約束したばかりだというのに……まるで君が私をあやしているような有様ではないか。」


「ごっ、ごめんなさい!」と慌てて手を止めるリリィ。

だが先生は首を振り、「いや、ありがとう。とても嬉しいよ。」と告げて、彼女の頭を撫でた。


「リリィ……」


その声とともに、額を彼女の頭にそっと寄せる。

リリィは、まるで本当の子どものように愛されているのを感じ、胸が熱くなる。

安らぎと幸福に満たされたまま、無意識に頰を先生の胸にすり寄せた。


「旦那、様……」


甘えたいという欲求が、抑えきれず自然にあふれ出す。

先生はその仕草を愛おしそうに見守り、やがて静かに目を閉じた。

リリィもまた、旦那様の腕の中で安心しきったまま、静かな夜に身を委ねて眠りへと落ちていった。


──


朝の柔らかな光が、厚手のカーテンの隙間から細く差し込んでいた。静かな寝室の中で、鳥のさえずりさえ遠く、外の世界がどこか現実味を失っているように感じられる。


リリィは、まだ夢と現実の狭間に揺られていた。

ぬくもりが頬を包んでいる──その心地よさに、瞼を開けるのをためらってしまう。


昨夜、自分が旦那様の胸にすり寄り、子どものように甘えてしまったことは、まだ鮮明に覚えていた。恥ずかしさと後悔で胸が締め付けられる一方で、あのときに感じた幸福は、どんな過去の痛みも洗い流してくれるほど鮮やかに残っていた。


やがてリリィはゆっくりと瞼を持ち上げる。目に映ったのは、すぐそばで眠っているヴェルメイン先生の横顔だった。整った鼻筋と、乱れた前髪。その寝息は穏やかで、いつも凛としている姿とは違う、無防備な安らぎを見せていた。


リリィの胸がふわりと温かくなる。


──こんなにも近くにいていいのだろうか。

──わたしが、旦那様の隣で眠っていていいのだろうか。


自問が頭の中をよぎる。

けれど、昨夜の言葉が胸の奥で響き続けていた。

「君たちの役に立てているのかい?」

あの弱さを見せてくれた瞬間、リリィの中に芽生えたのは、ただ守られるだけの存在ではいられない、という強い想いだった。


そのとき、先生がわずかに身じろぎし、瞼を開く。

寝起きのぼんやりした視線がリリィに触れた瞬間、ふたりの間に気まずい沈黙が流れる。

互いに昨夜の記憶が蘇り、頬に熱が広がるのを感じた。


「……おはよう、リリィ。」

掠れた低い声で、先生が先に口を開いた。


「お……おはようございます……旦那様。」

リリィは枕元で小さく身を縮めながら答える。


会話はそこで途切れ、再び静けさが訪れた。

リリィは何か言葉を探そうとするが、胸の奥から湧き上がる昨夜の余韻が、うまく声を形にさせてくれなかった。


一方の先生も、昨夜の自分の行動──抱き締め、弱音を吐き、リリィに甘えるような姿を見せてしまったことを思い出し、視線を合わせることを避けていた。


それでも、どちらも離れようとはしない。

距離を取るべきだと分かっていながら、布団の温もりと互いの存在感が、簡単にその一歩を許してはくれなかった。


しばらくの時が過ぎ、やがて先生は、小さく咳払いをして体を起こす。

「……そろそろ、朝の支度をしようか。皆を待たせてしまう……」

それだけ言い残し、ベッドを降りていく。


リリィは布団の中でその背中を見つめながら、胸の奥にまだ昨夜の温もりが残っているのを感じ、両手でぎゅっと胸元を押さえた。


──本当に、夢ではなかった。


そう確信するたびに、頬が赤くなり、そして心の奥で小さな幸せの灯が揺れ続けていた。

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