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【第一章完結】名もなき森の後砦   作者: フリィ
第二章 籠中の小鳥、夢眠る居城
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057 深紅の灯火

ディナーの鐘が鳴ると同時に、王都ヴェルメイン邸の食堂の扉がゆっくりと開いた。


そこには、もはや魂の抜けかけた三人の少年の姿があった。クラージュ、アンドリュー、ジャスティン──彼らは今朝から始まったローウェンによるスパルタ鍛錬によって、完全に精気を失っていた。


特にクラージュ。彼は完膚なきまでに、プライドをへし折られていた。今まで彼は、負けというものを経験したことがなかった。抜群の運動神経に加え、孤児院では日々、剣術の鍛錬に励んでいた。彼とのチャンバラ勝負に勝てる者は、未だ現れたことがなかったのだ。しかし、剣を封印されたことに加え、今までほとんどしてこなかった体術のトレーニングばかりが続くと……


「……オレ、騎士向いてないよなぁ……」

クラージュの瞳は、目の前のフォークとナイフ……ではなく、ただテーブルクロスの繊細なレース装飾の一点のみを、ひたすらに捉えていた。ナイフを見ていると、剣を手に取りたくなる衝動に駆られると、無意識のうちに分かっていた……のかもしれない。


「……そんなことねぇ、クラージュ……あいつらが、バケモンなだけ……」とアンドリューが言おうとして、言葉の途中でゴトンと額を机に落とす。


そのタイミングで、クラージュの隣の席から、冷静で淡々とした声が響いた。


「なるほど。あっちでは『天才』と呼ばれていた君でも、バケモノには敵わないということかい?」


その声に、クラージュは顔だけ上げる。いつも通りの無表情気味なフィデルが、着席するところだった。


「……なんだよ、お前……」

クラージュがか細く言う。


「いや、別に。」

フィデルは椅子に座りながら続ける。


「ただ、午前中からカリタスとずっと勉強してた人間からすると、床と取っ組み合いしてた君たちが少しだけ……羨ましかっただけだよ。」


「どっちにしろ地獄じゃん、それ……」


ジャスティンが机に顔を埋めたまま呟く。


「ま、冗談だけど。」

フィデルはバスケットに入れられたパンを手に取りながら、ちらとクラージュに目をやる。


「でも、なんていうか……やっぱり、すごいと思ったよ。」


「……は?」


「今日の訓練、中から見てたよ。実は……昨日もね。何度も投げられて、何度も組み倒されて、でも……何度も立ち上がってた。」


クラージュは一瞬だけ顔をしかめるが、何も言い返さずに黙る。


「痛そうだったけど、見てるこっちは、ちょっとだけ……元気を貰ったよ。」


「お前……変な趣味してんな……」


「ハハッ、そうだね。でも、君ほどではないだろう?」


いつも通りの抑揚の控えめな口調でフィデルは言い、パンをちぎり、口に入れる。


「でも……努力してる人を見ると、自分も頑張らなきゃって思えるんだ。僕みたいな凡人は、そういうのがないと進めないからさ。」


フィデルの言葉に、クラージュはしばらく黙っていたが、少しだけ目を見開いた後、小さく「……珍しいな。」とだけ呟いた。


その瞬間、フィデルは目を逸らし、表情を読ませないままパンを飲み込む。


「勘違いするなよ。僕はただ……少しでも見習いたいと思っただけだから。」


クラージュはその言葉に苦笑しながらも、肩に少し力が戻るのを感じていた。


そんな中、ひときわ元気な声が響いた。


「お待たせしました〜♪ 今日のメニューは、トマトの冷製スープに、仔牛のロースト、そしてデザートは……じゃーん!さっき焼きあがったばかりのバター香るミルフィーユです!」


エプロン姿のアルメリアが、両手に大皿を抱えながらキッチンの扉から現れた。彼女の明るい笑顔が、やや幽霊めいた三人の姿に一瞬たじろぐ。


「えっ……な、なんでそんな……皆様、倒れていらっしゃるのですか……!?」


「……鍛錬だ……ローウェンっていう、バケモンの……」

クラージュが静かな声でつぶやいた。


しかしその声は、クラージュのプライドを粉々にした張本人にも届いていた。「ヒッヒッ……先程から黙って聞いておれば、誰がバケモンじゃと?」と、遠くの方の席から聞こえてくるローウェンの笑い声に、クラージュたちは反射的に背筋を伸ばし、再びすぐさま倒れ込む。いや、身を隠すために伏せた……と言うべきか。


アルメリアは心配そうにクラージュのもとに駆け寄った。


「クラージュ様……お食事、召し上がれますか……?」


「……いや、ちょっと無理……腕が上がんねぇ……スープすら飲めねぇ……」

テーブルに額をつけたままのクラージュが虚ろな声でつぶやく。


そのとき、アルメリアの顔がふいに赤く染まり、もじもじと指を絡めながら言った。


「あ、あの……もしよければ……その……あくまで、『お給仕の練習』として……」

言いながら、アルメリアはスプーンを手に取る。


「クラージュ様の……お口までお運びしても、よろしいでしょうか……?」


「…………」

クラージュは顔を上げかけて一瞬フリーズするが、力が尽きてふたたびガクンと戻る。


「……それ……すっごく恥ずいから、やめて……いや、でも、食いたい……でも、やめて……いや、でも……」

心の葛藤がそのまま口から漏れるクラージュ。


その様子を見ていたジャスティンがボソッとつぶやいた。

「いいなぁ……クラージュが無理なら、ぼくに……」


「……」クラージュは無言で睨みつける。二度と巡ってこないであろうチャンスだということは、疲労しきっていたとしても分かっていた。


アルメリアは恥ずかしさに頬を染めながらも、優しい笑顔でスプーンを手に取る。

「そ、それでは……クラージュ様……」


アルメリアは、クラージュの返答を待つ間も、顔を真っ赤にしたまま、そろりとスープをすくった。スプーンに揺れる赤色の液体が、アルメリアの手の震えに合わせて、かすかに波打つ。


「よろしい……でしょうか?」


おそるおそる、スプーンをクラージュの口元に近づける。クラージュはと言えば、半ば魂が抜けた状態のまま、目を閉じて事態を受け入れようとしていたが──


「……あー……やっぱ、ちょっと恥ずかしいな……」


それでも、動かない。受け入れるか、断るかを迷っているようだった。


「その……『練習』なんだよな?」


「……はい。あくまで『練習』……です。」


アルメリアの声は、どこか苦笑混じりで、でも優しかった。


クラージュは数秒沈黙したあと、ゆっくりと顔を上げた。そして、ため息をついて苦笑する。


「……じゃあ、頼むよ。腕、マジで上がんないしな。」


「……はい。」


アルメリアは、そっとスプーンを口元に運んだ。クラージュは、どこか所在なげに目を逸らしながら、それを口に含む。


「……うまいな。」


「よかったです……まだ、練習中ですけれど……」


アルメリアは、顔を少しうつむかせながら笑った。その頬はほんのり赤く染まり、クラージュもなんとなく目を合わせるのが気恥ずかしくなって、テーブルの端に視線を落とす。


ジャスティンがぽつりと、「いいな……」とつぶやいたが、アンドリューの無言の視線ですぐ黙る。


アルメリアは、またそっとスープをすくいながら言った。


「……クラージュ様が、少しでも元気になってくだされば、それだけで嬉しいです……」


クラージュは返事の代わりに、うっすらと照れくさそうな笑みを浮かべた。


賑やかなはずのディナーの時間は、この瞬間だけ、不思議な静けさとやさしさに包まれていた。


──


「お、お、お口……お拭き、いたしますね……」


リリィは今日も、多忙な旦那様のためにディナーをお運びし、そして本格的な給仕の練習を始めていた。書類で溢れかえる机の片付けを手伝い、テーブルクロスを掛け、食器と皿を並べ、グラスに水差しから水を注いだ。ロザーナから教わった全てを必死に思い返しながら給仕するその姿は、まるでぜんまいの巻かれた人形のようだった。少しでも例外的なことが起こればたちまち倒れてしまいそうだったが、今日はひとまず、何事もなく食事を終えることができた。


「すまないな……ありがとう。」


「い、いえ……」


リリィは小さく頭を下げたが、その手はまだ緊張で固くこわばっていた。ヴェルメイン先生は静かに水を飲み、そっとグラスを置く。


「……ふむ。たった二日で、随分と様になったものだな。」


「えっ……?」


「給仕のことだ。ロザーナの指導は厳しいだろうに、よく頑張った。今日の働きは、とても丁寧だったよ。」


リリィの肩がピクリと動き、小さな目がぱっと見開かれる。その頬が、みるみるうちに赤くなっていった。


「え、ええと……あ、ありがとうございます……っ」


「フフッ……ああ、そうだ。約束の、ご褒美を用意しておいたんだ。少し待っていてくれ。」


そう言うと、ヴェルメイン先生は椅子を立ち、書棚の奥にある、ひときわ重厚な扉を開ける。中から出てきたのは、小さく畳まれた深い赤紫の布だった。


先生はそれを両手でそっと抱えながら、リリィのもとへ戻ってきた。


「これはね、ヴェルメイン家の正規のメイド服だ。君に合うように、少し小さめに仕立ててもらった。」


「え……え……?」


リリィの手は行き場を失っていた。しかし、先生がゆっくりとその服を差し出すと、リリィはまるで壊れ物を扱うように両手でそれを受け取った。


布はしっかりとした厚みがあり、裾の刺繍には深い品位が感じられた。フリルや飾りのひとつひとつに、ロザーナたちが着ている制服と同じ、本物の重みがある。


「まだ経験は浅いが、君にはちゃんと『意思』がある。今は見よう見まねかもしれないが、少なくとも、自分で考えて動こうとしている。その姿勢が、私は何よりも嬉しいよ。」


リリィは唇を噛みしめながら、必死に何か言おうとしたが、うまく声が出なかった。


「ハハ……実はね、これを作らせようと思ったのは……あの面談の時なんだ。」


「ここに行く子を、決める時の……?」


「ああ。あの時君は、『ここに来る目的』を聞かれた時……私に、恩返しをしたいからだと、まず言ったね。」


ヴェルメイン先生はゆっくりと椅子に腰を下ろし、微笑を浮かべながら、リリィを見上げるようにして言った。


「……あの言葉を聞いた時、私は、正直なところ……君をここに呼ぶべきではないと思ったよ。」


「え……?」


リリィは、手にした制服を抱えるようにして立ち尽くした。


「恩返しというのは……どうしても借りから始まる。それを返そうと努力して、次第にそれが『義務』になっていくと……人は自分を縛ってしまう。烏滸がましい話だが……君たちの中には、私に恩を感じている子もたくさんいるというのも、理解している。ただ私は、恩返しに囚われることによって、自分の未来を縛って欲しくないんだ。」


ヴェルメイン先生はグラスに残った水を回しながら、静かに言葉を継いだ。


「だが……君はそのあとにこう言った。『旦那様のお手伝いをすることが、自分の夢になるかもしれない』……そうだったね?」


リリィは、こくりと小さくうなずいた。あの面談の時の緊張と、それでも勇気を振り絞って伝えた言葉が、鮮やかに胸の内によみがえった。


「私はその言葉を、ただの恩返しの延長線とは思わなかった。いや……そうであったとしても、その瞬間には……もう君の中に、『夢』が芽生えていたと感じた。……そして、それを否定する権利は、私にはなかった。」


先生の声は、どこか寂しさを帯びていた。それでも、その瞳は、リリィの目をまっすぐに見つめていた。


「……私はね、リリィ。子どもたちには『恩返し』ではなく、『夢』を追ってほしいと思っているんだ。君が今ここにいるのは、私のためではなく……君自身の夢のためであってほしい。そうでなければこの屋敷は……ただの牢獄になってしまうから。ああ、ただ……私を手伝うということが、そのままメイドの仕事に繋がるかと言われると違うのかもしれないが……受け取ってもらえるかな?」


その言葉に、リリィは何かが胸の奥で崩れていくような気がした。それは恐らく、今まで心の奥底で根強く声を上げていた、『恩返し』という小さな囲いの中で生きようとしていた自分だった。


「わたし……夢を見ても、いいのでしょうか?」


ようやく絞り出したその問いに、ヴェルメイン先生は静かにうなずいた。


「ああ、もちろんだとも。君の人生だ。君が選んで、君が歩くんだ。……ハハ。もう君は既に、夢に向かって歩いているじゃないか。」


リリィの手に抱えられた深い赤紫の制服が、いつしかほんのりと温かく感じられた。それはまるで、初めて夢を追うことを許された、小さな背中への贈り物のようだった。


「それは、君だけのものだ。アルメリアの分は、まだ用意していない。彼女の夢は……『尊敬に値する者に仕えること』だからね。それは必ずしも、私ではないだろう?」


ヴェルメイン先生の穏やかな言葉に、リリィは思わず制服を見つめた。深い赤紫の布は、しっかりとした質感と静かな光沢を帯び、両手で抱えているだけで、自分が少しだけ『特別』になったような気がした。


しかし、その『特別』が、急に胸の奥でちくりと疼く。


「……あの、旦那様……」


リリィはそっと視線を上げた。


「これを着ているのを……アルメリアに見られたら……きっと、羨ましがられると思います。だって、アルメリアはいつも……誰よりも、一生懸命ですから……」


その声には、ほんの少し、申し訳なさと不安が滲んでいた。しかし、ヴェルメイン先生はすぐに首を横に振って、微笑を浮かべた。


「いや、彼女はそうは思わないと思うよ。」


「……え?」


「むしろ……それが、何か彼女の考えを変えるきっかけになるかもしれない。」


先生の言葉は静かだったが、どこか確信めいていた。


「アルメリアは今、『誰かのために尽くすこと』に、生きがいを感じている。ただ、その『誰か』が誰なのか……いや、『誰でなければならない』のかを、まだ決めかねているように見えるんだ。……まあ今はロザーナに夢中で、あまり眼中にないかもしれないがな。」


ヴェルメイン先生は、窓の外へと視線を移しながら、ゆっくりと続けた。


「リリィ。君が夢に向かって本気で動き出した姿を見れば……彼女はきっと、心のどこかで感じると思うんだ。『私も、決めなければ』とね。自分が誰に仕えたいのか、本当は何を望んでいるのか……君の姿が、その答えを引き出す鍵になるかもしれない。」


リリィは静かに息をのんだ。自分の行動が、誰かに影響を与えるかもしれない。そんなこと、今まで考えたこともなかった。


それは恐ろしくもあり、でも、少しだけ……誇らしくもあった。


「……そんな、大層なものじゃ……」


そうつぶやきかけたリリィの言葉を、先生はそっと手を上げて制した。


「いいや、リリィ。夢というものはね……時折、自分だけではなく、他者の心を照らすこともあるんだよ。」


その言葉に、リリィの胸の奥が、そっと灯ったような気がした。自分がいま抱きしめているこの制服が、ほんの小さな光でも──誰かを照らすものになれたら。


そんな願いが、胸の内に静かに芽を出し始めていた。

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