050 自分だけの居場所
リリィがキッチンの扉を静かに開けると、暖かな明かりの中で、食器を片付ける音が軽やかに響いていた。アルメリアと数人のメイドたちが、楽しげに談笑しながら夕食の後片付けを進めている。その中央にいたロザーナはふと顔を上げ、リリィの姿を見つけた。
「おかえりなさい、リリィ。」
いつも通りの落ち着いた声だったが、その響きにはどこか微かな緊張が混じっていた。彼女は手元の作業を止め、音を立てぬよう静かにこちらへ歩み寄る。
「ご主人様とのお食事……どうだったかしら?」
ロザーナは問いながら、少しだけ腰を屈めてリリィの表情を探るように覗き込んだ。声は穏やかで、微笑みも丁寧に整えられていたが、その奥には目に見えぬ何かが揺れていた。
リリィは頬を淡く染めながら、小さくうなずいた。
「すごく……緊張しました。でも……先生、とても優しくしてくださいました……」
その言葉に、ロザーナは安堵した。最初こそ、彼女はウキウキしながらリリィを執務室に送り込んだのだ。中で繰り広げられるであろう、甘酸っぱい会話を想像しながら、ゆっくりとその場を後にした。しかし、キッチンで余った食材を使って簡単な料理を作り、一人で食べているうちに、妙な焦燥に駆られた。それは、リリィがご主人様に、何か失礼なことをしていないだろうかという不安……ただそれだけではなかった。自分でもよく分からない、何か得体の知れない胸の痛みを伴っていた。
「そう……良かったわ。失礼のないようにできたのなら……」
大きなトラブルもなく、リリィは戻ってきた。食器は整然とトレーの上に積まれていて、服装の乱れもない。不安は晴れた……はずだった。ただ、それでもまだ、胸の奥に微かな痛みが走っているのだ。
その原因を探るように、食器に目を凝らす。ソースで汚れているはずのメインディッシュの皿は、まるで洗った後かのように、白く輝いている。きっとご主人様が、私と二人きりのディナーの時にしかしない食べ方を、リリィに教えたのだろう。パンで皿に付いたソースを拭い取る……それは、貴族としては控えるべき、行儀の良くない食べ方。ただこうすることによって、皿洗いの負担を減らすことができる。いつも、私が皿洗いを早く終えられるようにと気遣い、汚れを拭き取ってくれているのだ。そもそも、ご主人様がこんな食べ方をするということは、自分しか知らなかった事実だろう。よく知っている──いや、知り尽くしている、その「優しさ」。
「ロザーナ……様?」
ご主人様は、誰にでも分け隔てなく、優しく誠実に接する。それは、仕える者として誇らしいほどのものだ。リリィは、ご主人様が何よりも大切になさっている、孤児院の子。優しく接するのは、至極当然のこと。しかし今はその優しさが、なぜだか……怖い。
「……あら、ごめんなさいね。……お皿、とても綺麗に片付けられたわね!」
それでもロザーナは微笑みを崩さなかった。むしろ、ゆっくりと目を細めて、落ち着いて言葉をかける。その表情に曇りはない。
リリィは嬉しそうに続けた。
「ありがとうございます……!あっ、あと、それと……先生が、『また来た時は給仕の練習をしよう』って、言ってくださいました!」
一瞬、ロザーナの目が見開いた。拭いていた銀のカトラリーが、指の中で冷たく沈黙する。
二人きりのディナーのお相手。それは、ずっと自分の役目だった──特別な時間、特別な距離。最初のうちは、他のメイド達にも任せるようにしていた。しかし、貴族である主人と二人きりでの食事は恐れ多かったのだろうか、次第に皆、遠慮するようになった。今ではそれはほとんど、自分だけの役目。敬愛してやまないご主人様との、二人きりでの食事の時間。それは、最近ではもう既に、一番の楽しみになっていた。ご主人様も、ほとんど私しか来ないことを許してくださっている。
しかし今、自分だけの居場所のように感じていたその役目が、少しずつ誰かに譲られていってしまっている。ディナーのお相手が増えること……そもそもこの時間は、私だけのために設けられたものではない。これは本来、喜ぶべきことなのだ。それは分かっている。
「……そう。練習、ね。」
口元は変わらぬ笑みを浮かべたまま、再び静かに動き出す。けれどその笑みは、心の内側と反比例するように、少し静かすぎた。
「それは……とても光栄なことよ?ご主人様にそう言っていただけるなんて。わたくしは……ご主人様に直接お給仕させていただくのを、以前のメイド長に認めてもらうまでに……2〜3年はかかったわ。やっぱりあなたは、見込みがあるわね。」
その言葉は、嘘ではなかった。リリィの成長は嬉しい。この子がメイドとして輝いていくことは、確かに望んでいたことだ。けれど、その誇らしさの裏側に、どうしようもなくよぎる想いがあった。
──その場所は、ずっと自分だけのものだったのに。
瞬間、ロザーナは自分のその心……痛みの正体に気づき、はっと息をのんだ。そして、小さく胸の奥で呟いた。
(そんな感情を、抱いちゃいけない……)
リリィの笑顔に罪はない。この子は一生懸命で、純粋で、何も悪くなんかない──。
「……ふふ、次はもっと堂々とお運びできるように、私も協力するわ。食事のマナーも、教えてあげるわね。しっかりお給仕するのよ?」
ロザーナはそう言って、そっとリリィの頭に手を添えた。その手のひらには、温もりと、ほんのわずかな痛みが重なっていた。
「……はい。ありがとうございます。では、食器……洗いますね?」
「……待ちなさい、リリィ。」
「は、はい?」
「今日はもう十分、働いてくれたわ。ここに来てまだ初日だというのに、こんなにも手伝わせてしまって申し訳ないわ。そろそろ疲れたでしょう。部屋に戻っていいわよ?お風呂の用意もできているわ。」
「で、でも、まだこのお皿が……」
「休むのもメイドの仕事のうちよ?疲れた顔でご主人様の前に立つだなんて、みっともないでしょう?さあ、それはもう置いて、戻りなさい。カリタスちゃんが待ってると思うわよ?……アルメリア、あなたもよ!」
「……わかりました……」
──
屋敷の誰もが寝静まった頃。男子部屋には、慣れない環境でのワクワクと、日中の緊張が解けた安堵とが、入り混じったような賑やかさがあった。クラージュがベッドに寝転びながら、両腕を伸ばして大きくあくびをすると、部屋の中心で談笑していたアンドリューとジャスティンもつられて笑う。クラージュは、アルメリアの手料理を食べられたことで、体力的にも精神的にも、完全に回復しているようだった。
「なあ、やっぱりこういう場所に来たら、することは一つだろ?」
クラージュが上半身を起こして、にやりと悪戯っぽく笑った。アンドリューは即座に怪訝そうな顔になる。
「……冒険か?女子の部屋に行きたいだけだろ。やめとけ。今度こそ先生に追い出されるぞ。」
「いやいや、それはもういいって。オレがしたいのは、もっと刺激的な冒険だ。みんなもう、気になって仕方がないんじゃないか?」
クラージュの目が悪戯の光を宿して、部屋の全員を見回す。その表情に、ジャスティンがごくりと唾を飲み、アンドリューがさらに眉をひそめる。
「……何をする気だよ。」
「目指す場所はただ一つ……そう。フリーシアの部屋だよ。」
その名が出た瞬間、空気がぴたりと止まった。一瞬の沈黙の後、クラージュは声をひそめて言葉を続ける。
「ほら、みんな気になってるだろ?あいつ、女子部屋とは別なんだぜ?別の部屋に一人で住んでるってことは……もしかして超高級品とかに囲まれてるんじゃねーか?宝石とかさ。」
「……それ、絶対やめたほうがいいと思う。」
不意に、低く冷静な声でフィデルが口を挟む。彼はベッドの上に静かに腰を下ろしたまま、手のひらを組んでいた。
「僕でさえ、あの子のことはほとんど知らない。顔をたまに見るくらいだ。本当に人と会うのが苦手なんだと思う。だから……そっとしてあげたほうがいい。」
だがクラージュは、手をひらひらと振って笑い飛ばした。
「部屋の中をちょっと見るだけだって!すぐに退散すれば問題ないだろ?……まあそもそも、部屋が見つかるかどうかも怪しいけどな。フリーシアの部屋は、もし見つけられたら嬉しいってだけで……オレはただ、冒険を楽しみたいだけだ。こんなデカい屋敷を探検できることなんて、そう何度もあるわけじゃないだろ?」
そう言うと、クラージュはベッドから降り、扉の前で仁王立ちする。
「さあ、この広大な屋敷の、夜の冒険に行きたい奴はいないか?」
……ただ、他の男子達の反応は冷たいものだった。アンドリューは「疲れたからやめておく」と言い、ジャスティンも、「行きたいけど……夜は怖いから……」と言い、ベッドから降りようとしなかった。フィデルは、冒険には最初から興味がないとでも言うように、本へと視線を戻している。
クラージュは流石にショックを受けたようだった。しかし、それでも諦めようとはしなかった。
「ったく……またこの流れかよ。お前ら、もしかして先生にビビってんのか?昼の時は、たまたまバレただけだ。今は……」
と言って、勢いよく部屋の扉を開け放った。
「ほら、いない。な?」
辺りは静まり返っており、廊下に人の気配はなかった。クラージュは自信満々に振り返る。
「先生は忙しいんだよ。ずっと俺らを見張ってる暇なんて、あるわけないだろ?」
すると、クラージュの言葉に揺さぶられ、好奇心に耐えられなくなったジャスティンが、ついに名乗りを挙げた。
「ぼ、ぼく……やっぱり行く!」
ジャスティンが勢いよく手を挙げ、その勢いに任せるようにクラージュの元へと駆け寄っていく。クラージュは歓声を上げて、彼の肩を叩いた。
「さっすがジャスティン、最高だな!お前は、そこにいる腰抜けな奴らとは違うよな?」
「……誰が腰抜けだって?」
アンドリューがベッドの上から鼻を鳴らしながら立ち上がった。
「チッ……つまんねぇこと言いやがって。しょうがねぇ、行ってやるよ。」
クラージュの笑みがますます大きくなる。
そして、最後の一人──未だベッドの上から動こうとしない、フィデルに目を向けた。
「フッ、フィデル。お前一人だけ、ここに残るんだな?真っ暗な部屋で、誰もいない中で?」
「……問題ないよ。君たちだけで行けばいいさ。」
フィデルは視線を下げたまま、小さく答える。しかしその声は、わずかに震えていた。それを聞き逃さなかったクラージュは、すかさずニヤリと笑う。
「お前、声が震えてるぞ?さては……ここに一人で残るのが、怖いんだろ?」
その言葉に、フィデルの指がわずかに動く。そして次の瞬間、彼は黙って立ち上がり、クラージュの前に歩み寄った。
「……分かった。行こう。君たちが何かしでかさないように、見張る必要があるからね。」
「よっしゃあ!全員そろったな!」
こうしてついに男子全員が、夜の冒険へと踏み出すことになった。アンドリューが懐中ランタンを一本手に取る。ジャスティンはその後ろにぴったりとくっついていた。そしてクラージュは、暗い廊下へと向き直り、静かに宣言する。
「じゃあ……出発だ。」
四人の少年たちは、夜の屋敷に足音を忍ばせながら、そっと歩き出す。広大で静まり返ったヴェルメイン邸の中、闇と静寂が彼らを包み込んでいった。
──その先に待つのが、ただの探検か、それとも別の何かなのかは、まだ誰も知らなかった。




