056 旋律に交わる足音
昼下がりの王都の裏通り。大通りの喧騒から少し離れた一角に、古びた木製の看板を掲げる酒場がある。灯りは控えめで、一歩踏み入ると木の床がぎしりと軋み、酔客たちの談笑と酒と煙草の匂いが出迎えてくれる。
その一角に置かれた小さなピアノの前で、フリーシアは静かに腰を下ろしていた。胸元のリボンをきゅっと締め直すと、細く白い指が鍵盤に触れる。
最初の音が鳴った瞬間、それまで賑やかだった酒場が、ふっと静まり返る。
フリーシアが演奏するのは、今王都の若者たちの間で流行している哀愁を帯びたバラード。指の動きは細やかで、旋律はしなやかに空気を滑っていく。演奏に合わせて、酒場の空気は柔らかく染まり、酒を口にする者も、賭け事に興じていた者も、いつの間にか手を止めていた。
フリーシアの背後に立っていたシルヴィアは、周囲に警戒を向けながらも、どこか誇らしげにフリーシアの背中を見守っていた。その足元には、小さな木箱。そこに誰からともなくコインが投げ入れられる音が、時折カランと響く。
一曲演奏を終えると、酒場は大きな拍手と歓声に包まれた。
「また聴けてよかったなぁ……あの嬢ちゃんのピアノは、どこか沁みんだ。」
「なあ、どっから来た子なんだ?噂じゃ、貧しい家の生まれで、音楽だけを頼りに生きてきたとか……貴族の娘って話もあるけど……俺、後で声かけてみようかと思ってんだ。」
「ハッ、お前が?やめなやめな、あの護衛を見てみろ。アタシには分かるぞ?一見そうでもなさそうに見えるが……ありゃ絶対強い。お前なんか捻りつぶされて終わりだよ。」
そんなささやき声が、店のあちこちから聞こえる。フリーシアはそれらの声に興味を示すこともなく、淡々と次の曲の準備を始める。まるで、今そこにいた観客の誰とも関わるつもりはないかのように、表情は無機質で、どこか遠くを見ているようだった。
「……では、次の曲です。」
フリーシアがぽつりとそう呟くと、店の客たちはまた身を乗り出し、耳を傾けた。彼女は再び、鍵盤に指を落とす。すると今度は、体が勝手にリズムを刻んでしまうような軽やかな旋律が溢れ出した。
「おーっ!嬢ちゃん、そういうのもいけんのか!」
「よし……こうなったらもう、俺のダンススキルに惚れてもらうしかねぇな!」
──
軽やかな旋律が、酒場の空間を最後まで明るく照らし続けた。フリーシアは鍵盤から手を離し、静かに立ち上がる。すると、それを待っていたかのように、店内に大きな歓声と拍手が湧き起こった。陽気な酔客たちが一斉に立ち上がって手を叩き、口笛を吹く。演奏が終わってもなおステップを踏んでいた者たちもいたが、皆一様に満足そうな表情だった。
フリーシアは何度か控えめに頭を下げると、演奏の余韻が残るうちに、足早に裏口のほうへと歩き出した。その後ろを、木箱を抱えたシルヴィアが慌ててついていく。木箱の中にはたくさんの銀貨と銅貨が鈍く光り、静かに音を立てていた。
裏口の扉を開けると、夕方の風が暖かく頬をなでた。石畳に靴音が響き、そこには酒場の主人である、太った中年の男が煙草をふかしながら立っていた。ランプの明かりと夕陽に照らされた顔には、労働の疲れと、誠実さがにじんでいる。
「おう、お嬢ちゃん!」と主人はにっこり笑いながら声をかけた。「今日も見事な演奏だったな!」
フリーシアは少し戸惑ったように顔を上げ、しかしすぐに整った所作で頭を下げる。「ありがとう、ございます……」
「毎日でも来てくれりゃ、大儲けなんだがなぁ!ハッハッ!」と冗談めかして言うおじさんの顔には、どこか本気の願望も見え隠れしている。
フリーシアは首を軽く振りながら、申し訳なさそうに言う。「ごめんなさい……毎日同じお店には、行けません……」
「まあ、そうだよなぁ……引く手数多ってやつだ。ま、また気が向いたら来てくれな。」とおじさんは軽く手を振って見送ろうとする。
その横では、シルヴィアが木箱の中から手早くいくらかの銀貨を取り分け、革袋に移していた。
「本日もありがとうございました。こちら、チップの二割です。お受け取りください。」
おじさんは手を振って断ろうとする。「ああ、いいよいいよ。最近じゃ、お嬢ちゃんが来てくれた日にゃ、客は二倍、酒は三倍だ。もう受け取れんよ。」
しかし、シルヴィアの目は冷静だった。「いえ。これは、彼女のご意向です。……どうか、お受け取りください。」
おじさんは躊躇いがちに、革袋に手を伸ばす。手に取った瞬間、予想外の重みに、思わず落としそうになってしまった。
「おっと!こりゃなかなか……お嬢ちゃんのご厚意、しかと受け取ったよ。いやぁ、良かった良かった。娘のために買ったピアノを残しといてなぁ……ボロボロで、娘もなかなか帰ってこねぇから、捨てようかとも思ってたんだが……」
フリーシアは一言も発しなかったが、俯いたまま、うっすらと微笑んでいた。
「ハハ、お嬢ちゃんには関係ねぇ話だな。んじゃ、気をつけて帰んな!」
フリーシアは、ただ一度だけ小さく会釈をした。そして、シルヴィアとともに、明かりの灯り始めた裏通りへと静かに消えていった。
──
長く伸びた影の輪郭がぼやけ始めた頃、ヴェルメイン邸への帰路につく二人の姿があった。フリーシアはフード付きの外套で身を包み、そっと顔を伏せている。隣を歩くシルヴィアは、視線を鋭く巡らせながらも、その表情にはかすかな翳りがあった。
「……お嬢様、この辺りではもう、有名になっていらっしゃるようで……かなり声をかけられましたね。」シルヴィアが低い声で切り出す。「その……そろそろ、でしょうか?」
フリーシアは足を止めず、ただまっすぐ前を見たまま静かに答えた。
「……ええ。今夜、兄様に話を通すわ。」
その言葉に、シルヴィアの表情がわずかに曇る。分かっていた未来が、いよいよ現実のものとなっていくことへの不安が、その横顔に滲んでいた。
それを感じ取ったのか、フリーシアはちらりとシルヴィアの顔を見て、ふと歩調を緩める。
「……あなたに、責任はない。全部、わたしが言ったことだから。」
静かな声の中に、確かな覚悟と冷たい鋼のような芯があった。シルヴィアは思わず目を伏せ、ぎこちなく首を振る。
「い、いえ……申し訳ありません。」
それきり、二人の間に言葉はなく、足音だけが石畳に響いた。
その背後で、別の音が密かに交じっていた。足音を忍ばせる影が、建物の角からふと姿を覗かせ、距離を保ちながら二人のあとをつけていく。
その影は、二人の会話に耳を傾けるでもなく、ただ執拗に、静かに尾行を続けていた。ボロ布をまとったその者の瞳は鋭く光り、その眼差しには、単なる興味ではない、ある種の確信と執着が潜んでいた。
王都の喧騒が遠のいていく中、影は、彼女たちの進む先に何があるのかを知ろうとするように、無言でそのあとを追っていく。
赤く染まった通りに、夜の帳が少しずつ降り始めていた。フリーシアの決意、シルヴィアの不安、そして忍び寄る影──その全てが、やがて来る騒乱の前触れのように、冷たく空気を震わせていた。




