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【第一章完結】名もなき森の後砦   作者: フリィ
第二章 籠中の小鳥、夢眠る居城
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064 暗潮

堅木の柱に取り付けられたロウソクの炎が頼りなく揺れ、その下をヴェルメイン先生の背中を追うようにリリィは歩いていた。彼が進むたびに靴音が規則正しく響き、その後ろで迷っているようにリズムの不規則な足音が小さく続く。


「……おや、リリィも手伝ってくれるのかい?」

ふいに旦那様が振り返り、柔らかく声を掛けた。不意に視線を受け、リリィは胸の奥がドキリと跳ねる。慌てて口を開くが、声は心許なく揺れた。


「あっ、えっと……それはわたしに、手伝えること、でしょうか…?」


言いながら、自分の声があまりにも頼りなくて、リリィは小さく肩をすくめた。先生はほんのわずか苦笑いし、歩調を緩めながら言う。


「ハハ……まあ実のところは、全く同じ内容をひたすら書くだけの単純な作業だが……それでも誰もが読めるように、丁寧に、綺麗な文字で書かなければならない。」


淡々とした説明が、リリィの胸には小さな棘のように刺さる。彼の言葉に否はない。むしろ当然だ。けれど、それは──自分には向いていない、と暗に示されているようで。


それでも、簡単には諦められなかった。旦那様の役に立つ、その一心でこの屋敷への切符を手入れたのだ。自らの弱みを、「仕方がない」の一言で許してしまうのは、リリィにとって辛いことだった。


リリィは目を伏せ、小さな声で呟いた。しかし、その小さな拳は力強く握られている。

「そう、ですよね……」


途端に重苦しい沈黙が落ちる。廊下に響くのは足音と、遠くから聞こえる、騎士たちが片付けに奔走する音だけだった。


ヴェルメイン先生はその様子に気づいたのか、ほんのり眉を下げて「すまないな……」と呟いた。彼自身もリリィを傷つけるつもりなどなかったはずだ。けれど、どうにか彼女の気持ちを救おうと、顎に手を当てて考え込む。


「うーーん……」


ややあって、ぱっと顔を上げると、彼は新しい光を帯びた眼差しでリリィを見つめた。


「そうだ、子どもたちに渡す招待状を作るといい。どうだい?リリィ。」


その瞬間、リリィは顔を上げ、瞳を大きく見開いた。

「ほんとう、ですかっ!?」

溢れた声は、先ほどまでの悔しさをすっかり忘れたほどに明るかった。


「あ、ああ。君さえ良ければ、だが……」


頷く旦那様。その言葉が、リリィにはまるで許しにも祝福にも聞こえて──気づけば彼の手をぎゅっと握りしめていた。


「やらせてくださいっ!」


その声は震えていたが、喜びに満ちていた。まるで胸の奥に灯がともったように。


「ハハ、良かった……では、行こうか。」


リリィは再び、旦那様の後を追う。その足取りには、先程までの迷いはなかった。……しかし、それはすぐに止まってしまった。


階段の最初の段に足をかけた瞬間──視界に蘇ったのは、一階のあの光景だった。


ある者は壁際に身を寄せ、ある者は床にうずくまる。衣服とは呼べぬような布切れをまとい、痩せ細った腕を震わせながら、今日という日を生き延びるために必死に食事を貪る者たち。そこに紛れていたのは、ほんの少し前までの自分自身の姿だった。


脳裏に浮かぶのは癒えない喉の渇き、何度も振り下ろされた鞭、そして「生き残れるか」という恐怖が常に付き纏う日々。喉の奥がきゅっと詰まり、視界が揺れる。


リリィの足は、階段の途中で完全に固まった。


隣にいたヴェルメイン先生が気づき、振り返る。

「……リリィ、どうしたんだい?」


その声に答えようとしたけれど、口からこぼれるのは震える息だけだった。胸の奥から込み上げるのは、ただひたすらに心を蝕んでいく恐怖、そして、「また戻ってしまうのでは」というどうしようもない不安だった。涙が今にもあふれそうになり、リリィは小さく嗚咽を噛み殺した。


「ごめん、なさい……っ!わたし……っ!」


それ以上は声にならなかった。階段を降りることができず、振り返るようにして逃げるように二階の廊下へ戻ろうとした。


「ま、待ちなさいリリィ!」


焦りをにじませたヴェルメイン先生の声。その手がすぐに伸び、リリィの細い手を掴んだ。温かい掌が確かにそこにあるのに、リリィの足はもう支えきれなかった。


その場にしゃがみ込み、涙が堰を切ったように頬を伝い落ちていく。

「ごめんなさい……っ、ごめんなさい……っ!」


ただ繰り返しながら、リリィは泣き続けた。ヴェルメイン先生は困惑を隠しきれぬ表情を浮かべながらも、そっと膝を折り、リリィの背に手を添える。

「どうしたというんだい、リリィ……」


大きな手が優しく背をさすり、あたたかい声が耳に届く。けれど、心の奥底に刻まれた記憶は容易には解けず、リリィの謝罪の言葉だけが廊下に響いていた。


──


リリィは、まるで深い水の底からゆっくり浮かび上がるように、重たい瞼を開いた。目の前に飛び込んできたのは、心配そうに自分を覗き込む二人の顔──カリタスとアルメリアだった。


二人の輪郭がまだ霞んで見える中、リリィが小さく瞬きをしたその瞬間、ズキリと頭に鋭い痛みが走る。思わず顔をしかめ、両手を握りしめる。


「……あっ、先生!リリィが目を覚ましました!」

カリタスが声を張り上げると、部屋の隅の方から小走りの足音が近づいてきた。


現れたのはヴェルメイン先生だった。彼は慌てる様子もなく、けれど目の奥には強い安堵の色を浮かべて、リリィの顔を覗き込む。

「……ああ、リリィ……良かった。よく眠れたかい?」


その優しい声に導かれるように、リリィは重たいまぶたを持ち上げ、先生の姿を見上げた。朦朧とした意識の中で、かすれた声が口からこぼれる。

「だんな……さま……?」


必死に身体を起こそうとするが、すぐに頭痛が再び襲いかかり、視界が揺れる。耐えきれず、再び枕へ頭を預けた。


「リリィ、お水を飲みましょう?さぁ……」

傍らのアルメリアが優しく言い、手にしたコップを差し出す。リリィは震える手でそれを受け取り、ゆっくりと口へ運んだ。冷たい水が喉を潤すと、ほんの僅かに呼吸が楽になる。


ひと息ついた彼女を見守りながら、ヴェルメイン先生は表情を曇らせ、静かに問いかけた。

「具合が悪いのかい?リリィ……」


リリィは頭に手を当てながら、小さな声で答える。

「……あたま……いたい、です……」


「そうか……ひとまず、大事ではなさそうだな……」

先生は安堵の吐息を洩らしながらも、その声音には慎重さが滲む。しばしの沈黙の後、言葉を選ぶように間を置いてから、再び口を開いた。

「……リリィ。先程のこと、覚えているかい?」


その一言で、リリィの胸の奥に潜んでいた記憶の闇が、じわりと顔を出す。頭の中に、つい先程までの光景が断片的に浮かび上がる──騎士たちの喧騒、泥のような過去の記憶、そして心を支配する圧倒的な「恐怖」と「不安」。


それらが再び押し寄せ、頭をかき乱すように駆け巡る。リリィは耐えきれず、両手で頭を抱え込んだ。


「リリィ!?……す、すまなかった、無理に思い出さなくていい……!」

ヴェルメイン先生は慌てて身を屈め、そっとリリィの背中に手を添える。その手は温かく、落ち着きを取り戻すような静かな力を持っていた。


しばらく肩を震わせていたリリィは、やがて浅い呼吸を整え、小さく首を振った。

「……い、いえ……大丈夫、です……」


その声は弱々しくも、必死に自分を落ち着けようとする健気さを帯びていた。彼女の横顔を見つめる先生の瞳には、なお消えぬ憂慮が深く刻まれていた。

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