059 再響の奏
午後の光が、細い窓から斜めに差し込んでいた。古びたカーテンが微かに揺れ、輪郭の曖昧な影が床に滲む。ヴェルメイン家の領内、その辺境に建つ、古く簡素な屋敷。貴族の家でありながら、そこには見栄えする彫刻や絵画の類がほとんどなかった。
さらにその一室は、特に質素だった。壁は灰色がかった白で、棚には本とインク壺、机と椅子、小さなベッド、そして部屋の隅には木目のくすんだ控えめなピアノが一台置かれていた。
フリーシアは、机に向かっていた。整えられた文字がびっしりとノートに並んでいく。淡々と、音も立てずにペンを動かしていた。頬にかかる細やかな銀髪が、時折手の動きにあわせて揺れる。傍らには、様々な学問に関する書物が積み重なっていた。
「……誕生日おめでとう、フリーシア。」
その声は、扉を開けた兄のものだった。フリーゼ・ヴェルメイン。彼女の兄であり、家の長男として幾つもの責任を担う青年だった。柔らかな笑みを浮かべながら、遠慮がちに部屋へと入ってくる。
「……フリーシア、勉強熱心なのは素晴らしいことだと思う。ただ、芸術を楽しむ時間や、家族との食事の時間まで費やしてしまうのは……時間を守らないと、最近入った完璧主義人間のロザーナさんに、怒られるだろう?」
机に向かうフリーシアの手が、ゆっくりと動きを鈍らせる。しかし、彼女は顔を上げない。ただ黙々と、もう一文字、もう一文字と書こうとするように、ペン先を紙へ落としていく。
「……まあいいか。フリーシア、誕生日おめでとう。今日で……九つだね。」
フリーゼは静かに歩み寄り、彼女の前にそっと紙を置いた。それは、手書きの楽譜だった。旋律と歌詞だけの、シンプルな曲。だが、一文字ずつ、心を込めたことが伝わる筆跡だった。
フリーシアはそれを見つめた。口を開かず、ただ無言で。しかし、机の上に広げられた楽譜にそっと、指が触れる。指先はそっと、紙の縁をなぞるようにして止まった。
「ハハ……ごめんね。誕生日のプレゼントを買うお金は、出してもらえなかった。だから……歌を作ってみたんだ。」
フリーゼは少し照れたように笑いながら、頬をかく。
「君の音楽のセンスには到底敵わないし、伴奏をつけることもできなかったけど……あの孤児院の先生、意外とピアノが上手くてね。いろいろ教えてくれたんだ。なんとか、形になってると思うんだけど……気に入ってくれたかな?」
長い沈黙ののち──フリーシアは、かすかに頷いた。表情はほとんど変わらない。それでも、その静かな動きが、どれほどの喜びを内に秘めているかを、兄はよく知っていた。
彼は、そっと彼女の頭を撫でる。銀の髪が、兄の手のひらの下でふわりと揺れた。
「いつも、本当によく頑張っているよ、フリーシア。だから、こんな日くらい……息を抜いてもいいんじゃないかな。」
フリーゼはそれだけを言い残し、静かに部屋を出て行く。扉の前で一瞬立ち止まり、振り返らずに一言だけ添えた。
「ロザーナさんは、僕が引き留めておくよ。……今日は、好きなことをして過ごすといい。」
その声が消えたあと、部屋にはまた静けさが戻った。フリーシアは、兄が去った扉を見つめることもせず、机の上の楽譜に目を落としたままだった。
やがて、彼女は静かに椅子から立ち上がる。部屋の隅、小さなピアノの前へ歩き、そっと腰を下ろす。細くしなやかな指先が、鍵盤に触れる。
一つ目の音を押す前に、彼女はほんの少しだけ、目を閉じた。まるで、楽譜の旋律を心でなぞるように。
そして、音が流れ始める。
──
ディナーを終えた後のホールは、ほんのりとした灯りに包まれていた。テーブルの上には空き皿がいくつも置かれ、満ち足りた空気と、そこはかとない眠気が漂っている。
その一角、ダイニングホールの奥に据えられた艶やかな黒のグランドピアノの前に、メイド姿の背中がちょこんと座っていた。アルメリアだ。朝方にも弾いていたあの曲を、またぽつりぽつりと鍵盤の上で奏でている。今度は旋律だけでなく、慎重に付け足された左手の伴奏も交えていた。まだぎこちなさはあるものの、その音の重なりには確かな成長が現れていた。
ピアノの横には、クラージュとカリタスのふたりが立っていた。アルメリアの肩越しに、真剣な眼差しで指の動きを見守っている。クラージュは腕を組みながら、時折、小さく頷いて見せる。カリタスは両手を胸の前で組み、まるで自分が練習しているかのように緊張した面持ちで、一音一音に耳を澄ませていた。
一方、長いテーブルの向かい側では、アンドリューとジャスティンが机に突っ伏して、静かな寝息を立てていた。美味しい料理に心を弛め、鍛錬の疲労も相まって、いつのまにか夢の中に沈んでいたのだろう。頬に微かに残るソースの跡、手元に散らばったパンくず。それらは、つい先ほどまでの賑やかさの名残を物語っていた。
ホールの隅のソファには、フィデルが本を開いて座っていた。ページをめくる手は緩やかだったが、その目は文字と流れてくる音とのあいだを漂うように揺れ、耳はしっかりとピアノの旋律を捉えていた。
「〜〜♪……あっ!」
突然、音が止んだ。アルメリアが素早く指を離す。まだ難しい部分に差し掛かると、伴奏と旋律の間で指がもつれるようだった。それでも、彼女の顔には挫ける色はなかった。
「惜しい!でも、さっきよりずっと良かったよ!な?」とクラージュが声をかける。
「うん!さっき間違えちゃってたところ、ちゃんと通ったよ!あと少しだね!」と、カリタスも笑顔で続ける。
アルメリアは照れくさそうにうつむきつつも、小さく「ありがとう……」と呟いた。再び鍵盤に指を添えると、深呼吸をして、もう一度挑戦する。音のつながりは、ほんの少しずつ、確かに滑らかさを増していく。
そして、ついに──
冒頭の一節を、ミスなく弾ききった。繰り返し練習していた最初の大楽節。終わった瞬間、アルメリアの肩がふっと下がる。そして、ぱっと顔を上げた。
「できた……!」
その声が、喜びに満ちた空気をふわりと広げたその時──
ギィィ……
ホールの扉が静かに、しかし重々しく開かれた。
振り返ると、そこに立っていたのは、孤児院の制服に身を包んだひとりの少女──フリーシアだった。
その場の空気が一瞬で凍りついた。クラージュは眉をひそめ、カリタスは驚いたように目を丸くする。アルメリアは、まるで胸を撃たれたように、ピアノの前で硬直した。
フリーシアは誰とも目を合わせず、黙ったままホールの奥の席へと歩みを進める。テーブルを挟み、フリーシアはピアノの前に座るアルメリアを見守るように、静かに座った。
部屋の隅に控えていたロザーナははっと目を見開き、すぐにメイドたちへ視線で合図を送る。間もなく、温かい料理が次々と運ばれてきた。フリーシアはその料理に手を伸ばし、何の躊躇もなく、口に運ぶ。ナイフとフォークが食器に触れる音が、ホールの静けさにやけに大きく響いた。
沈黙を破ったのは、アルメリアだった。
「フリーシア様……おかえりなさいっ!その……何をされていたのでしょう?」
声は震えていたが、精一杯の笑顔を作っていた。
フリーシアは一瞬だけ顔を上げると、質問には答えず、淡々とこう言った。
「ピアノ……続けて頂戴?」
「えっ……?」と、アルメリアは目を瞬かせた。「今の、曲……まだ、練習し始めたばかりでして、その……」
フリーシアはナイフを持ったまま、顔を少し横に向けながら、落ち着いた声で言った。
「大丈夫。最初の大楽節だけでいい。繰り返して。」
その言葉には、命令とも違う、ただし抗い難い何かがあった。
アルメリアはごくりと息を飲み、視線を鍵盤へと戻した。ふと、胸の奥がひりついた。今までに感じたことのないような緊張が指先まで走る。見守ってくれているクラージュやカリタスの存在も、なぜだか遠く感じられた。
(……ミスしちゃ、ダメ……)
なぜだか、そう思った。自分と同じ孤児院の子でありながら、まるで違う空気を纏ったフリーシア。今、彼女の目の前で演奏することが、自分の内の何かを試されているように思えた。
真剣な面持ちで鍵盤を見つめる。指先に意識を集中させ、先程とは別人の演奏のように、とても慎重に音を紡いでいく。一音一音を確かめるように、テンポは遅く、丁寧に。まるで薄氷の上を渡るような演奏だった。彼女の額にはうっすらと汗が滲み、何度も小さく息を吐きながら、それでも手を止めることなく進んでいく。
そんな演奏が二度繰り返された時、テーブルで食事をとっていたフリーシアが、静かにナイフとフォークを置いた。
「ありがとう。よくできていると思う。ただ……硬すぎる。もっと柔らかく……さっきまで弾いていたみたいに。」
静かで柔らかな声色だったが、その中にある真剣さは決して揺るがなかった。
アルメリアは一瞬だけ目を見開き、けれど頷くと、静かに深呼吸をした。そして、震える指先で再び鍵盤に触れる。しかし、今度は少し気が緩んだのか、冒頭のフレーズの途中で指がもつれ、小さなミスをしてしまう。
「あっ……」
小さく声が漏れ、アルメリアは反射的に手を止めた。そして、もう一度最初からやり直そうとする。
だが──
「ダメ。」
フリーシアの鋭い声が、その場の空気を切り裂いた。
「ミスしても、最後まで弾いて。とにかく繰り返すの。」
アルメリアは驚いたように目を見張った。だがその表情は、すぐに引き締まる。歯を食いしばり、小さく「はい」と返して、ミスしたところから再び弾き始めた。
その場の空気は、張り詰めていた。クラージュは立ち尽くしたまま拳を握りしめ、カリタスはただ、不安そうにアルメリアの手元を見つめていた。フィデルでさえ、背筋を伸ばして、完全にアルメリアの演奏に集中している。
部屋には、ひたすら繰り返される旋律が満ちていた。同じ冒頭のフレーズが、何回も、何十回も、少しずつ変化しながら響いていた。
その間、フリーシアは無言で食事を終えた。フォークを静かに皿に置き、水の入ったグラスを手に取って一口だけ含む。そして、静かに立ち上がった。
静かな足音を立てながら、そっとアルメリアの傍へ歩み寄る。アルメリアは気づいていたが、振り向かない。ただ、集中したまま演奏を続けていた。
やがて、フリーシアがぽつりと言う。
「ありがとう。上手くなったと思うわ。」
アルメリアは演奏を止め、困惑したように目を瞬かせる。
「ありがとう、ございます……」
その声に、まだどこか自信のなさが滲んでいた。
するとフリーシアは、そっとアルメリアの隣に腰を下ろした。距離はとても近い。肩と肩がかすかに触れるような位置に、フリーシアは真っ直ぐに座り、鍵盤に左手を添える。
「さあ、もう一度。今度はもっと、感情を込めて。伴奏とペダルは、わたしがやるから。」
アルメリアは困惑しつつも、ゆっくりと目を閉じた。繰り返し弾いた旋律が、脳裏に浮かぶ。それは今や、彼女の中に根付いた音楽だった。
ゆっくりと、指を動かし始める。今度は、感情を込めて──静かで温かな音が、部屋の中に広がっていった。
柔らかな灯りに包まれたダイニングホールに、二人が織りなす美しい音楽が響き渡る。アルメリアの弾く旋律は、まるで澄んだ水面のように感情を映し出し、どこまでも優しく、どこまでもまっすぐだった。それに寄り添うように、フリーシアの指が鍵盤を走る。彼女の伴奏は、冷静でありながら繊細で、まるで一音一音に意味を込めているかのようだった。
──いつの間にか、広いホールを満たしていたのは、ただの音楽ではなくなっていた。そこには、心を通わせようとする願いと、応えようとする意志があった。
一度きりの連弾が終わると、最初に拍手をしたのは、ソファに座っていたフィデルだった。控えめだが、しっかりとした音が空間を包む。それに続いて、クラージュとカリタスも手を打つ。静寂のあとに訪れた拍手は、まるで場の空気に灯をともすようだった。拍手の音で目を覚ましたアンドリューとジャスティンは、状況が分からぬまま周囲に倣い、眠気混じりに手を叩いた。
フリーシアはそっと鍵盤から手を離し、隣に座るアルメリアへと目を向けた。
「素晴らしい演奏だった。ありがとう。」
その声には、彼女の雰囲気とは異なる、柔らかい温みがあった。アルメリアは驚きつつも、頬を赤らめて深くうなずく。
「あ、ありがとうございます……!あなたこそ、素晴らしい伴奏で……ピアノ、すごく上手なのね!」
そう言いながら、フリーシアの横顔を見つめる。だが、彼女は淡々とした表情に戻り、小さく言葉を返した。
「……どういたしまして。」
それだけを呟くと、彼女は椅子から立ち上がり、無言のままホールの出口へと歩き始めた。
その背中に、思わずアルメリアが声をかける。
「お待ちください!」
ピタリと足を止めたフリーシアの背に、アルメリアは真っ直ぐに問いかける。
「この曲……あなたが、作ったのでしょうか?」
少しの沈黙の後、フリーシアは振り返らずに答える。
「作曲者は、わたしじゃないわ。ただ、伴奏を付けたのはわたし。」
それだけを言い残し、彼女はふたたび歩き出す。
その後ろ姿を、ロザーナが慌てて追いかけていった。ダイニングの扉が閉まる音が、小さく響く。
ホールには静けさが戻った。アルメリアはまだ、自分の指先に残る連弾の余韻を感じていた。心に響いたその感覚は、音楽そのものよりも、隣で弾いていた少女の存在によるものだった。
──誰とも関わろうとしない、冷たく謎めいた少女。けれど今日、あのピアノの音色の中に、確かに感じた。それは、ただ純粋な「楽しい」という感情。ほんの少し、彼女の印象が変わったような気がした。




