066 寄り添えぬ距離
ヴェルメイン先生の腕に抱き抱えられたまま、リリィはそっと寝室の中へと運ばれた。扉が静かに閉じられると、外の廊下の気配は完全に断たれ、二人だけの空間が広がる。
リリィは、部屋の中を見回して目を瞬かせた。思っていた光景とはまるで違っていたからだ。彼女の想像の中では、貴族である先生の寝室は、金銀の装飾が施された豪華な家具や、色鮮やかな絵画、精巧な彫刻などで埋め尽くされているはずだった。だが実際の部屋は──驚くほど飾り気がなく、整然とした簡素さに包まれていた。
ただし、孤児院の木製の簡素な机やベッドとは比べ物にならない。頑丈そうな材木で作られた机と椅子、深い色合いの本棚、そして広々としたベッド。どれも質実剛健で、無駄がない。部屋自体も孤児院の自室より遥かに広く、床には上質な毛織の敷物が敷かれ、壁には控えめながらも品のある布の装飾がかけられていた。
「ハハ……なんだか、恥ずかしくなるな。」
先生は苦笑を浮かべ、肩をすくめる。
「もっと豪奢な部屋だと思っていたのではないかい?」
リリィは、はっとして頬を赤く染め、「え、えっと……」と口ごもることしかできなかった。まるで心を読まれたようで、視線を落とす。
先生はその様子に微笑み、柔らかい声で続けた。
「いいんだよ。私の事業は、まだ発展途上なものが多くてね。お金がとにかく必要なんだ。この屋敷は……お客様の目に付くところばかり装飾されていて、個人的な部屋は見ての通りさ。」
そう言いながら先生はベッドの方へ歩み、リリィをゆっくりとその上に下ろした。シーツは清潔な白で、柔らかい香りが漂っていた。
──そこで、リリィの心臓は大きく跳ねた。
「わ、わたし……これから旦那様と……添い寝!?」
その現実へと思い至った瞬間、全身が硬直してしまう。胸の奥から湧き上がる期待と羞恥、そして少しの恐れ。息苦しいほどの緊張に呑み込まれ、身じろぎ一つできなかった。
だが、ヴェルメイン先生はそんなリリィの様子に気付かず、部屋の中に灯っていたキャンドルを一つずつ消していった。炎が次々と消えていき、部屋は次第に柔らかい暗さに包まれていく。
「そういえば、まだお風呂も済ませていないな……しかし、今からではもう……すまないね、リリィ……」
「は、はいっ!いっ、いえ、その……大丈夫、ですっ!」
リリィは慌てて声を張り上げる。胸がどきどきと鳴り、喉が渇く。けれど、旦那様に迷惑をかけまいと必死に笑みを作った。
先生は軽く頷くと、クローゼットを開け、中から服を二つ取り出した。その布地が擦れる音が、静かな部屋に小さく響く。彼はリリィの元へ戻ると、そのうちの一つを彼女に差し出した。
「着替えも君たちの部屋に置いてきてしまったね。すまないが、今日はこれを着てくれるかい?」
リリィはおずおずとそれを受け取った。厚手の布で仕立てられた、シンプルなパジャマ。だが手触りからして、孤児院で使っていた古着とはまるで違う。彼女は目を瞬き、思わず尋ねる。
「こ、これ……旦那様の……ですか?」
「ああ。」
先生は静かに頷き、少し懐かしむように目を細める。
「辛うじて捨てずに残っていた、昔着ていたものだ。今ここにある中では一番小さいものだが……まあ、一度着てみるといい。」
そう言って、先生はベッドの隅に手を伸ばし、カーテンを引いた。厚手の布が音もなく広がり、リリィを包み込む小さな世界を作る。
「では、一度閉めるよ?」
暗い帳に覆われた瞬間、リリィの鼓動はますます速くなった。彼女の耳には、自分の心臓の音と布の擦れる微かな音しか届かなかった。
リリィは、手渡された上下のパジャマに視線を落とす。
(お、おおきい……)
一番小さい物だとは言っていたものの、自分の体に当ててみても明らかに大きかった。そして、何よりも……
(旦那様が、昔着ていた……)
旦那様の古着。何度も旦那様に着られ、夜を共にしていたであろうパジャマ。それに、自分は今から腕を通すのだ。それは、待ち望んでいたことのようで、あまりにも畏れ多いことだった。しかし今は、これを着る他に選択肢はなかった。
リリィは先生がカーテンを閉めてくれた静かな空間の中でそっと布を広げ、渡されたパジャマに袖を通した。袖口は彼女の小さな腕にはあまりに大きく、手先まで布にすっぽりと隠れてしまう。なんとか襟を合わせて形にはなったが、やはり彼女の体には大きすぎるようで、まるで子どもが大人の服を無理に着ているような、頼りない姿になってしまった。
上着を着終えたところで、布の向こうから衣擦れの音が微かに聞こえてきた。耳を澄ますと、先生がすぐ隣で着替えているのだと分かる。カーテンの向こうから溢れ落ちるキャンドルの光に照らされ、先生の背の高い影が布に映る。そのシルエットが肩越しに服を脱ぎ、次の衣を羽織る様子をくっきりと浮かび上がらせていた。
──ほんの薄い布一枚隔てただけで、旦那様が着替えている。
その事実に気付いた瞬間、リリィの顔はさらに一気に熱を帯び、心臓がばくばくと跳ねる。思わず両手で頬を押さえたが、鼓動の速さまでは抑えられなかった。
だが同時に、ふと小さな疑問が胸をよぎる。
「……どうして、旦那様は、こんなに平然としているの……?」
自分はこんなにも胸が苦しいほどにドキドキしているのに、先生は声の調子一つ変わらない。まるで、これから起ころうとしていることを、何も意識していないかのようだった。
その理由を考えたとき、リリィは自分と先生との年齢差に思い至る。あまりにも自分が子ども過ぎて、先生の相手にはならないのではないか。初恋に身を焦がし、勝手に意識してしまっているのは、自分だけなのではないか。そう思うと、胸に小さな不安が差し込んだ。そして同時に、焦りがリリィを突き動かした。旦那様を少しでもドキッとさせたい。その願いを叶えるために思いついた行動を、即座に実行することにした。
──
ヴェルメイン先生が着替えを終え、カーテン越しに声を掛ける。
「リリィ、私は着替え終わったよ。ゆっくりでいいから、着替えが終わったら教えてくれ。」
その声音は、いつもの落ち着いた響きを保っていた。それとは対照に、リリィの胸の鼓動は早鐘のように高鳴っていた。彼の視線を受けることを想像するだけで、頬が熱くなる。ほんの少しでも、旦那様を意識させたい。その一心で思いついた、大胆すぎる「策」。
「わっ、わたしも着替え終わりました!」
声はわずかに上ずっていたが、なんとか平静を装った。
「おお、早かったね。では、開けるよ?」
カーテンがきしむように音を立てて引かれる。蝋燭の淡い光が差し込み、徐々にリリィの姿を照らし出す。そこにいたのは、ベッドの上で膝を抱え、小さな体をすぼめるように座るリリィ。上半身はパジャマに身を包まれていたが、その下の膝は──素肌。
ヴェルメイン先生の瞳が一瞬、彼女をとらえた。その直後、はじかれるように視線を逸らす。肩がわずかに強張り、声も普段よりかすれていた。
「お、おや、リリィ……その……私は……パジャマの下の方を渡すのを……忘れていたかい?」
リリィは思わず首を振る。心臓が喉までせり上がり、耳まで赤くなるのを感じながら、必死に言葉を紡ぐ。
「い、いえっ!ここにあります!えっと……わたし、昔から、その……下を着ないまま寝るのに、慣れていて……この方が、むしろ落ち着くの、です……」
声は震えていた。自分でも信じられないような言い訳。しかし今さら後戻りはできない。リリィは裾をぎゅっと握りしめた。手のひらは汗でじっとりと濡れている。
先生は短く息を呑み、少し間を置いてから、静かに答えた。
「そ、そうだったのかい?……ならば、いいが……」
その声音は、努めて平静を装っているものの、乱れを隠しきれていない。動揺しているのは明らかだった。
リリィは胸の奥に、甘い罪悪感と小さな喜びが同時に広がるのを感じた。旦那様が、わたしを見て動揺している……その事実が、リリィに今まで感じたことのない感情をもたらした。しかし、自分が今、とんでもないことをしているという自覚が消えたわけではない。リリィは、視線を落としたまま小さな声を絞り出した。
「ご、ごめんなさいっ……はしたない、ですよね……?」
羞恥と後悔で胸が締め付けられる。先生に嫌われてしまうのでは──そんな恐怖が押し寄せた。
だが、側に立つヴェルメイン先生はしばらく口を閉ざしたまま、ちらりとリリィに目を向け、すぐにまた逸らした。そして、低い声でかすかに答える。
「いっ、いや……君がそうしたいのなら……私がとやかく言うことではない……」
普段の落ち着いた声音とは違う、掠れた響き。その響きに、リリィの胸はちくりと痛むと同時に、安堵と喜びがじんわり広がった。こんな自分を受け入れてくれた──その事実が、何より嬉しかった。
「ありがとう、ございます……。では……今夜は……よろしく、お願いします……」
言葉を結ぶと、リリィの声はかすれてほとんど囁きになった。視線を落としたまま、膝の上でぎゅっと指を絡める。
先生は少しの間沈黙したが、やがて決意を固めたように息を整え、ゆっくりとベッドへと上がった。リリィの胸に跳ねるような緊張が走る。
「で、では……寝ようか?」
先生の声は、どこか気恥ずかしげだった。リリィは慌てて布団を手繰り寄せ、小さく頷く。
「しっ、失礼します……」
そう言って、大きなベッドの上で横たわる。広い寝台に、二人分の温もりが並ぶ瞬間だった。
先生も仰向けになり、慎重に布団を引き寄せる。やがて同じ掛け布の下に、二人は収まってしまった。ただし、寄り添うわけでもなく、触れ合うのを避けるように、わずかな距離を残して。
──二人きり。
薄暗い室内に残るのは、キャンドルの小さな明かりと、互いの鼓動の音だけ。リリィの心臓は、これまでになく強く高鳴っていた。
リリィは布団を口元まで引き上げ、固く握りしめた。視線はただ、天井の一点。
(おちついて!)
そう心の中で繰り返しても、胸の鼓動は収まることを知らない。むしろますます勢いを増して、隣の先生に聞こえてしまうのではと錯覚するほどだった。
一方でヴェルメイン先生も、人生で初めて味わうような緊張に苛まれていた。横顔を向ければすぐそこにリリィがいる、その事実だけで胸がざわめく。だが表情にそれを出すまいと、わざと目を閉じ、深く息を吸っては吐いた。
(冷静に……冷静に……)
そう念じながら。
しかし、そう無心になろうとする程に、様々な考えが頭を横切っていく。そして、ふいに脳裏に蘇ったのはアルメリアの声だった。
「リリィにとっての『親』は……先生、あなたなのではありませんか?」
その言葉が胸を突き、はっとする。
さきほどリリィのあられもない姿を見て動揺してしまった自分を恥じ、強く言い聞かせる。
──私は今、「親」としてここにいるのだ。彼女を守り、支える存在として。
そう自分に繰り返し言い聞かせながら、仰向けのまま小さく呟いた。
「リ、リリィ……その……今まで、すまなかったね。君の不安や恐怖に……私は気付かなかった。」
静寂を破った声に、リリィは肩をびくりと震わせた。不意を突かれ、胸が跳ねる。だが数瞬後には、小さな声で答えた。
「えっ、えっと……だ、大丈夫、ですよ……こうして、一緒にいてくださるから……」
言葉の最後は震え、囁きのように消える。リリィは思い切って、布団の中でゆっくりと先生の方へと身体を傾けた。
その気配を感じたのか、先生も同じように首を巡らせ、視線を合わせる。
暗がりの中、互いの瞳が静かに映り合った。
時間にすればほんの数秒。だが二人には永遠のように思えた。胸の奥に、言葉では言い表せぬ何かが熱を帯びて広がっていく。
だが次の瞬間、恥ずかしさに耐えきれなくなり、二人は同時に外側へと寝返りを打った。背中と背中が離れる。
リリィは布団の中で顔を覆い、小さく悶えた。
──わ、わたし、一体何を言っているの……!
心臓の鼓動はますます激しく、羞恥で頭がいっぱいになる。
一方で先生も、額に手を当て、深い息を吐いた。
──どうしてだ……なぜこんなにも、リリィを意識してしまう……。
本来なら守るべき少女を前に、動揺してばかりの自分。こんなことをしている場合ではないと、自責の念が胸を締めつける。
広いベッドに二人きり。互いに背を向け合いながらも、眠りには遠く、ただひたすら鼓動の音だけが夜の静寂に響いていた。




