051 夜の大冒険
夜のヴェルメイン邸は、昼間のあたたかな光が嘘のように、静寂と冷気に包まれていた。磨き上げられた石の床を踏む度に、革靴がほんのかすかに鳴る。廊下の灯りはすでに落とされていた。手元のランタンと、窓から差し込む僅かな月光のみを頼りに進んでいくしかなかった。
「……なんか、昼と夜じゃ、雰囲気が真逆だなこの屋敷……」
先頭を歩くクラージュが苦笑混じりにぼやくと、アンドリューが「ハハ、この彫刻とか、今にも動きそうだもんな」と低く返した。その後ろでは、ジャスティンが手をぎゅっと握りしめて震えている。
「や、やめてアンドリュー!そんなこと言ってたら、本当に動き出すんだよ!?それに、こ、これって……誰かに見つかったら、本当に怒られるやつじゃない……?」
「ああその通りだ、ジャスティン。でも、そういう緊張感がいいんだろ、な?」
クラージュが振り返り、楽しげに笑う。そして、最後尾──フィデルは、無言のまま歩いていた。だが彼の様子は、どこかおかしい。肩に力が入り、目が周囲を泳いでいる。少しの風の音にもびくつき、身体を強張らせていた。
クラージュが気づかぬふりをしながら、こっそりと後ろへ目をやる。
(おいおい……まさか本当にビビってんのか?フィデルって、本当に……?)
クラージュが何か悪戯っぽい考えを浮かべたその時、階段がある場所に辿り着いた。目の前には、一階は続く下りの階段と、三階へ続く上りの階段という、二つの選択肢がある。
「おっ、みんな、どうする?オレは……三階に行ってみたいな。まだ行ったことないだろ?」
「ああ、そうだな。賛成だ。」
「い、いいよ……」
アンドリューとジャスティンは、クラージュの案に賛同した。
「フィデル、お前は?」
「僕は……どちらでも構わないさ。」
「ハハ、なんだよそれ……ん?」
「ど、どうしたの?クラージュ……」
ジャスティンは、急に三階へと続く階段の方に目を凝らし始めたクラージュを、心配そうに見つめる。
「なんかさ、今……あそこで、誰かがこっちを見てなかったか?」
クラージュは、階段の踊り場の方を指差す。
「……冗談だろ、クラージュ。」
「いや、本当に一瞬、見えた気がしたんだ……なあ、誰か一人で、見てくるってのはどうだ?」
その瞬間、全員がクラージュの方を、驚きの表情で見つめた。しかし彼は、最初から誰を行かせるか決めていたかのように、フィデルの目、ただ一点を見ている。
「……クラージュ、どうして僕の方を見るんだい?」
「ハハ、こういう時は一番年長の、お前が適任なんじゃないかなと思ってさ?」
「先に言っておくが、僕は行かない。こういうのは、隊長である君の役目なんじゃないのかい?」
「隊長?そんなの決めてないだろ。ほら、ちょっとそこを覗いてくるだけだ。こういう時に、自分からスッといけるのが、カッコいい年長だと思わないか?」
「……意味が分からない。つまるところ君は、僕に行かせたいだけだろう?」
「フッ……ああ、そうだ。お前に行ってもらいたい。……なあ、オレたちが怒られないように、見守ってくれるんじゃなかったのか?ほら、もしそこに先生か誰かがいて、見つかったら大変だろ?でもお前だけなら、適当に言い訳しとけば怒られない。な?適任だろ?」
「ハァ……」
フィデルは、いくら反論しても無駄だと観念し、階段の前へとゆっくりと足を進める。
「誰もいないに決まってる。本当に誰かいるようなら、この会話は丸聞こえのはずだ。そしたら、もうとっくに降りてきているだろう。……そうさ。そうに決まってる……」
フィデルは、まるで自分に言い聞かせるように呟きながら、ついに一歩、階段の最初の一段を踏みしめた。……ただそこで急に振り返り、他三人の方を見た。
「絶対に、そこにいろ。……逃げたら、明日先生に言いつけるからな。」
「フフッ……分かってるよ。ほら、早く見てこいよ。」
フィデルは前を向いて、再び歩み始める。手すりを掴むその手は、まるで誰かに縋り付くように力が入り、震えていた。
ゆっくりと階段を登っていったフィデルは、ついに踊り場の一歩手前まで辿り着いた。そして意を決し、手すりから身を乗り出して、さらに上へと続く階段の方を確認する。そこには……
「……ほら、誰もいないじゃないか。」
フィデルは、踊り場の上を確認して、そっと息を吐いた。空っぽの階段。薄暗い天井の梁と、かすかな風の音。そこに、クラージュの言う人の気配はなかった。
安堵の色を浮かべながら、彼は踊り場で振り返った。
「ほら、早く来なよ。やっぱり誰も……」
言いかけた言葉が、喉の奥で止まった。
そこにいるはずの三人──クラージュ、アンドリュー、ジャスティン。その姿が、階段の下から消えていた。
「……え?」
フィデルの瞳が見開かれる。一歩、二歩と踊り場から降りていく。まるで足元が崩れ落ちていくような、奇妙な浮遊感があった。名前を呼ぼうとしたが、声が出ない。喉がきゅっと詰まったようだった。
(どこ?どこに行った……?)
気味の悪い焦りが全身に広がっていく。階段を駆け下り、廊下を見渡す。けれど、どこにも三人の姿はない。静寂だけが、フィデルの鼓膜を打った。
「……や、やめてよ……ふざけ……っ」
小さく絞り出すような声を漏らした瞬間だった。
──ぴと、と。
背中に、何かが触れた。
「ひぃ……っ!」
反射的に身体が跳ね上がる。息を飲み、叫び声も出せず、フィデルはその場に崩れ落ちた。仰向けに倒れ込んだ視界の中には……笑いをこらえる人影が立っていた。
「……っはは、はっ、あははっはははははっ!」
クラージュだった。両手を膝につきながら、肩を震わせ、できる限り声を押し殺して笑っていた。その後ろから、ジャスティンとアンドリューも顔を出し、苦笑混じりにフィデルを見下ろしていた。
「もう、最高だったぞ、今の顔!飛び上がって、完全に幽霊に触られたって顔だった!」
「クッ……クラージュ……!」
フィデルは顔を赤くして、震える腕で身体を起こすと、彼に詰め寄った。
「ぼ、僕は……僕は、絶対に逃げるなって言っただろ!ふざけるにも、限度がある……!」
「フフッ……いやごめんな!でも、逃げてはないだろ?下りの階段の方に、隠れてただけだ。フィデル、お前がどんな顔するか見たくてさ。あそこで誰か見てるってのは、嘘だよ。」
クラージュは飄々とした調子で答えると、悪びれる様子もなく肩をすくめた。
「おまえ……っ」
言葉が詰まり、フィデルは悔しさと羞恥心で、拳を握りしめた。
ジャスティンが小声で、「ごめんね……でも、クラージュがどうしてもって言うから……」と呟き、アンドリューも、「まあ、ちょっとした冗談だ。ハハッ……お前の意外な一面が見れたな。」と言い添えた。
フィデルはしばらく唇を噛んだまま、言い返せずにいたが──やがて、ふっと目を伏せ、小さく吐息を漏らした。
「……分かった。でも、次やったら本当に怒るからな……」
その小さな譲歩に、クラージュが満足げに笑う。
「おう、そうこなくっちゃ。ほら、行こうぜ?」
──三階の廊下は、より荘厳な雰囲気の闇に包まれ、しんと静まり返っていた。
ところどころに灯されたランプが、長く伸びた影を床に描き出している。少年たちの足音だけが、薄暗い空間に小さく響いていた。
「……あのさ、ちょっと待って。なんか、声が聞こえる……」
先程とは一転し先頭を歩いていたフィデルが、急に立ち止まり、振り返った。顔色は青ざめ、耳をそばだてている。
「また怖がってんのかよ。今度は幽霊の声でも聞こえたか?」
クラージュがニヤつきながら囁いた。けれどフィデルは真剣な顔で首を振る。
「違う。……人の声だ。小さくだけど、確かに聞こえる。……あそこ、奥の扉のほうからだ。」
全員の視線が、廊下の突き当たりにある重厚な扉へと向けられた。その向こうから、微かに響いてくる声──
「だ、旦那様……こんな感じで、よろしいで、しょうか……?」
「どれ……おお、格段に良くなったな。綺麗じゃないか。」
「あ、ありがとうございます……!エヘヘ……」
フィデルがぎょっとして振り返る。「こ、これは……先生の部屋だ!それとこの声は……リリィか?……そんなことは関係ない。やっぱり戻ろう!探検は、もう十分楽しんだだろう!?僕は怒られたくない!!」
「いや、待て……」クラージュは珍しく真面目な顔をしていた。「これは、ちょっと……気になる……」
クラージュは扉の僅かな隙間から、中の様子を伺おうとする。しかし、重厚な扉の隙間からは、中を覗くことはほとんどできなかった。中で何が起きているのか、目で確かめることは諦めた彼は、そっと耳を当てる……
「ハハ、いいさ。で、どうだい?これで良ければ、明日の朝にでも届けさせよう。昼頃には着く。」
「本当ですか、旦那様!?お、お願いします!!」
「ああ。君の想いには、感動させてもらったよ。」
「え、なに?届ける?誰に?どこに?」ジャスティンが不安そうに呟いた。
「お、おい……クラージュ。お前、言ってたよな?リリィは、先生のお気に入りなんじゃないかって……もしかすると、本当に……」
アンドリューがぼそりと口にすると、クラージュが眉をひそめる。
「いや、分かんねえけど……でも、何か、良い雰囲気じゃね?今の会話、なんか……妙に生々しいっていうか……それに、『旦那様』って……普通は『先生』だろ?」
一同が顔を見合わせたその時──
「さて……もうこんな時間だね。」
「ごめんなさい、旦那様……ここまで丁寧に、教えてくださって……」
「ハハ、いいさリリィ。とても光栄に思っているよ。」
「や、やばい!こっちに来る!」フィデルが悲鳴に近い声で囁く。
「さあ、もう寝なさい。ただ……廊下はもうすっかり暗いだろね。部屋まで送ろうか?」
「え、そ、そんな、そこまで……よろしいの、ですか?」
「ああ。フフ……恥ずかしい話だが、私は昔、夜の廊下で迷子になったことがあってな。それはもう心細いものだぞ?落ち着きを失った状態では、自分の家の中だというのに、今の居場所が掴めなくなってな……」
ギィ……
扉が軋む音とともに、足音が近づいてくる。
「隠れろ!」クラージュが小声で叫ぶ。
四人は散り散りに走り、廊下の彫刻の背後、備え付けのタペストリーの陰、扉の裏、書棚の横──思い思いの場所に身を潜めた。
足音が、すぐそこまで迫ってくる。心臓の鼓動が、耳の中で爆音のように響いた。
クラージュは扉の裏で、肩を押し付けるようにしながら、歯を食いしばっていた。ジャスティンはタペストリーの中で、目をぎゅっと瞑りながら祈るように小さくなっている。アンドリューは彫刻の背に背中を押しつけ、体を硬直させていた。
そしてフィデルは、書棚の影で、小刻みに震えていた。この瞬間はある意味、一人で部屋で待っていた場合よりも、遥かに恐ろしいような気がした。見つかったら、終わり──そう思わずにはいられなかった。
やがて、足音が廊下をゆっくりと進み、彼らの真横を通り過ぎていく。
「……まあいい。ほら、こっちだよ、リリィ。手を出してごらん。」
「はい……!」
声とともに、ふたつの影が、廊下を歩いて行った。
しばらくして、足音が遠ざかり、階段を降りていく音が聞こえた。
完全な静寂が戻る。それから数秒後──
「おい、出ていいぞ……たぶん。」クラージュが囁いた。
一人、また一人と、陰から姿を現す四人。全員、無言のまま顔を見合わせた。
「……なあ。」アンドリューがぽつりと口を開く。「俺たち、見ちゃいけないものを見たんじゃないか?」
「まさか……ヴェルメイン先生とリリィが、そんな……」ジャスティンが顔を赤らめ、目を逸らす。
「いやいや、何か届け物の話だろ?たぶん……」
クラージュの声には、さすがに少しだけ、不安が滲んでいた。
フィデルは……まだ緊張の束縛から解かれていないのか、未だ手が震えていた。
「頼む……見つかってないよな……一瞬、目が合った気がしたぞ……」
「ハハ……大丈夫だって。素通りしてっただろ?さ、先生が三階に戻ってくる前に戻ろうぜ……先生たちは女子部屋の方の廊下に行くだろうから、男子部屋の廊下の方に隠れとけば、やり過ごせるだろ。」
こうして、男子四人の「夜の探検」は、予想外の結末とともに、そっと幕を下ろす……かのように思われた。
──二階、西側の廊下。冷えた空気が静かに漂うその一角に、四人の少年たちは息を潜めて身を寄せていた。
ヴェルメイン先生がリリィを部屋まで送り届け、再び階段の前に戻ってくるのを、四人は物陰から見守っていた。静かに歩を進める先生の背中は、やはりどこか凛としていて、近寄りがたい気配がある。
「……これで、先生は三階に戻るはずだな……」クラージュがぼそりと呟いた。
ヴェルメイン先生は階段の方へと歩いていく。そしてそのまま、階段を登ろうと、足を上げる……が、その瞬間、先生は階段の前で突如として立ち止まり、しばらくの間、まるで何かと葛藤するかのように動かなくなった。それから──意を決したように静かに踵を返し、まるで何かに導かれるように、南側の廊下へと歩き始めた。
「……え?」
ジャスティンの小さな声が漏れる。四人の視線が、一斉にその背中へと吸い寄せられた。
南側の廊下──それは、普段誰も近づかない場所。全ての窓には、なぜか布が貼り付けられており、昼間でさえ薄暗く気味の悪い場所だった。夜となった今では、誰も寄せつけないようなオーラを放っているようにさえ感じられた。
ヴェルメイン先生は重々しい足取りで廊下を進んでいく。しかし途中でまた、ふと立ち止まる。まるで見えない何かに心を引き止められたかのように、じっと廊下の奥を見つめる。
その顔は遠く、誰からもよく見えていなかった。しかしただ、その一瞬だけ──背中に宿る気配が、まるで別人のように感じられた。それは、怒りでもなく、悲しみでもない。何かを思い詰める、極めて人間的な、「弱さ」の気配。
やがて先生は、廊下の奥からそっと視線を逸らし、再び踵を返す。
彼の足音が、廊下に響く。
階段を上り、先生の姿が三階へと消えていった──
……静寂。
「…………なんだったんだ、今のは。」
クラージュがぽつりと呟いた。
四人は物陰からゆっくりと姿を現す。誰もが、先ほどの出来事を飲み込めずにいた。
「どうして……わざわざ南側の廊下に……?」ジャスティンが戸惑いを隠さずに口を開く。
「いや、でも……結局、引き返したんだろ?やっぱり、ただの偶然じゃないか?迷ったとか……」とフィデル。
しかし、アンドリューが首を横に振る。「違うな。あれは迷った動きじゃない。そうだな……言葉にするなら、何かと向き合おうとした顔だった。」
「向き合う……?」フィデルは眉を寄せる。
「分からなかったか?お前は先生のこと、昔から見てきたはずだろ……俺はあんな背中、見たことない。あれは多分、もっと……個人的な何かだ。」
フィデルは口を閉ざし、しばし沈黙した。
そして、クラージュが静かに南側の廊下へと向き直る。
「……みんな、戻るのはやめだ。」
「えっ?」
「最後に、あっちを確かめよう。あの廊下……きっと、何かある。」
その声は、先ほどまでの軽い調子のものではなかった。怖いもの知らずの域を脱した、クラージュの本気の好奇心。それはもう「探検」などではなく、もっと深い何かへの入り口に、足を踏み入れる覚悟の声だった。
しばらく沈黙が流れ──
「……ったく、お前ってやつは……」とアンドリューが肩をすくめ、無言でその後に続く。
ジャスティンも、ぎゅっと拳を握って頷いた。
フィデルだけは、しばらく立ち尽くしていたが……
「……分かったよ。」と一言だけ呟き、みんなの背中を追った。
四人の影が、普段誰も近づかない南の廊下へと、静かに踏み出していく。一筋の月光すら差し込まない、ただ奥へと伸びる闇の中へ──その先にあるものを、確かめるために。




