065 親という存在
リリィはベッドの上で、しつこく襲ってくる頭痛に何度も眉をひそめながらも、カリタスとアルメリアに支えられるようにして、少しずつ落ち着きを取り戻していった。額に滲んでいた冷や汗も次第に引き、血の気のなかった顔に、わずかではあるが色が戻り始める。
その様子を見ていたヴェルメイン先生は、ベッドの傍らに膝をつき、柔らかな声で言葉を投げかけた。
「リリィ……すまなかったね。少し、無理をさせてしまっていたかい?正直に言ってくれ。」
その声に、リリィは弱々しくもはっきりと首を横に振った。
「い、いえ……。ただ……むかしの、ことを……思い出して、しまって……」
彼女の言葉は途切れ途切れで、それだけでも心の奥に隠された痛みの深さを感じさせた。先生は目を伏せ、小さく息を吐きながら呟く。
「……そうか。君の傷は……思っていたよりも、深いようだね……」
沈黙が落ちたその時、カリタスがぎこちなく唇を開いた。声はかすれ、どこか怯えを含んでいる。
「せ、先生……リリィは、どれだけ辛い思いをして、生きてきたのですか?わたしには……少なくとも、かあさまととおさまが、いつも側にいて……。わたしが経験したことなんて、リリィの苦しみに比べたら、ちっぽけなもの、なのでしょうか……?」
カリタスの真っ直ぐな問いに、リリィは慌てて身を起こそうとする。
「そ、そんなこと……っ!ちっぽけなんて、ぜったいに……!」
必死の声に力がこもり、肩が震える。彼女にとって、自分の痛みが誰かの心を小さくしてしまうことは耐えられないことだった。
その時、先生は静かにカリタスの小さな手を取った。その掌の温かさに、カリタスの肩がかすかに緩む。
「カリタス、大丈夫だ。苦しみは……比べるものではない。」
優しい声が部屋に広がり、張りつめていた空気が少し和らいだ。先生はゆっくりと立ち上がり、深く息をついた。
「リリィ、今日はもう寝るといい。明日のことは、明日の君の様子を見て考えよう。……アルメリア、リリィの様子を見ていてあげてくれないか?」
そう言って踵を返し、扉へと歩き始める。その背中はどこか疲れているようにも見えた。
しかし、その時。
「お待ちください、先生!」
アルメリアの強い声が彼を呼び止めた。
先生は足を止め、振り返る。アルメリアはベッドの脇に立ち、拳をぎゅっと握りしめて下を向いていた。
「先生……リリィのお側に、いてあげてはくださいませんか……!?お仕事があるのは、重々承知しております!ただ……」
言葉を絞り出すように、アルメリアは続ける。震える声に抑えきれない思いが滲んでいた。
「それでも……お側にいてあげて欲しいのです。私が昔、風邪で心細かった時……ひと時も離れず、ずっとお側にいてくださった方がいたのです。それは……院長先生です。」
顔を上げたアルメリアの瞳は涙に濡れていたが、その光は真っ直ぐで、揺るぎなかった。
「私にとっての『親』は、院長先生です。見ず知らずのはずの私を、一から育て、常に側にいてくださった方なのです。今、リリィにとっての『親』は……先生、あなたなのではありませんか?」
部屋の空気が凍りついたように静まり返る。リリィは言葉を失い、カリタスは驚いた顔でアルメリアを見つめていた。
ヴェルメイン先生は扉の前に立ち尽くす。そして、深く考え込むように目を伏せた。アルメリアの言葉は、確かに彼の胸を打っていた。
答えを求めるように振り返る。すると、ベッドの上に横たわるリリィが、じっとこちらを見つめていた。その瞳には、迷いと、そして決意を求めるような強い光が宿っていた。
突然視線を受けたリリィは、一瞬だけ目を逸らしかける。しかしすぐに顔を戻し、潤んだ瞳で先生を見返す。彼女の胸の内で複雑な感情が渦巻いていた。
──旦那様は、わたしにとって……。
リリィにとってヴェルメイン先生は、ただの「恩人」ではなかった。生まれて初めて差し伸べられた救いの手。暗闇から引き上げてくれた光。憧れであり、初恋の人でもある。しかし、アルメリアの言葉がリリィの心を震わせていた。自分にはほとんど思い出すことのできない「親」という存在。その記憶の空白を埋めるように、ヴェルメイン先生を「親」として捉えることができるなら──それは、どれほど温かく、幸せなことだろうか。
胸が高鳴り、居ても立ってもいられなくなったリリィは、シーツを握りしめながら、そっとベッドから降りた。
「リリィ!?」
カリタスが驚いて思わず手を伸ばす。しかしその手は、リリィの瞳を見た瞬間に引っ込められた。迷いのない決意が、そこにはあったからだ。
リリィは裸足のまま、ひとつひとつ床板を踏みしめるように歩き出す。扉の前に立つ先生のもとへ向かって。足取りは頼りなく、まるで歩き始めたばかりの子どものようにふらついている。そのたびに心臓が大きく跳ね上がり、同時にしつこい頭痛が再び彼女を襲った。こめかみを打つ痛みに顔を歪めながらも、リリィの歩みは止まらなかった。
その姿を見て、ヴェルメイン先生は息を呑む。やがて静かに一歩前へ踏み出し、膝をつき、両腕を広げた。
「リリィ……」
呼ぶ声は震えていた。
リリィはその声に導かれるように、よろめきながらも先生の胸へと飛び込む。赤子がようやく父の腕にたどり着いたかのように、彼女は迷わずその腕の中へと収まった。
ヴェルメイン先生はしっかりと両腕で彼女を抱きしめ、温もりを確かめるように背中を撫でる。胸の奥から言葉が溢れかけた。
「リリィ……私は、今まで……」
だが、その言葉は最後まで続かなかった。リリィが顔を上げ、涙で濡れた瞳をまっすぐ彼に向けたからだ。
「大丈夫です、旦那様……ただ今は、お側に……いてもらえませんか?」
その小さな願いに、先生の胸が強く締めつけられる。瞳の奥に溜めていた思いが一気に解け、声もかすれてしまう。
「ああ……ああ、分かった……!側にいる……!」
言葉と同時に、ヴェルメイン先生はさらに強くリリィを抱きしめた。その抱擁は、彼自身の決意の表れであり、リリィの願いに対する全身全霊の答えでもあった。
その瞬間、部屋の空気は確かに変わった。リリィの震えは次第に静まり、彼女の頬に一筋のなみだが伝うと同時に、安らぎが戻っていく。カリタスとアルメリアはその光景を静かに見守り、胸の奥に温かなものが灯るのを感じていた。
──
ヴェルメイン先生の腕に抱き抱えられたリリィは、まるで幼い子どものように胸元に収まっていた。廊下の明かりが二人の影を壁に長く伸ばし、足音だけが一定のリズムで響いていく。
リリィの心の中を覆っていた黒く重い恐怖と不安は、今はほとんど消えていた。代わりに、旦那様の腕の中にいるという現実が胸を締めつけ、羞恥と緊張が入り混じって息苦しいほどだった。でも、嫌ではない。むしろ、どうしようもなく嬉しくて、涙が出そうになる。頬が熱くなっていくのを、彼女は必死に隠そうと目を閉じ、胸に顔を埋めた。
しかし、ヴェルメイン先生はそんなリリィの心の動きに気づく様子もなく、低い声で独り言のように呟いた。
「リリィ……私は一度、『先生』としての自分を、見つめ直すべきなのかもしれないな……」
「そ、そんなこと……」
リリィは反射的に言葉を返すが、声は小さく震えていた。
先生はため息をつき、前を見据えたまま続ける。
「……私は、独りよがりだったのだろう。目の前の子どもたちを救うだけ救って、その後のことなど……考えていなかったんだ。ハァ……私は一体、院長先生から何を学んだというのだろうか……?」
その横顔は、いつも頼もしい先生の顔とは違っていた。自分を責めるような影が差し、苦悩と迷いが見え隠れしている。リリィは胸を締めつけられ、「だ、旦那様……」と呟くことしかできなかった。慰めの言葉も、励ましの言葉も、喉元まで出てきては引っ込んでしまう。
そんなまま二人は歩を進め、やがて先生の寝室の前にたどり着いた。そこには、待機していた一人のメイドが立っていた。淡い金色の髪をまとめ、愛嬌のある笑顔を浮かべた女性──メルエナだった。
先生は笑みを浮かべながら声をかける。
「すまない、メルエナ。少しいろいろあってね……一晩、この子と過ごすことになった。」
それを聞いたメルエナは、目を大きく見開いたかと思うと、頬を押さえながら小さく声を上げた。
「おやおや……ま〜なんと可愛らしい!!ああ〜羨ましいですわぁ、ご主人様〜!それに、なんだかとてもお似合いで……まるで我が子のように、大切に抱き抱えていらっしゃって……絵に残したいくらいですわ!わたくしにも、抱っこさせては頂けませんこと?」
きらきらした目を輝かせて詰め寄るメルエナに、リリィは思わず先生の服をぎゅっと掴んだ。
ヴェルメイン先生は一歩身を引き、困ったように笑いながらも首を振る。
「ハハ……すまないね。どうしても手放せないんだ。許してくれないか?」
「まぁ〜……それはそれは、残念ですわ……」
メルエナはがっくりと肩を落とし、まるで子どもが駄菓子を取り上げられたかのようにしょんぼりとうなだれた。
その姿に先生は苦笑を深め、思わず問いかける。
「そこまでなのかい……?な、ならば……女の子達用の部屋が、今晩は一人少なくなるから……お邪魔させて頂いてはいかがかな?寂しい思いをしているかもしれないし、この子と同じ年頃の子も一人いるから……」
だが、言い終える頃には、すでにメルエナの姿はそこにはなかった。小走りに姿を消したのだろう。残された空気には、ほんの少し彼女の陽気さの名残が漂っていた。
「……はぁ。」
先生は小さく息をつき、腕の中のリリィに視線を落とす。
「すまなかったね、リリィ。悪い人ではないんだ。むしろ、寝室の使用人を任せられるほどには、信頼の置ける人だ。ただ……少し子ども好きが過ぎていてね。君たちをここに迎えることになった時に、一番喜んでいたのは間違いなくあの人だ。」
リリィはその言葉に安堵し、小さく頷いた。同時に、胸の奥が温かくなる。──旦那様は、決して自分を手放さなかった。あのメイドに求められ、さらにあからさまに落ち込まれても、自分を抱きしめる腕の力が変わることはなかった。それがたまらなく嬉しくて、彼女は胸の内でひっそりと感動していた。
ヴェルメイン先生はやがて扉の取っ手に手をかけ、静かに開いた。木の軋む音と共に、穏やかな香りが室内から溢れ出す。二人きりの夜が、これから始まろうとしていた。




