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【第一章完結】名もなき森の後砦   作者: フリィ
第二章 籠中の小鳥、夢眠る居城
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061 シルヴィアの部屋

ヴェルメイン邸の裏手に位置する、年季の入った木造の大きな建物。淡い月明かりに照らされ、褪せた木壁の輪郭が僅かに浮かび上がるように見える。手紙の執筆を手伝ってもらうため、シルヴィアの部屋があると言うその建物へ、リリィは足を踏み入れた。表の方からは見えにくいが、どうやらここがヴェルメイン家の騎士たちの宿舎なのだという。


薄暗い建物の中。軋む木の床を踏みしめると、リリィの鼻先に、煮詰まったスープの香りと、焚き火に似た匂いが漂ってくる。裏口と思われる小さな扉をくぐると、そこには広大な空間が広がっていた。


リリィは以前、毒に侵されて倒れ込んでしまったヴェルメイン先生を助けるため、騎士たちの集まる宿場に足を踏み入れたことがあった。そこには夜遅かったためか、数人の騎士とメイドがいただけだった。しかし、今目の前に広がる光景は、その時のものとあまりにも異なっていた。


リリィの目にまず飛び込んできたのは、大きな鍋の前に列を成す人々の姿だった。くたびれた服、擦り切れたマント。素足のままの者さえ多くいた。彼らは無言で鍋に近づくと、手にした皿にスープを注がれ、パンを一切れ受け取り、それを持ってあちこちに散らばった円卓へと向かっていった。


席は既に全て埋まっていた。列に並んでいる人数に対して、席は明らかに足りていないように見えた。そして、席に着けている者、壁際に座り込んだままスープを啜る者、床に膝を抱えたままパンをかじる者──その誰もが無言で、ひたすらに空腹を満たすことだけに集中していた。


リリィは、言葉を失っていた。


驚き、ではなかった。ただ、目の前の光景に自分自身が重なりすぎて、心が動けなくなっていた。ほんの少し前まで、彼らと同じように自分も──粗末な衣をまとい、飢えと寒さに耐え、他人の視線を避けながら毎日を生きていた。


だというのに、今の自分は清潔な制服を着て、銀の食器に並ぶ温かい料理を食べ、誰かに手紙の執筆を手伝ってもらおうとしている。突如として訪れた偶然だけで成り立っている、今の自分。


それが、急に遠く感じた。


「……っ……」


目を大きく見開いたまま、リリィの頬に、一筋の涙が流れ落ちる。彼女はそれに気づかぬまま、ただ呆然とその場に立ち尽くしていた。


「その……少し、ショッキングな光景……でしょうか?」


傍らから聞こえてきたシルヴィアの静かな声に、リリィはハッとしたように目を瞬かせる。小さく首を振り、涙を拭う暇もなく、慌てて口を開く。


「え、えっと……ごめんなさい……っ、そんなつもりじゃ……」


シルヴィアはすぐさま首を振って否定した。


「謝らないでください!先にお伝えしておかなかったわたしが悪いのです……」


その声はまっすぐで、どこか優しかった。リリィが伏せかけた目を上げると、シルヴィアが正面から彼女を見つめていた。その顔には、どこか自責と共感の入り混じった、複雑な感情がにじんでいた。


「ここのことは、後でご説明します。」


厚い革の手袋を外し、リリィの小さな手をそっと取るシルヴィア。その手は、とても温かかった。


「行きましょう。わたしの部屋は、二階です。」


短く言って、シルヴィアはリリィを導くようにして、ゆっくりと階段を登り始める。その手を握り返すことはできなかったが、リリィはただその背中に引かれるように、ゆっくりと歩き出した。


二階に上がると、宿舎に漂っていた沈んだ空気は一変した。床には柔らかい絨毯が敷かれ、壁には簡素ながらも装飾的な燭台が等間隔に並んでいる。廊下の奥の方からは、笑い声やグラスの音が賑やかにこぼれ聞こえてきていた。


リリィは思わず、そちらの方へ目を向けた。廊下の最奥の扉は大きく開け放たれており、そこから漏れる灯りが、床に温かい影を落としている。ちらちらと動く人影が楽しげに交差しており、誰かが冗談を言ったのか、ひときわ明るい笑い声が響いた。


昔の記憶をありありと思い起こされた今、その空間のあたたかさに、無意識に心を惹かれたのだろうか。


そんなリリィの視線に気づいたのか、シルヴィアは静かに足を止めると、やさしく声をかけた。


「……あそこが、気になりますか?ただの……わたしたちのための食堂です。」


その声に、リリィはハッと我に返る。肩を小さく揺らしながら、慌てて顔を横に振った。


「あっ……だっ、大丈夫です……」


言葉はそうだったが、瞳にはまだ少し名残惜しさが残っていた。


シルヴィアはそれ以上何も言わず、ただ少し俯いて、「分かりました」とだけ、静かに応じた。その表情には、リリィの心を思いやるような、やわらかな沈黙が滲んでいた。


彼女は扉の前に立ち、小さな鍵を回すと、「ここが、わたしの部屋です。」と言った。


そして躊躇なくそのまま扉を開き、中へと入っていく。リリィがその敷居を一歩またぐと、思わず声を呑んだ。


部屋の中は、まるで小さな武具博物館のようだった。


壁沿いには大小さまざまな剣や槍、古びた斧や短剣が丁寧に掛けられており、どれもきちんと磨かれ、鋼の光沢を放っている。鎧もまた、重厚な騎士甲冑から軽装の皮鎧までが整然と並べられ、まるで誰かが今にも着込んで戦場に赴きそうな気配すらあった。飾られているというより、整備された状態で待機しているような佇まいだ。


リリィは息をのむ。煌めく刃と金属の鈍い光に囲まれた空間は、「自室」のイメージとはあまりにかけ離れていた。


だがその一角、奥まった場所だけは、そのイメージとあまり差異はなかった。


そこには簡素な木のベッドが一台、横に小さな円卓と椅子が一組置かれ、そのそばには手入れされた革のサンドバッグや木製の訓練用剣が立てかけられていた。床には擦れた跡が幾つも走っており、ここで日常的に体を動かしていることが窺える。明らかにその一角だけが「暮らしの場」であり、他の装飾的な武具の空間とは異なる静けさを持っていた。


リリィは思わず立ち止まり、小声で「す、すごい……」と漏らす。


「個人的に、こういったものを集めるのは……す、好きでして……」


隣で困ったように微笑んだのは、この部屋の主であるシルヴィアだった。彼女は自分の後頭部をぽりぽりと掻きながら、気まずそうに続ける。


「……この部屋、元々は武器庫と言いますか……物置、だったんです。今も、まあ……そういう感じで……」


恥じるように俯き加減の彼女が、小さく息を吸い込んでからぺこりと頭を下げた。


「……可愛らしい部屋じゃなくて、ごめんなさい!」


「あっ、い、いえっ、ごめんなさい!とっ、とても、いいお部屋だと思います!」


リリィも慌てて頭を下げる。ぺこぺこと二人がほぼ同時に頭を下げ合い、その様子はどこか滑稽ですらあった。だがリリィは、もう一度そっと部屋を見渡し、言った。


「……かっこいい、部屋です。すごく、シルヴィアさんらしいというか……」


その言葉に、シルヴィアはふっと目を細めて、わずかに口元を和ませた。


──


「ふぅ……」


軽く息を吐いて、リリィはペンを机の上に置いた。紙の上には、今日一日の出来事が丁寧な文字で綴られている。リーベル宛の手紙──まだ緊張の残る筆致ではあるが、それでも昨日よりはずっとしっかりとした文章になっていた……かもしれない。


その隣でシルヴィアはそわそわと椅子に座り直し、眉を寄せながら不安そうに声を漏らした。


「だ、大丈夫……でしょうか?ご主人様にお教え頂くより、かなり稚拙になってしまったんじゃ……」


すると、リリィがすぐに顔を上げ、ぱっと明るく微笑んだ。


「大丈夫です!むしろ、昨日よりも……なんだか、大人っぽい感じ?になった気がします!」


その一言に、シルヴィアの緊張がふっと緩む。


「よ、良かった……。ご主人様からの直接のご依頼なんて、本当に久しぶりで……」


そう言って、シルヴィアはそのまま椅子から転がるようにベッドに倒れ込んだ。腕を大きく広げて天井を見上げ、重責から解放されたように深く息を吐く。


リリィはそれを見て、小さくクスリと笑った。


「本当にありがとうございます!」


その声にシルヴィアはがばっと体を起こし、ピシッと姿勢を正す。


「はっ!?ごめんなさい!!で、ではこのお手紙は、わたしが責任を持って、ご主人様にお渡ししておきますので!」


頼もしいその言葉に、リリィが「お願いします」と小さく頷いたその時……


ギィ……


部屋の扉がゆっくりと開いた。


「おっ副長、戻ってたんスね!早く来ないとなくなっちま……アレ?」


入ってきたのは若い男の騎士だった。短めの栗毛をラフに撫でつけ、銀の胸当ての下から覗くシャツの袖を雑に捲り上げている。顔立ちは整っているものの、どこか子犬のような軽い雰囲気を纏っていた。


男はリリィの姿に目を留めると、不思議そうに首を傾げながら部屋の中へとずかずかと入ってきた。


「この子は?」


リリィの傍らまで来て、男がシルヴィアに尋ねる。シルヴィアは立ち上がり、少しだけ気まずそうに答える。


「えっと、孤児院の子です。お手紙の執筆のお手伝いを……ご主人様から直々に承りまして……」


それを聞いた男は、「ああ!」とぱっと表情を明るくし、リリィの前に立ち、にこやかに手を差し出した。


「ウッドワードの!よろしくな!」


そう言って、そのままリリィの小さな手をぐっと握った。


「ひゃっ……!」


少し驚いたようにリリィが体を硬くする。思ったよりも強い握手だった。


「ゆ、ゆっくりお願いしますジェラルド!」と、シルヴィアが咄嗟に叫ぶ。


ジェラルドと呼ばれた男は「ああっごめんごめん、ハハハ……」と照れたように笑いながら、手の力を緩める。


リリィはゆっくりと手を引っ込め、目を瞬かせながらも、勇気を振り絞って小さく頭を下げた。


「よっ、よろしく、お願いします……」


その慎ましくも健気な挨拶に、ジェラルドはますます笑顔になった。


「おう、こっちこそ!困ったことがあったら何でも言ってくれよ!」


そう言いながら、彼はリリィの肩にパシッと手を置き──シルヴィアに「優しくしてください!」ともう一度睨まれる羽目になったのだった。

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