060 預けられた手紙
リリィは、両腕で抱えていた暗い赤紫のメイド服をそっと自室のクローゼットへしまった。制服の布地に残る温もりを手のひらに感じながら、彼女の胸の奥はまだ高鳴っていた。だが同時に、執務室を出る際に出くわした二人の姿が頭から離れなかった。
──フリーシアと、見知らぬ鎧の女性。
フリーシアの揺るぎない瞳と、隣の女性が纏っていた重い雰囲気が、リリィの小さな背筋を無意識に強張らせた。挨拶をするどころか、目も合わせられずにすれ違った自分を思い出し、胸が痛む。
「……でも……」
小さく息を吸い込み、リリィは再び廊下を歩き出した。食器を片付けに行かなければならない。何よりもう一度、先生の顔を見ておきたかった。制服を受け取った喜びを、きちんと伝えたい。
ノックの音が、執務室の扉に静かに響く。返事はなかったが、ゆっくりと扉を開けると、ヴェルメイン先生が窓辺に立っていた。背を向けたまま、庭の向こうの遠い星空を見つめている。
何やら考え事をしているようで、リリィが足を踏み入れても気づかない。
「……だ、旦那様……」
おずおずと声をかけると、先生の肩がわずかに揺れ、振り返った。
「……ああ、リリィか。もう戻ってきたんだね。」
優しい声色ではあったが、どこか思案の影を残している。リリィは少し躊躇ったが、制服を受け取った喜びと感謝の気持ちを伝えようと、胸に手を当てて小さく頭を下げた。
「……さきほどは、ありがとうございました。ずっと、大切にします……!」
ヴェルメイン先生は小さく微笑み、近づいてきてリリィの肩に手を置いた。
「そうか……それを渡せて、本当に良かったよ。君がここで夢を追ってくれることは、私にとって代え難い喜びだからね。」
しかしその言葉の後、先生はふと目を伏せて小さく息をついた。
「……フリーシアと、すれ違ったかな?」
リリィはハッとして目を見開いた。
「え……あ、その……」
自分を一瞥もせず、一言も発さなかったフリーシア、そして隣にいた無言の鎧の女性の圧迫感。思い出すたびに、心が小さく縮こまってしまう。
その気配を察したのか、ヴェルメイン先生は静かに問いかけた。
「……フリーシアのことが、気になっているのではないかい?」
リリィは小さく肩を震わせた。口を開きかけて、だが言葉が出ない。そんな彼女の様子を見て、ヴェルメイン先生は窓辺から一歩近づき、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「フリーシアは、人見知りなんだ。……とてもね。君に冷たい態度をとったわけじゃない。むしろ、どう接したらいいか分からなかったのだろう。」
「……人見知り……?」
「ああ。彼女は昔から……周囲からのいろんな期待を、一身に背負っていてね。それが長い間ストレスとなって、人の前に立つことを強く恐れるようになってしまった。だから、決して君を怖がらせようとしたわけじゃないよ。」
ヴェルメイン先生は穏やかな笑みを見せた。それは、リリィの不安を和らげるような笑みだった。しかし、どこか悲しそうな気配を隠せていないようにも見える。
リリィは目を瞬かせ、小さく息を吐いた。
「……そうだったのですね……よ、よかった……」
胸にあった緊張が少しだけ解けていくのを感じる。気を取り直すように、リリィは袖をまくり、トレーを手に取った。
「……あの、では、食器を片付けてまいりますね……」
その瞬間──
バンッ!
勢いよく執務室の扉が開かれた。
「失礼します!!」
大きな声が響き、鎧を纏った女性が部屋に踏み込んでくる。リリィはびくりと肩を震わせた。
──廊下ですれ違った、鎧の人だ!
鎧の女性はまっすぐにリリィへ向かって歩み寄る。迫力ある足音が床板を打ち、その度にリリィの心臓は跳ねた。手に持ったトレーがカタカタと小さく震える。
「ひっ……!」
思わずその場で立ち尽くし、リリィは目をつぶってしまった。だが──
「先程は、誠に失礼致しました!!」
いきなり、深々と頭を下げられた。
「……え?」
リリィは固まった。目を開けると、鎧の女性が自分の真正面で腰を折り、謝罪の言葉を述べていたのだ。
トレーを持ったまま呆然と立ち尽くすリリィ。その様子を横目に、ヴェルメイン先生は苦笑混じりに小さく肩を竦めていた。
シルヴィアは深々と頭を下げたまま、しっかりとした声で続けた。
「先ほど廊下ですれ違った際、挨拶もせず無言で通り過ぎてしまい……さらに無駄に威圧してしまったかもしれません。本当に申し訳ございませんでした!」
その言葉にリリィは戸惑い、慌てて手を振った。
「い、いえ……わたしの方こそ、声も出せずに……」
「いいえ。完全にこちらの落ち度です!」
鎧の女性はきっぱりと言い切り、深く頭を下げ直す。その礼儀正しい所作に、リリィはますます言葉を失い、持っていたトレーをぎゅっと握りしめた。
ヴェルメイン先生が苦笑を浮かべて口を挟む。
「シルヴィア、それくらいでいい。リリィが驚いているだろう?」
「え、えっと……」
リリィはかすかに狼狽えたが、その顔には安心が見え始めていた。
やがてシルヴィアは体を起こしたが、相変わらず申し訳なさそうな表情を浮かべていた。リリィは「ありがとう、ございます……だ、大丈夫ですから……」と小さく答えると、そそくさとトレーを持ち直し、食器の片付けに向かおうとした。
が、その時、ふと大切なことを思い出した。
「……あっ、そうだ……!」
リリィはくるりとヴェルメイン先生の方を振り返る。
「旦那様、あの……今日もリーベル宛の手紙を書きたいのですが……その……また、手伝っていただけませんか?」
その瞳はどこか期待に輝いていた。しかし、ヴェルメイン先生は少し困ったように眉を寄せた。
「……その、すまない、リリィ。」
「え……?」
「今日はこれから、忙しくなる。正直に言うと、見てあげる時間が取れないんだ。」
その言葉に、リリィの肩がしゅんと落ちる。
「……そう、ですか……」
机の上のトレーを見つめ、唇を噛みしめるリリィ。その様子を見たヴェルメイン先生は、一瞬考えた後、部屋の中に立っていたシルヴィアへと視線を向けた。
「……今日は、シルヴィアに見てもらうのは……どうだい?」
「えっ……?」
その場の空気が一瞬固まった。シルヴィアは驚きに目を見開き、反射的に背筋を伸ばした。
「……わ、わたしが、ですか?」
ヴェルメイン先生は静かに頷く。しかしその目には、有無を言わせない圧があった。
「そうだ。君なら安心して任せられる。いいかな?」
シルヴィアはしばし動きを止めたが、やがて覚悟を決めたようにヴェルメイン先生の目をまっすぐ見つめ返した。
「……承知しました。微力ながら、お手伝いさせていただきます。」
そのやり取りを見ていたリリィは、驚きに目を瞬かせた。あの堂々とした鎧の女性に、手紙の書き方を教わる──想像がつかず、思わず小さく肩をすくめる。だが、シルヴィアの真剣な眼差しを見て、ゆっくりと頷いた。
「……わ、分かりました。よろしくお願いします……!」
シルヴィアは短く「はい」と応えたが、その声にはかすかな緊張が滲んでいた。




