055 小さな光が照らすもの
リーベルへ
こんにちは。お手紙、とどいたでしょうか?字をよむのはとくい、なんだけど、かいたことってほとんどないです。だんなさまに、手つだってもらいながらかいています。まだ字をかくのが、なれていないので、よみにくいところがあったら、ごめんなさい。
だんなさまのおやしきは、とても大きくて、きれいです。ろうかには、きれいなえや、ふしぎなぞうや、おかざりがたくさんあって、あるいていると、どきどきします。さいしょは、道にまよってしまいそうで、ちょっとこわかったけれど、すこしなれてきました。
おりょうりは、ぜんぶ、とてもおいしいです。見た目もすごくきれいで、たべるのがもったいないくらいです。リーベルにも、たべさせてあげたいなあと、おもいました。
すこしずつ、じぶんのゆめが見えてきたような気がします。アルメリアが、メイド長のロザーナさんに「おしえてください」とたのんでいるのを見て、わたしもだんなさまの、おやくにたちたくなって、気もちが、おさえられなくなってしまいました。それで、わたしもロザーナさんに「おねがいします!」ってたのんでしまいました。いま思うと、はずかしいです。
ロザーナさんは、とてもすごい方です。何をしていてもきれいで、歩いているだけで、まわりがキラキラしているように見えます。でも、とてもきびしくて、まちがえるとすぐになおされます。でも、だんなさまが、「よくがんばったね」とわらってくださると、がんばってよかったと思います。
きょう、アルメリアといっしょに、みんなのばんごはんをつくりました。みんなよろこんで、おいしいって言ってくれました。でも、たくさんやりなおし、しました。まだまだうまくできませんが、いつかリーベルにも「すごいね」って言ってもらえるように、がんばります。
だんなさまがよくのんでいる、おちゃのはっぱをすこしだけもらって、紙づつみに入れました。とてもいいにおいがするので、のんでみてください。
あしたもまた、お手紙をかきます。リーベル、からだに気をつけてください。歩くの、たいへんかもしれないけど、おうえんしてます。
あなたのしんゆう、リリィより
──
「ふふ……」
自然と微笑みがこぼれた。
ところどころインクが滲み、書き直した跡が残るぎこちない文面。でも、その一文字一文字に、リリィの一生懸命さが詰まっていた。何度も何度も書き直して、時間をかけて書いたのだろうと、簡単に想像ができた。
「お料理は、ぜんぶ、とてもおいしいです……か。」
リーベルは読み上げながら、リリィが見たこともない豪華な料理に目を輝かせている姿を思い浮かべる。その様子が可愛らしくて、胸が温かくなる。
「……メイドの練習、始めたんだ……」
思わず小さくため息をつく。リリィが、ロザーナの厳しい指導に耐えながらも、ヴェルメイン先生の役に立とうと努力している姿が、目に浮かぶようだった。あの小さな背中が、少しだけ遠く感じて、少しだけ胸が締め付けられる。でも、それは決して嫌な痛みではなかった。
「やっぱり……すごいな、リリィは……」
封筒の中をもう一度覗くと、小さな包みが入っていた。慎重に取り出して開くと、ふわりと紅茶の上品な香りが漂った。リリィが届けてくれた香り──それはまるで、屋敷の空気そのものを運んできたかのようだった。
「……これが先生の飲んでる味なのかな?わたし、まだ飲んだことないけど……」
リーベルはしばらくの間、茶葉の香りを胸いっぱいに吸い込んだ。そして包みを胸に当て、しばらく目を閉じた。リリィが遠く離れた場所でも、頑張って努力している。だから自分も、負けてはいけない。リリィに誇れる自分にならなければ──そう静かに思った。
「よし……今日は、院長先生のお部屋まで……」
そう呟きながら、リーベルは扉へ向かう。その顔には、嬉しさと寂しさと決意がないまぜになった、少し大人びた表情が浮かんでいた。
廊下の窓から差し込む昼の光が、柔らかく床に模様を描いている。リーベルは壁を伝いながら、ひとつひとつ足を進めた。院長先生の部屋は、一階の廊下をずっと進んだ先の、最奥にある。それは、お風呂や食堂に行くよりも遥かに遠い道のりだった。途中、すれ違った子どもたちや先生が驚いた顔で見つめてきたが、リーベルは構わず、前だけを見て進み続ける。
「あと少し、あと少し……」
心臓が早鐘のように打ち始める。けれど、立ち止まりたくはなかった。リーベルはふらつく脚を必死に奮い立たせながら、進み続ける。そしてついに、院長室の前に辿り着いた。扉の前に立っただけでもう膝が笑っていたが、弱音を吐かず、拳を握ってドアを小さくノックする。
「どうぞ。」
中から穏やかな声が返ってきた。ドアをゆっくり開けると、中にはいつもの優しい笑顔の院長先生がいた。
「おや、リーベル。一人でここまで歩いてきたのかい?」
院長先生はリーベルを見るとすぐに立ち上がり、心配そうに駆け寄ってきた。温もりのあるその声に、リーベルの目尻がほんの少し潤む。けれど、すぐに微笑み返して答えた。
「ごめんなさい、突然……」
「ハッハッ、大丈夫。私も今ちょうど、暇になったところだよ。」
院長先生はゆっくりとリーベルの肩に手を添え、優しく支えながら部屋の中へ導いてくれる。重たく感じた足取りも、先生の支えで少し軽くなった。
やわらかなクッションのソファに腰掛けると、リーベルは大きく息を吐いた。身体はまだ震えていたが、不思議と心は落ち着いていた。
「よく頑張ったね、リーベル。何か、大事な用があるのかい?」
院長先生の言葉に、リーベルはそっと首を横に振る。そして、リリィの手紙のことを思い出しながら、小さく微笑んだ。
「いえ、その……ヴェルメイン先生のお屋敷に行ったリリィから、手紙が届いて……わたしも、頑張らなきゃって思って。」
「そうかそうか。それで、ここまで一人で歩いてこようと思ったんだね?」
「はい……」
「ハハ、本当に頑張り屋で……ん?何か、いい匂いがするね。もしや……その、手に持ってる小包みかな?」
院長先生の優しい声に、リーベルは驚いて手元を見た。指先に残るわずかな湿り気と、香ばしい匂い。長い廊下を歩く間、無意識にずっと握りしめていたのだと気づき、頬がじわりと熱くなる。「あ、あれ?これ、ずっと持ってたの……?」と困惑しながら言うと、院長先生は愉快そうに笑った。
「ハッハッ、歩くことに一生懸命になりすぎて、ずーっと握りしめていたことを忘れておったか?」
「そ、そうみたいです……えっと……これは、ヴェルメイン先生がよく飲んでいらっしゃる、紅茶の茶葉、だそうです……封筒の中に、一緒に入ってて……」
そう言いながら、リーベルは慎重に紙包みを広げた。わずかに立ち上る香りがほのかに甘く、上品で、どこか懐かしささえ感じさせた。
院長先生はリーベルの隣に腰を下ろすと、優しく手を差し出した。「おお、それはそれは……少し、手に取ってみてもいいかな?」
「はい……」リーベルは緊張しながら茶葉の包みを手渡す。
院長先生は鼻先を近づけて、ゆっくりと香りを吸い込むと、目を細めて微笑んだ。「ああ……間違いない。これはとても貴重な品だ。旦那様はここの近くに、農園を持っていらっしゃってね。そこでしか栽培していない、希少な茶葉がある……これはまさしく、その茶葉だよ。」
「そんなに、希少なものだったのですか!?」
「ハハ、そうさ……私も、旦那様にご馳走になる時にしか、お目にかかれないからね。上流階級の方々の間では、とても人気があるみたいだよ。」
リーベルは驚きに目を見開き、そっと茶葉の包みを受け取った。しかし、包み紙のしわや折れ目が目に入ると、胸が少し痛んだ。もう少し丁寧に持っていれば……そもそも、引き出しにしまっておけば……と、次々と後悔の波が押し寄せる。
それを察した院長先生は、優しく笑みを浮かべたまま言う。「リーベル、気にするんじゃない。中身は大丈夫だよ。それに、その茶葉を握っていたから、ここまで来れたのかもしれないだろう?ハッハッ……」
確かに、無意識のうちに、この茶葉に勇気づけられていたのかもしれない。それでもリーベルの心は落ち着かなかった。このまま封筒に戻しておくのは、なんだか勿体なく感じられた。そして少し迷った後、決意するように顔を上げた。
「ごめんなさい、院長先生……その、お時間があればこの紅茶……一緒に飲んではくださいませんか?」
院長先生は少し驚いた後、目を細めて優しく微笑んだ。
「おや……いいのかい?もちろん嬉しいが……本当に貴重なんだよ?」
「はい……でも、わたし一人だけで淹れるのも、不安で……」
「なるほど、そうかそうか。では、せっかくの贈り物だ。ありがたくいただこうじゃないか。……実は、ここを巣立っていった子たちから送られてくるお菓子が、たくさんあってね。いつもは、先生たちで分け合っているんだが……ハハ、他の子には内緒だぞ?」
「あ、ありがとうございます!」
リーベルの胸の中に、じんわりと温かい喜びが広がっていった。
──
リーベルの小さな手が、慎重にポットを傾ける。湯気の向こうにふわりと立ちのぼる柔らかな香り。その瞬間、思わず胸が高鳴った。
「あ……」
ヴェルメイン先生の、あの落ち着いた微笑みが思い浮かぶ。先生の袖口から、ほのかに漂っていたこの香り。リーベルは自分の胸の奥に小さな疼きを感じる。けれど、すぐに首を振って気持ちを切り替えた。
「よし……うまく淹れられたかな……?」
ひとまずお茶が入ったことにホッとし、リーベルはそっとカップを覗き込む。琥珀色の紅茶が湯気を立て、ゆらゆらと揺れている。院長先生が戻ってくるまでの間、その揺らめきに目を奪われていた。
間もなく院長先生が現れ、両手に抱えきれないほどの菓子皿を運んで来た。
「さあさあ、お茶会だぞ。」
小さな丸テーブルの上に、次々と色とりどりのお菓子が並ぶ。リーベルは驚きながらも、思わず笑みがこぼれた。
「わぁ……!」
カップを手に取り、一口すすると、芳醇な香りが口いっぱいに広がった。ほんのわずかに甘みを帯びた、優しく深い味わい。けれどその香りは、否応なくヴェルメイン先生を思い出させる。
──ダメ、リーベル……リリィを応援するって、決めたんだから……
気持ちを切り替えるように、リーベルはお菓子を次々と口に運び始めた。サクサクとしたビスケット、しっとりと甘いフィナンシェ、小さなフルーツのタルト。夢中で食べる彼女を見て、院長先生が楽しそうに笑った。
「ハハ……お腹が空いていたかな?たくさん食べるといい。」
「はいっ……!すごく、美味しいです……」
院長先生もゆっくりと紅茶を啜る。「ああ……やはりいいものだ。ありがとう、リーベル。」
「いえ……こちらこそ、ありがとうございます!」
しばし和やかな沈黙が流れた後、リーベルはそっとカップを置き、ふと思い出したように口を開いた。
「その……意外、でした……ヴェルメイン先生が普段、何をされているのか気になっていたのですけど……農園を、持っていらしたのですね。」
「ああいや、農園だけじゃないぞ?ハハ……この小さな町は、あの方のお陰で成り立っているようなものさ。」
リーベルは驚きの表情を浮かべた。「と言うと……?」
院長先生は微笑みながら語り始めた。
「旦那様は他にも……鉄製の農具を輸入してくださったり、貧しい漁師はなかなか手を出せない蒸気船を貸し出してくださったり……この町の商業組合の立ち上げにも、大きく携わってくださった。」
「そんなに……!すごい、ですね……」リーベルの目は尊敬と驚きで輝いていた。「ヴェルメイン先生って、お貴族様……ですよね? 貴族って……そんなに、いろんな商売をしているイメージが、なかったのですが……」
院長先生は声を立てて笑った。「ハッハッ、確かに、昔はそうだったかもしれんな。ただ……最近は、お貴族様も厳しいんだろう。」
「どうして、ですか…?」
「少し難しい話だが……貴族というのは元々、それぞれが所有する領土からの税収で暮らしておった。ただ最近、お金で物をやり取りすることが増えただろう?そうすると、『土地』という確たる資本がなくとも、『お金』さえあれば、誰でも商売ができるようになった。するとな、領主に頼りきりの者が少なくなる。そして次第に、支配から解放されようと動く者が出始める……まあ、私にも細かいことは分からんよ。」
「な、なるほど……」
なかなか難しい話だったが、リーベルはなんとか喰らい付いていた。
「ヴェルメイン家も、もちろん例外じゃないさ。この町は今も、ヴェルメイン家の領土なのは変わりないんだが……その意識はかなり薄れておる。税収が少なくなる中、国王様の権力も強まって、貴族の地位を維持するための支出も増える……旦那様のお父様は、かなり苦しい生活を強いられたそうだ。それでも、昔からの風習なのか……貴族は、商売はしないものという考えがあるらしくてな。お父様はまさしく、そういった考えをする方だと聞いたよ。」
「え、それじゃ……ヴェルメイン先生とお父様の考え方って、正反対なんじゃ……」
「ああ、その通りだ。旦那様は必死に勉強なさって、王都の商人に交じって様々な商売に手をつけて、何度も頭を下げて……なんとか家を守ろうとなさった。しかしそのやり方は、お父様は気に食わなかったようでな……ただ、旦那様の商売によって助けられているのも事実……きまりが悪くなったお父様は、家を出ていってしまったそうだ……」
「……」
リーベルは何も言えなかった。普段は余裕を見せるあのヴェルメイン先生が、こんなにも苦労を重ねていたとは思わなかった。
「ハハ、すまないね……せっかくの高級品なのだから、もっと明るい話を……」
「いえ、ありがとうございます……知りたかったこと、なので……」
リーベルはまた一口、紅茶を口に含む。この紅茶が、ヴェルメイン先生の苦労の末に生まれたものだと思うと、その香りの深さがより一層増した気がした。
「本当に、すごい方、ですね……」
「うむ……それでも、あの方は決して、愚痴一つこぼさないんだよ。ただ……」院長先生は少し声を潜める。
「昔……一度だけ、弱音を聞かせてもらったことがある。どれだけ勉強しても、どれだけ稼いでも、周囲の自分を見る目は変わらず冷たく、領民からの尊敬の眼差しは上辺だけのもの……自分のしていることに、意味はあるのだろうか、とな……」
その瞬間、リーベルの胸に、ズキリと重たい痛みが走る。彼女がこれまで抱いていた「優しくて立派な先生」の像は、あまりに小さく薄っぺらだったように思えた。
──わたしは一体、先生の何を見てたんだろう。
こんなにも重い責任を背負って、もがき続けてきた人に対して、自分はただ「好き」「優しい」「恩人」とだけ思っていただけだった。自分の気持ちの浅さが恥ずかしくて、リーベルは俯いてしまう。
その様子を、院長先生は静かに見つめていた。そして、わざと明るい口調に戻す。
「だが、まあ……リーベル。あの方はきっと、お前さんの素直な笑顔や優しさに、救われておられる部分もあると思うぞ?」
「……え?」
「フフ、重たい責任はな、時に柔らかい光に照らされると、少しは軽くなるものさ。……旦那様はこの孤児院を、何の対価も求めずに支援してくださっている。それはなぜだか、分かるかい?」
「……分かりません。」
「お前さんたちが、その光になっているからだよ。リーベル……君も、そんな光の一つになってくれていると、私は思っておる。」
リーベルはぽかんと顔を上げた。じわりと胸があたたかくなる。そして少しだけ、目に涙が滲んだ。
「……院長先生……ありがとうございます……」
院長先生は優しく頷き、リーベルの頭をそっと撫でた。
「気負わずにおいで。お前さんはお前さんのままで、十分じゃよ。」
カップの中の紅茶はもう冷めかけていたが、その香りはまだ静かに、部屋の中に漂っていた。




