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【第一章完結】名もなき森の後砦   作者: フリィ
第二章 籠中の小鳥、夢眠る居城
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050 自分だけの居場所

リリィがキッチンの扉を静かに開けると、暖かな明かりの中で、食器を片付ける音が軽やかに響いていた。アルメリアと数人のメイドたちが、楽しげに談笑しながら夕食の後片付けを進めている。その中央にいたロザーナはふと顔を上げ、リリィの姿を見つけた。


「おかえりなさい、リリィ。」


いつも通りの落ち着いた声だったが、その響きにはどこか微かな緊張が混じっていた。彼女は手元の作業を止め、音を立てぬよう静かにこちらへ歩み寄る。


「ご主人様とのお食事……どうだったかしら?」


ロザーナは問いながら、少しだけ腰を屈めてリリィの表情を探るように覗き込んだ。声は穏やかで、微笑みも丁寧に整えられていたが、その奥には目に見えぬ何かが揺れていた。


リリィは頬を淡く染めながら、小さくうなずいた。


「すごく……緊張しました。でも……先生、とても優しくしてくださいました……」


その言葉に、ロザーナは安堵した。最初こそ、彼女はウキウキしながらリリィを執務室に送り込んだのだ。中で繰り広げられるであろう、甘酸っぱい会話を想像しながら、ゆっくりとその場を後にした。しかし、キッチンで余った食材を使って簡単な料理を作り、一人で食べているうちに、妙な焦燥に駆られた。それは、リリィがご主人様に、何か失礼なことをしていないだろうかという不安……ただそれだけではなかった。自分でもよく分からない、何か得体の知れない胸の痛みを伴っていた。


「そう……良かったわ。失礼のないようにできたのなら……」


大きなトラブルもなく、リリィは戻ってきた。食器は整然とトレーの上に積まれていて、服装の乱れもない。不安は晴れた……はずだった。ただ、それでもまだ、胸の奥に微かな痛みが走っているのだ。


その原因を探るように、食器に目を凝らす。ソースで汚れているはずのメインディッシュの皿は、まるで洗った後かのように、白く輝いている。きっとご主人様が、私と二人きりのディナーの時にしかしない食べ方を、リリィに教えたのだろう。パンで皿に付いたソースを拭い取る……それは、貴族としては控えるべき、行儀の良くない食べ方。ただこうすることによって、皿洗いの負担を減らすことができる。いつも、私が皿洗いを早く終えられるようにと気遣い、汚れを拭き取ってくれているのだ。そもそも、ご主人様がこんな食べ方をするということは、自分しか知らなかった事実だろう。よく知っている──いや、知り尽くしている、その「優しさ」。


「ロザーナ……様?」


ご主人様は、誰にでも分け隔てなく、優しく誠実に接する。それは、仕える者として誇らしいほどのものだ。リリィは、ご主人様が何よりも大切になさっている、孤児院の子。優しく接するのは、至極当然のこと。しかし今はその優しさが、なぜだか……怖い。


「……あら、ごめんなさいね。……お皿、とても綺麗に片付けられたわね!」


それでもロザーナは微笑みを崩さなかった。むしろ、ゆっくりと目を細めて、落ち着いて言葉をかける。その表情に曇りはない。


リリィは嬉しそうに続けた。


「ありがとうございます……!あっ、あと、それと……先生が、『また来た時は給仕の練習をしよう』って、言ってくださいました!」


一瞬、ロザーナの目が見開いた。拭いていた銀のカトラリーが、指の中で冷たく沈黙する。


二人きりのディナーのお相手。それは、ずっと自分の役目だった──特別な時間、特別な距離。最初のうちは、他のメイド達にも任せるようにしていた。しかし、貴族である主人と二人きりでの食事は恐れ多かったのだろうか、次第に皆、遠慮するようになった。今ではそれはほとんど、自分だけの役目。敬愛してやまないご主人様との、二人きりでの食事の時間。それは、最近ではもう既に、一番の楽しみになっていた。ご主人様も、ほとんど私しか来ないことを許してくださっている。


しかし今、自分だけの居場所のように感じていたその役目が、少しずつ誰かに譲られていってしまっている。ディナーのお相手が増えること……そもそもこの時間は、私だけのために設けられたものではない。これは本来、喜ぶべきことなのだ。それは分かっている。


「……そう。練習、ね。」


口元は変わらぬ笑みを浮かべたまま、再び静かに動き出す。けれどその笑みは、心の内側と反比例するように、少し静かすぎた。


「それは……とても光栄なことよ?ご主人様にそう言っていただけるなんて。わたくしは……ご主人様に直接お給仕させていただくのを、以前のメイド長に認めてもらうまでに……2〜3年はかかったわ。やっぱりあなたは、見込みがあるわね。」


その言葉は、嘘ではなかった。リリィの成長は嬉しい。この子がメイドとして輝いていくことは、確かに望んでいたことだ。けれど、その誇らしさの裏側に、どうしようもなくよぎる想いがあった。


──その場所は、ずっと自分だけのものだったのに。


瞬間、ロザーナは自分のその心……痛みの正体に気づき、はっと息をのんだ。そして、小さく胸の奥で呟いた。


(そんな感情を、抱いちゃいけない……)


リリィの笑顔に罪はない。この子は一生懸命で、純粋で、何も悪くなんかない──。


「……ふふ、次はもっと堂々とお運びできるように、私も協力するわ。食事のマナーも、教えてあげるわね。しっかりお給仕するのよ?」


ロザーナはそう言って、そっとリリィの頭に手を添えた。その手のひらには、温もりと、ほんのわずかな痛みが重なっていた。


「……はい。ありがとうございます。では、食器……洗いますね?」


「……待ちなさい、リリィ。」


「は、はい?」


「今日はもう十分、働いてくれたわ。ここに来てまだ初日だというのに、こんなにも手伝わせてしまって申し訳ないわ。そろそろ疲れたでしょう。部屋に戻っていいわよ?お風呂の用意もできているわ。」


「で、でも、まだこのお皿が……」


「休むのもメイドの仕事のうちよ?疲れた顔でご主人様の前に立つだなんて、みっともないでしょう?さあ、それはもう置いて、戻りなさい。カリタスちゃんが待ってると思うわよ?……アルメリア、あなたもよ!」


「……わかりました……」


──


屋敷の誰もが寝静まった頃。男子部屋には、慣れない環境でのワクワクと、日中の緊張が解けた安堵とが、入り混じったような賑やかさがあった。クラージュがベッドに寝転びながら、両腕を伸ばして大きくあくびをすると、部屋の中心で談笑していたアンドリューとジャスティンもつられて笑う。クラージュは、アルメリアの手料理を食べられたことで、体力的にも精神的にも、完全に回復しているようだった。


「なあ、やっぱりこういう場所に来たら、することは一つだろ?」


クラージュが上半身を起こして、にやりと悪戯っぽく笑った。アンドリューは即座に怪訝そうな顔になる。


「……冒険か?女子の部屋に行きたいだけだろ。やめとけ。今度こそ先生に追い出されるぞ。」


「いやいや、それはもういいって。オレがしたいのは、もっと刺激的な冒険だ。みんなもう、気になって仕方がないんじゃないか?」


クラージュの目が悪戯の光を宿して、部屋の全員を見回す。その表情に、ジャスティンがごくりと唾を飲み、アンドリューがさらに眉をひそめる。


「……何をする気だよ。」


「目指す場所はただ一つ……そう。フリーシアの部屋だよ。」


その名が出た瞬間、空気がぴたりと止まった。一瞬の沈黙の後、クラージュは声をひそめて言葉を続ける。


「ほら、みんな気になってるだろ?あいつ、女子部屋とは別なんだぜ?別の部屋に一人で住んでるってことは……もしかして超高級品とかに囲まれてるんじゃねーか?宝石とかさ。」


「……それ、絶対やめたほうがいいと思う。」


不意に、低く冷静な声でフィデルが口を挟む。彼はベッドの上に静かに腰を下ろしたまま、手のひらを組んでいた。


「僕でさえ、あの子のことはほとんど知らない。顔をたまに見るくらいだ。本当に人と会うのが苦手なんだと思う。だから……そっとしてあげたほうがいい。」


だがクラージュは、手をひらひらと振って笑い飛ばした。


「部屋の中をちょっと見るだけだって!すぐに退散すれば問題ないだろ?……まあそもそも、部屋が見つかるかどうかも怪しいけどな。フリーシアの部屋は、もし見つけられたら嬉しいってだけで……オレはただ、冒険を楽しみたいだけだ。こんなデカい屋敷を探検できることなんて、そう何度もあるわけじゃないだろ?」


そう言うと、クラージュはベッドから降り、扉の前で仁王立ちする。


「さあ、この広大な屋敷の、夜の冒険に行きたい奴はいないか?」


……ただ、他の男子達の反応は冷たいものだった。アンドリューは「疲れたからやめておく」と言い、ジャスティンも、「行きたいけど……夜は怖いから……」と言い、ベッドから降りようとしなかった。フィデルは、冒険には最初から興味がないとでも言うように、本へと視線を戻している。


クラージュは流石にショックを受けたようだった。しかし、それでも諦めようとはしなかった。


「ったく……またこの流れかよ。お前ら、もしかして先生にビビってんのか?昼の時は、たまたまバレただけだ。今は……」


と言って、勢いよく部屋の扉を開け放った。


「ほら、いない。な?」


辺りは静まり返っており、廊下に人の気配はなかった。クラージュは自信満々に振り返る。


「先生は忙しいんだよ。ずっと俺らを見張ってる暇なんて、あるわけないだろ?」


すると、クラージュの言葉に揺さぶられ、好奇心に耐えられなくなったジャスティンが、ついに名乗りを挙げた。


「ぼ、ぼく……やっぱり行く!」


ジャスティンが勢いよく手を挙げ、その勢いに任せるようにクラージュの元へと駆け寄っていく。クラージュは歓声を上げて、彼の肩を叩いた。


「さっすがジャスティン、最高だな!お前は、そこにいる腰抜けな奴らとは違うよな?」


「……誰が腰抜けだって?」


アンドリューがベッドの上から鼻を鳴らしながら立ち上がった。


「チッ……つまんねぇこと言いやがって。しょうがねぇ、行ってやるよ。」


クラージュの笑みがますます大きくなる。

そして、最後の一人──未だベッドの上から動こうとしない、フィデルに目を向けた。


「フッ、フィデル。お前一人だけ、ここに残るんだな?真っ暗な部屋で、誰もいない中で?」


「……問題ないよ。君たちだけで行けばいいさ。」


フィデルは視線を下げたまま、小さく答える。しかしその声は、わずかに震えていた。それを聞き逃さなかったクラージュは、すかさずニヤリと笑う。


「お前、声が震えてるぞ?さては……ここに一人で残るのが、怖いんだろ?」


その言葉に、フィデルの指がわずかに動く。そして次の瞬間、彼は黙って立ち上がり、クラージュの前に歩み寄った。


「……分かった。行こう。君たちが何かしでかさないように、見張る必要があるからね。」


「よっしゃあ!全員そろったな!」


こうしてついに男子全員が、夜の冒険へと踏み出すことになった。アンドリューが懐中ランタンを一本手に取る。ジャスティンはその後ろにぴったりとくっついていた。そしてクラージュは、暗い廊下へと向き直り、静かに宣言する。


「じゃあ……出発だ。」


四人の少年たちは、夜の屋敷に足音を忍ばせながら、そっと歩き出す。広大で静まり返ったヴェルメイン邸の中、闇と静寂が彼らを包み込んでいった。


──その先に待つのが、ただの探検か、それとも別の何かなのかは、まだ誰も知らなかった。

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