052 冒険の終幕
四人は、重く沈んだ空気の中、南側の廊下を静かに進んでいた。
廊下の両脇に並ぶ扉はどれも鍵がかかっていて、中から人の気配は感じられない。窓は塞がれ、灯りの特に乏しいこの通路は、屋敷のどの空間よりも閉ざされた印象を与えていた。
そのまま突き当たりまで進んだ彼らを迎えたのは、無機質な石壁と、その三面を覆い尽くす、いくつかの大きな本棚だった。
「……おかしいな、何もないぞ?」
クラージュがぽつりと呟きながら、肩を竦めて辺りを見回す。
「いや、廊下の奥にこれだけスペースを割いてるんだ。何かあるはずだ。」
アンドリューは眉をひそめながら、壁際に近寄っていく。
本棚は、古びた木製のもので、見た目は屋敷の他の書架と変わらない。クラージュは手当たり次第に背表紙をなぞりながら、「先生は、この中の本のどれかが気になってたのか?」と呟いた。
「こんなところにも本があるのか……」
フィデルは少し安心を取り戻して、いくつかの本を手に取っていた。しかし、何冊か流し読みしたところで、その動きが途中で止まった。
「……あれ?これ……同じ本?」
彼はもう一冊、そしてさらにもう一冊を抜き出して比べる。
表紙、背表紙、厚み──すべてが同じ本が、よく見てみると何冊もある。数百の本を抱えるその本棚は、ほんの数種類の本だけで埋めつくされていた。
「この本棚の本……まったく同じ本が何冊もある……。」
「余った本をここに置いてるのかな?」とジャスティンが言うと、
「いや……同じ本なら、わざわざここまで運んで並べる必要はないだろ?」とアンドリューが即座に否定した。
疑念が強まる中、四人はそれぞれ別の棚を確認し始める。だが、どの棚にもほとんど違いがなく、同じような本が適当に散らばるように置かれているだけだった。
その不自然さに、フィデルはふと気づく。
「これは……本棚を『見せかけ』として置きたいがためだけに、本を適当に並べてるような……。」
その言葉に、空間全体の「意味」が、がらりと変わったような気がした。
しかし、次の瞬間──
ポロロン……と、どこからともなく、微かなピアノの音が聞こえた。
「……今の、聞こえたか?」とクラージュが声を潜めて問う。
ジャスティンは唇を押さえ、無言で頷く。
音は弱く、そして遠い。にもかかわらず、まるで耳元で囁かれるように、鮮明だった。
ポーン……ポロロン……。
鍵盤を、誰かが迷いながら叩いている。そんな印象を受ける、ゆっくりとした音色。それは旋律ではなく、ただ音が連なっているだけだった。まるで、ただ気の赴くままに、音を鳴らしているだけのように。
「……屋敷の中に、ピアノなんてあったか?」アンドリューがぼそりと呟く。
「一階のホールに……」フィデルが言いかけてから、かぶりを振る。「い、いや、そこからは離れすぎている……」
「こんな時間に、誰……?」とジャスティン。
音は止むことなく続いている。ポロ……ポロロン……。時折、間が空く。まるで、誰かが考え込みながら、鍵盤を一つずつ触れているかのように。そのまばらな音は徐々に、一つの旋律を成していくようにも聞こえ始めた。
「……この奥か?」クラージュが呟いた。
「な、何が?」フィデルが眉をひそめる。先程までの落ち着きは完全に失われており、再び手を小刻みに震わせていた。
「この音の出どころだ。」
他の三人は目を見交わす。耳を澄ませてみると、確かに本棚の奥から音が流れてくるように感じる。しかし、目の前に広がっているものは、あくまで本棚──そこから、音が流れてくるはずはなかった。
「ハ、ハハ……ありえないよ、クラージュ。本から音が鳴るはずない。うん……帰ろう、クラージュ。僕たちは疲れてるんだ。明日も大変なんだろう?早く寝よう。」
フィデルはもう限界を迎えていた。今すぐにでも帰ろうと、大きな身振りで来た道を戻るよう諭すことに、全力を注いでいる。
しかしクラージュは、本棚の前から一向に動こうとしない。それどころか、本棚をより詳しく調べ始めた。
「……ん?」
何かに気づいたようにしゃがみ込み、本棚の一角を手で探る。
「なんかこの本棚、デカい割にはグラグラしないか?」
が、次の瞬間──
ポロロロローン!ジャーーーン!!
ピアノの音が急激に大きくなった。まるで迷いがなくなったかのように次々と音が鳴り響き、「こっちに来るな」と言わんばかりの、感情的な演奏が始まる。
「「ギャーーーーッ!!」」
フィデルとジャスティンは一目散に廊下を駆け抜け、部屋へと戻っていった。
流石にまずいと思ったのか、クラージュとアンドリューも目を合わせ、その場を後にすることにした。
そして──誰も居なくなった、二階の南側廊下の最奥。そこにはまだ、姿の見えない誰かの演奏が、絶え間なく響き続けていた。
──
朝の陽が差し込むホールには、焼きたてのパンと温かいスープの香りが漂い、七人の子供たちの賑やかな声が飛び交っていた。
フィデルはスプーンを持つ手をふと止め、あくびを噛み殺すように口元を押さえる。目の下には、わずかながらくっきりとした隈ができていた。
「おはよう、みんな。」
その時、奥の扉から入ってきた低く落ち着いた声が、食堂の空気を一瞬で引き締めた。
「せ、先生……!」
子供たちは一斉に姿勢を正し、声を揃えて挨拶する。ヴェルメイン先生はいつも通りの優雅な足取りで歩み寄り、自分の席に座る。そのテーブルの端の席は奇しくも、フィデルのすぐ側なのだった。
「フィデル……おや、珍しい。なんだか、眠そうな目をしているじゃないか。」
その言葉に、フィデルの手が一瞬止まる。スプーンの先から、スープがぽとりと皿に落ちた。
「あ、えっと、先生……慣れない環境ですから、よく眠れなくて……」
フィデルはなるべく平静を装って答える。しかし声はかすかに震えていた。
「ハハ、そうか。まあ、じきに慣れるさ。」
ヴェルメイン先生は軽く笑いながら頷いた。その表情には、いつもと変わらぬ穏やかさがあった。だが、次の瞬間──
「もしかすると、寝る前に本を読んでいたのかな?一般的には、リラックスできるのかもしれないが……」
先生の声がわずかに低くなったように感じたのは、フィデルの緊張のせいだろうか。
「君の場合、興奮してしまうのではないかい?そうしたら……」
ヴェルメイン先生の目が細くなる。まるで内心の奥を覗くような鋭さだった。
「この屋敷の中を探検する夢でも見てしまって、目が覚めてしまう……なんてことも、あるのかもね。」
──ぞくり。
背筋に冷たいものが走る。
「……っ!?」
フィデルの瞳が見開かれ、口元がわずかに震える。その視線の先で、クラージュが息を飲み、アンドリューが顔を背ける。ジャスティンに至ってはスプーンを落としかけてしまい、慌てて拾っていた。
「ど、どういう……意味ですか、先生……?」
フィデルの声はか細く、喉に何かが詰まったようだった。
しかし、ヴェルメイン先生はただ、ふっと笑った。
「いや、もしかしたらの話さ。フフッ……すまない、分かりづらかったね。気にしないでくれ。」
そして、何も食べないまま立ち上がり、給仕係の一人に何か指示を与えながら、歩き去っていく。
残された四人は、まるで氷の中に閉じ込められたように黙り込み、それぞれの朝食の皿を見つめていた。
まさか、見られていたのか?
それとも……勘づかれているだけ?
ひょっとしたら──すべてはただの夢?
朝の光は確かに暖かかったが、四人の心に差し込んだのは──限りなく冷たい、不明瞭な形をした影だった。




