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【第一章完結】名もなき森の後砦   作者: フリィ
第二章 籠中の小鳥、夢眠る居城
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049 ひと匙のぬくもり

カタン、と小さな音を立てて、扉が閉まる。


リリィはぴくりと肩を震わせた。部屋に残されたのは自分と、旦那様、ただ二人。


深い沈黙が流れる中、蝋燭の炎が静かに揺れていた。リリィは何をどうすればいいのか分からず、膝の上で手をぎゅっと握りしめたまま、目線だけを動かしていた。ナイフとフォークの位置を見て、次に目を落とした皿の上の料理を見て、次に先生の顔を見てしまいそうになって、それを慌てて避けて。


(だめ……わたし、何もできない……)


「リリィ、どうしたんだい?」


やわらかい声が、静けさを優しく破る。リリィは肩をすくめ、反射的に答えた。


「……ご、ごめんなさい……!」


食事に手をつけられないこと、何も話せていないこと、自分がここにいていいのかさえ分からない、その全部が申し訳なくて、咄嗟にそう言っていた。


だだ、ヴェルメイン先生は、そんなリリィを叱るでも責めるでもなく、ただふっと微笑む。


「……隣に座ってもいいかい?」


「えっ……?」


あまりに予想外の言葉に、リリィは声を失った。


驚いて顔を上げたときには、すでに先生は自ら椅子を持ち上げて、リリィのすぐ隣に席を移していた。椅子の脚が床に擦れる音が部屋に響き、リリィは自分の心臓の音まで聞こえてしまいそうだった。


「さあ、いただこうか。」


ヴェルメイン先生はそう言って、何事もなかったかのように食事を取り始めた。フォークを軽やかに動かし、静かに料理を口に運ぶ。


一方で、リリィはとなりで、顔を真っ赤にしながら固まっていた。


近い。あまりにも近すぎる。肩が触れそうで、息づかいまで聞こえてしまいそうで──何より、香りがする。インクと紙、そして少しの紅茶。それは、旦那様の香り。


ぎゅうっと、心臓がつままれたように鳴る。


しかしその隣で、ヴェルメイン先生はまるで空気のように自然で、当たり前のようにその場に座っていた。だからこそ、余計にリリィは自分のぎこちなさが恥ずかしくてたまらなかった。


けれども、その隣でふと、先生が小さく笑った。


「そういえば、こうして誰かと二人で食べるのは、久しぶりだな。」


「……え……?」


「孤児院にいる時は、みんなと一緒に食べているだろう?それに、ここにいる時もね……極力みんなと、あのホールで食べようと思っているんだ。ただ、どうしても忙しい時だけ、ここで食べるんだけどね。しかし……そういう時はほとんど、ロザーナが運んできてくれるんだ。ハハ……みんな遠慮してしまうのかな。」


その声は穏やかで、どこまでも静かで、優しい。旦那様は、自分の緊張を和らげようと、気遣ってくれているのかもしれない。


リリィはそう思った瞬間、胸がいっぱいになって、ようやく震える手でフォークを取った。


「……いただきます……」


囁くように呟いて、リリィはようやく、初めての一口を口に運んだ。ほのかに甘いキャロットグラッセの味が広がっていく。


──おいしい。何の変哲もないニンジンなのに。こんなにも心が温まるものだろうか。


隣を見ると、先生が微笑みながら自分を見ていた。


「美味しいかい?」


彼の声が、そっとリリィの耳に届く。リリィは顔を上げることができず、俯いたまま、けれども静かに微笑んで答える。


「……美味しいです。」


「それは良かった。」


先生はほっとしたように笑みを浮かべ、再び自分の皿に向き直って食事を続けた。ナイフとフォークが滑らかに動き、静かな時間が流れる。


けれども──


リリィの肩には、まだほんのわずかな強ばりが残っていた。姿勢も硬く、背筋はまるで糸で吊るされた人形のように、真っ直ぐになっている。旦那様と自分、二人きり。その変わりようのない事実が、どうしようもなく心を締めつけてくる。


しかし、先生はそんなリリィの様子を見て軽く息を漏らし、思わず笑ってしまっていた。


「ハハ……リリィ、力を抜いて。そんなに堅くならなくていいんだよ。マナーも、気にしなくていい。」


「……は、はい……」


リリィは一呼吸、ふかく息を吸い込んで──すう……と吐き出す。


その後は少しだけ、ほんの少しだけ、肩の力を抜くことができた。そして、ナイフとフォークを手に取り、再び料理を口に運ぶ。


食材の柔らかな歯ごたえと、味の奥行きが広がるたびに、少しずつ緊張も和らいでいく。


そんな様子でしばらく食事を進めていた時、旦那様はふと問いかけてきた。


「孤児院での生活には、慣れたかい?まあ……ハハ。たった一週間ほどで、こっちに来てしまったがな。」


リリィは、そっと視線を上げて、またすぐに落とす。


「……は、はい。皆さん、とても優しくしてくださって……」


けれどその言葉のあと、リリィの声が少しだけ沈んだ。ふと、胸の奥から浮かび上がる暗い記憶が、影を落とす。


「……本当に……ありがとうございます……」


そう呟いた声は、小さく震えていた。


その瞬間、ヴェルメイン先生の手が、そっとリリィの背に触れる。温かく、柔らかく、そして決して急かさない、静かな手。


「……すまなかったね。昔のことを、思い出させてしまったかい?」


リリィは、何も言えずに首を振った。けれどその目には、うっすらと涙が浮かんでいた。


──泣きたくなるのだ。背中に添えられたその手は、まるで羽を休める蝶を包み込むように、静かに自分の心に触れる。こんなにも温かく、優しい手なのに。どうしてか、泣きたくなる。


「いえ……」


リリィは、言葉を絞り出すように答える。……泣きたくない。今は、笑顔でいたい。


先生は、リリィの背に手を置いたまま、ゆっくりと口を開いた。


「あそこは、本当にいい場所だ。……そうだ。お詫びとしては足りないだろうが……少し、私の昔の話を聞いてくれないか。」


リリィはそっとナプキンで涙を拭い、言葉を遮らぬよう、静かに先生を見つめる。


「もちろんです。」


すると、懐かしむような、遠くを見るような目で、先生は語り始める。


「ありがとう。……あれは、私が十五の頃だったよ。私は当時、朝から晩まで本と机に縛りつけられるような日々を送っていた。……誰かに強いられたわけじゃない。貴族として、自分でそう在ろうとしていたんだ。けれど……いつからか、窓の外の景色ばかりが気になるようになってね。」


先生の声は、まるで書物をめくるように穏やかで、そして少しだけ寂しげだった。


「ある日、思い立ったように……誰にも、何も言わずに屋敷を出た。どこかへ行こうと決めたわけではなかった。ただ、何もかもから離れたくなった。……だけど、気づけば日は沈み、帰り道すら分からなくなっていた。」


リリィは膝上で手を握り締め、息を呑むように続きを待った。


「その時、森の入り口に続く小道を見つけたんだ。それが、どこかで見たことがあるような気がして──それで思い出したんだ。……この間、院長先生のお部屋に集まった時のこと、覚えているかな。私の家の門前に、一人の幼子が捨てられていたことがあってね。」


「……フィデルさん、ですか?」


リリィがそっと口にすると、先生は小さく頷いた。


「ああ、彼がまだ赤ん坊だった頃……生まれてまもなくの時期、母上が彼をしばらくの間引き取っていた。だが、その後は正式に『ウッドワードの砦』という新設の孤児院に預けることになって……そのとき私も母上に付き添って、馬車で彼を連れていった。」


静かな蝋燭の灯りの中、先生の記憶が、まるで一本の映画のように描かれていく。


「そして──そうだ。彼を孤児院へと連れていった時に通った道が、まさしく目の前に広がっていた。森の奥へと続く、小さな道。何かに導かれるように、私はそこを歩いたんだ。」


木の葉の揺れる音すら聞こえるような静けさが、部屋を包む。


「森を抜けた先に、小さな家──今の孤児院とはまるで違う、ただの古びた一軒家のような建物があった。私はその門をくぐり、玄関の扉を叩いた。」


「……そして?」


「そして出てきたのが、一人の老人だった。……ウッドワード先生。孤児院の名にもなっている、院長先生だよ。」


リリィは目を見開く。


「あの頃は彼一人で、孤児院の全てを担っていたんだ。彼は夜の訪問客に警戒する様子もなく、私の顔を見て……『おや、道に迷ったのかい?』とだけ言った。」


ヴェルメイン先生は肩を竦めるように笑う。


「私は……本当のことは言えなかった。私が貴族と知ってしまえば、特別な待遇をしようとするだろう。ただ私は……それが嫌だった。身分も名前も偽った。ただの迷子として、一晩だけ泊めてもらったんだ。」


リリィは、旦那様が厚遇されるのを嫌う理由が何となく分かった。彼は貴族という身分を、少しの間でも離れたかったのだろう。……自分が、奴隷という身分から解放されたいと、願っていたように。


「中には小さな丸いテーブルがあって、そこで数人の子どもたちが食事をしていた。……その中には、精悍な顔つきの少年に成長した、フィデルがいた。……ただまあ、私のことは覚えていない様子だったけれどね。それと、アルメリアやオルフェに……君の担任の、ヴィオレッタもいたな。」


リリィは、ほんのり目を潤ませながら尋ねる。


「……ヴィオレッタ先生も……?こ、孤児院で暮らしていたのですか?」


「ああ、そうだ。まだみんな、小さくて……無邪気に、私を不思議そうに見ていた。」


先生はふと笑みをこぼす。


「誰も、私を無理に敬わない。かと言って、蔑んだりもしない。ただ温かく、一人の仲間として、受け入れてくれた。そうやって名前や肩書きを忘れて過ごしたあの時間は、実に自由だった。……それが、私があの場所を好きになった最初の理由さ。」


言葉の終わりとともに、ふわりと優しい沈黙が訪れる。リリィはそっと目を伏せて、胸に手を当てた。


──そんな時間を、先生が過ごしていたなんて。


まるで普通の少年のように迷い、やがて自分を見つけた場所。そんな大切な思い出を、こうして自分に話してくれたことの喜びが、リリィの胸に深く沁み入った。


「すまないね、長々と語ってしまって。君たちが心を込めて作ってくれたディナーが冷めてしまう。」


そう言って、ヴェルメイン先生は少し照れくさそうに笑い、フォークを持ち直す。


リリィは、小さく首を横に振って、「いえ……とても、素敵なお話でした。」と静かに答えた。少し冷めてしまった料理にも、まだ心地よい温かさが宿っているように感じられるのはきっと、この優しい時間のおかげだ。


「この話の続きは、また今度にしよう。」


先生のその一言に、リリィは自然と顔を上げた。


──また、今度。


その言葉は鍵のように、まるで心の奥の小さな宝箱を、カチリと音を立てて閉じたように感じた。


また開く時が楽しみになる。孤児院や、この屋敷で過ごす全ての瞬間が、まるでキラキラと輝く宝石のようだ。その中でも、旦那様との時間、旦那様の大切な思い出は、一つでも多く、自分の宝箱にしまっておきたい。


二人はそれから、しばらく黙って食事を進めた。けれどその沈黙は、もう最初のように堅苦しいものではなかった。フォークとナイフの音。時折ふっと笑い合うような、ささやかな短い会話。窓の外では、夜の風が静かに木々を揺らしている。


リリィは、緊張が少しずつほぐれていくのを感じながら、その時初めて、「今自分は、旦那様と食事をしている」と実感した。優しく迎え入れられ、同じテーブルを囲んでいる──その事実が、今は心を柔らかく温めてくれる。


やがて、食事が終わりに差し掛かる頃、先生はテーブルの上の小さな水差しを持ち上げると、グラスに水を注いでから、ふと口を開いた。


「……君とこうして話せるのは、なかなか特別な時間だな。」


その言葉に、リリィは一瞬、何かを聞き間違えたかと思った。思わず目を見開いて、先生の顔をじっと見つめる。


「私の時間は、どうしても様々なことで埋まってしまうからね……。でも、こうして静かに誰かと食卓を囲むと……何というかな……。自分の人間らしさが、戻っていくような気がするよ。特に……君といるとね。」


そう言って、先生は最後に一口、水を飲み干した。


「フゥ……ありがとう、リリィ。君が今日、来てくれてよかった。」


リリィは何も言えなくなった。返事をしようと口を開いたが、言葉にならない。代わりに、小さな息を呑み、ほんのり赤らむ顔を伏せるしかなかった。


そして、立ち上がった先生が、ふといたずらっぽい笑みを浮かべて言った。


「そうだね。今度来るときは、もっと練習になるように……メイドらしく、給仕してもらおうか?褒美も、用意しておこう。」


「えっ……!」


リリィの顔が真っ赤になり、反射的に目を見開く。先生はその反応に満足したように目を細め、「まあ、無理にとは言わないよ」とだけ言い残して、書類の山へと戻っていった。


背を向けた先生の後ろ姿を見つめながら、リリィは自分の胸の鼓動が、まるで小鳥の羽ばたきのように高鳴っているのを感じていた。

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