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【第一章完結】名もなき森の後砦   作者: フリィ
第二章 籠中の小鳥、夢眠る居城
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053 誰も知らない旋律

薄曇りの朝日が、二階南側の隠された部屋の厚い布越しに、わずかな光となって差し込んでいた。


その部屋の奥、小ぶりな円卓に置かれた銀の食器が、かすかに光を跳ね返している。テーブルには一人分の朝食。白いスープ、焼き立てのパン、湯気の立つハーブティー。けれど、その光景に暖かさはなかった。


フリーシアは無言のまま、ゆっくりとスプーンを動かしていた。その目は、食器ではなく、どこか遠くを見つめている。


部屋の隅で控えていたロザーナが、一歩踏み出す。その肩には、緊張がのしかかっていた。 


「お嬢様……その、お昼は……ホールでお召し上がりに、なりませんでしょうか…?」


フリーシアの手がぴたりと止まる。だが目は合わせない。少しの間を置いて、冷ややかに口を開く。


「行かない。」


その一言は、まるで斬るような硬さを持っていた。ロザーナの微笑みが引きつる。


「き、昨日はいらっしゃったではありませんか?何か、お気に召さないことが……ございましたでしょうか?」


フリーシアはスープの器に視線を落とし、それからゆっくり立ち上がる。ロザーナの言葉には答えず、無言のまま部屋の中央へと向かう。そしてピアノの前に座り、指を鍵盤に置いたまま言う。


「あれは、先生に言われたから。」


静寂が室内に降りる。ロザーナの息遣いがわずかに乱れる。彼女は必死に言葉を探し、ようやく口を開いた。


「ご主人様がいらっしゃれば……来てくださるのでしょうか?ご主人様の命でなければ……ダメなのでしょうか?」


フリーシアは返事をしない。ただ、譜面を開き、鍵盤を見つめる。そして何の前触れもなく、柔らかな音色が部屋に広がる。


音は穏やかだが、張り詰めたように透明で、どこか遠い。まるで誰にも届くことを望まない音だった。


「お嬢様……もうわたくしは、以前のようには申し上げません。ですから……」


「食器、片付けて。」


「……かしこまりました。」


ロザーナはそれ以上何も言わず、トレーを持って螺旋階段の方へと向かう。けれど、階段を降りようとしたその時、背中に静かな声が届いた。


「パーティまで……あと何日?」


楽譜から目を離さず、指先も止めないままの問いかけだった。


ロザーナは一瞬だけ息を止め、それから背筋を伸ばすように答えた。


「……五日でございます。」


その言葉の反響が消えた後、ロザーナは静かに礼をして階段を降りていった。


薄暗い部屋には、誰の耳にも届くことのない演奏が響き続ける。


──


「……ピアノ、上手なんだな?」


ダイニングホールの奥、午前の日差しが差し込む窓辺に、大きなグランドピアノが置かれていた。その前に座るアルメリアが、ややぎこちなくも丁寧な指遣いで旋律を奏でる。乾いた空気に潤いを含ませるような音色が、食卓のざわめきの外側で静かに響いていた。


クラージュの控えめな声に、アルメリアは鍵盤から目を離さず、そっと微笑む。


「フフッ、ありがとうございます。孤児院にもピアノはありますが、小さい上に、院長先生のお部屋の中ですのでなかなか……」


一拍置いて、くるりとクラージュに向き直る。

「もしかしてクラージュ様も、お弾きになります?」


クラージュは目を丸くして、両手をぶんぶんと振った。


「い、いやいや!オレはできないよ。それと……その、『様』ってつけるの……まだやるのか?」


アルメリアは小さな声でクスリと笑い、口元を指で押さえる。


「ごめんなさい、慣れませんよね。いつものに戻しましょうか?」


クラージュは一瞬言葉に詰まり、それから小さく首を振った。


「あ、いや……いいんだ。アルメリアがそうしたいなら……」


どこか照れくさそうに目を逸らすその様子に、アルメリアも少し頬を赤らめながら、もう一度礼をする。


「ありがとうございます、クラージュ様。……実は私も恥ずかしいです……けれど、ここにいる間は、少しでもメイドらしくありたいのです。」


「……あ、ああ……」


気の利いた言葉が出てこないクラージュは、そのまま立ち尽くす。アルメリアは再びピアノに向き直り、演奏を再開した。


滑らかに鍵盤をなぞる指先。音楽は次第に深みを増し、ゆっくりとホールの空気を塗り替えていく。アルメリアは鍵盤に手を添えたまま、ゆっくりと語った。


「この楽譜、初めて見ましたが……とてもいい曲ではありません?ピアノの内部に置いてありましたの。誰かが忘れていったのでしょうか……?作曲者も書かれていませんし……」


クラージュは楽譜を凝視する……が、彼にはただ、黒い何かが並んでいるようにしか見えなかった。


「うん……なるほどな。」


「一見冷淡で、つかみどころがない……ですが、何度も旋律を弾いていると、まるで雪の上に描かれた水彩画のように繊細な、深い愛情と……孤独を感じます……」


クラージュはその言葉に真剣に耳を傾けた。だが、彼の頭の中には雪の上の水彩画は浮かばず、繊細な旋律をうまく掴むことができない。


しかし、彼は黙ってうなずいてから、ちょっと見栄を張って言った。


「……ああ。確かに、いい曲だな?」


すると背後から、ひょいと肩に手が乗せられる。


「フッ、具体的にどの辺がだ?」


振り返ると、そこにはアンドリューが立っていた。目元だけで笑っている。


「うわっ!えっと、その……なんというか……あったかいけど、寂しいかんじ?」


一瞬の沈黙のあと、アルメリアがふんわりと微笑んで言う。


「ええ、わたくしもそう感じます。」


クラージュはホッと胸をなでおろし、そっとガッツポーズ。それを見たアンドリューは、鼻を鳴らしてからくるりと踵を返す。


「チッ……今回は一本取られたな。早く来いよ、クラージュ。」


そう言い残して、気楽な足取りで去っていった。


クラージュはアルメリアの横に立ち、彼女の演奏に合わせるように震えるピアノに触れてみる。指先から伝わってくる細やかな振動は、体に到達する前に消えてしまう。しかし、そうしているとその旋律が、少しだけ心に染み入っていくような気がした。

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