049 ひと匙のぬくもり
カタン、と小さな音を立てて、扉が閉まる。
リリィはぴくりと肩を震わせた。部屋に残されたのは自分と、旦那様、ただ二人。
深い沈黙が流れる中、蝋燭の炎が静かに揺れていた。リリィは何をどうすればいいのか分からず、膝の上で手をぎゅっと握りしめたまま、目線だけを動かしていた。ナイフとフォークの位置を見て、次に目を落とした皿の上の料理を見て、次に先生の顔を見てしまいそうになって、それを慌てて避けて。
(だめ……わたし、何もできない……)
「リリィ、どうしたんだい?」
やわらかい声が、静けさを優しく破る。リリィは肩をすくめ、反射的に答えた。
「……ご、ごめんなさい……!」
食事に手をつけられないこと、何も話せていないこと、自分がここにいていいのかさえ分からない、その全部が申し訳なくて、咄嗟にそう言っていた。
だだ、ヴェルメイン先生は、そんなリリィを叱るでも責めるでもなく、ただふっと微笑む。
「……隣に座ってもいいかい?」
「えっ……?」
あまりに予想外の言葉に、リリィは声を失った。
驚いて顔を上げたときには、すでに先生は自ら椅子を持ち上げて、リリィのすぐ隣に席を移していた。椅子の脚が床に擦れる音が部屋に響き、リリィは自分の心臓の音まで聞こえてしまいそうだった。
「さあ、いただこうか。」
ヴェルメイン先生はそう言って、何事もなかったかのように食事を取り始めた。フォークを軽やかに動かし、静かに料理を口に運ぶ。
一方で、リリィはとなりで、顔を真っ赤にしながら固まっていた。
近い。あまりにも近すぎる。肩が触れそうで、息づかいまで聞こえてしまいそうで──何より、香りがする。インクと紙、そして少しの紅茶。それは、旦那様の香り。
ぎゅうっと、心臓がつままれたように鳴る。
しかしその隣で、ヴェルメイン先生はまるで空気のように自然で、当たり前のようにその場に座っていた。だからこそ、余計にリリィは自分のぎこちなさが恥ずかしくてたまらなかった。
けれども、その隣でふと、先生が小さく笑った。
「そういえば、こうして誰かと二人で食べるのは、久しぶりだな。」
「……え……?」
「孤児院にいる時は、みんなと一緒に食べているだろう?それに、ここにいる時もね……極力みんなと、あのホールで食べようと思っているんだ。ただ、どうしても忙しい時だけ、ここで食べるんだけどね。しかし……そういう時はほとんど、ロザーナが運んできてくれるんだ。ハハ……みんな遠慮してしまうのかな。」
その声は穏やかで、どこまでも静かで、優しい。旦那様は、自分の緊張を和らげようと、気遣ってくれているのかもしれない。
リリィはそう思った瞬間、胸がいっぱいになって、ようやく震える手でフォークを取った。
「……いただきます……」
囁くように呟いて、リリィはようやく、初めての一口を口に運んだ。ほのかに甘いキャロットグラッセの味が広がっていく。
──おいしい。何の変哲もないニンジンなのに。こんなにも心が温まるものだろうか。
隣を見ると、先生が微笑みながら自分を見ていた。
「美味しいかい?」
彼の声が、そっとリリィの耳に届く。リリィは顔を上げることができず、俯いたまま、けれども静かに微笑んで答える。
「……美味しいです。」
「それは良かった。」
先生はほっとしたように笑みを浮かべ、再び自分の皿に向き直って食事を続けた。ナイフとフォークが滑らかに動き、静かな時間が流れる。
けれども──
リリィの肩には、まだほんのわずかな強ばりが残っていた。姿勢も硬く、背筋はまるで糸で吊るされた人形のように、真っ直ぐになっている。旦那様と自分、二人きり。その変わりようのない事実が、どうしようもなく心を締めつけてくる。
しかし、先生はそんなリリィの様子を見て軽く息を漏らし、思わず笑ってしまっていた。
「ハハ……リリィ、力を抜いて。そんなに堅くならなくていいんだよ。マナーも、気にしなくていい。」
「……は、はい……」
リリィは一呼吸、ふかく息を吸い込んで──すう……と吐き出す。
その後は少しだけ、ほんの少しだけ、肩の力を抜くことができた。そして、ナイフとフォークを手に取り、再び料理を口に運ぶ。
食材の柔らかな歯ごたえと、味の奥行きが広がるたびに、少しずつ緊張も和らいでいく。
そんな様子でしばらく食事を進めていた時、旦那様はふと問いかけてきた。
「孤児院での生活には、慣れたかい?まあ……ハハ。たった一週間ほどで、こっちに来てしまったがな。」
リリィは、そっと視線を上げて、またすぐに落とす。
「……は、はい。皆さん、とても優しくしてくださって……」
けれどその言葉のあと、リリィの声が少しだけ沈んだ。ふと、胸の奥から浮かび上がる暗い記憶が、影を落とす。
「……本当に……ありがとうございます……」
そう呟いた声は、小さく震えていた。
その瞬間、ヴェルメイン先生の手が、そっとリリィの背に触れる。温かく、柔らかく、そして決して急かさない、静かな手。
「……すまなかったね。昔のことを、思い出させてしまったかい?」
リリィは、何も言えずに首を振った。けれどその目には、うっすらと涙が浮かんでいた。
──泣きたくなるのだ。背中に添えられたその手は、まるで羽を休める蝶を包み込むように、静かに自分の心に触れる。こんなにも温かく、優しい手なのに。どうしてか、泣きたくなる。
「いえ……」
リリィは、言葉を絞り出すように答える。……泣きたくない。今は、笑顔でいたい。
先生は、リリィの背に手を置いたまま、ゆっくりと口を開いた。
「あそこは、本当にいい場所だ。……そうだ。お詫びとしては足りないだろうが……少し、私の昔の話を聞いてくれないか。」
リリィはそっとナプキンで涙を拭い、言葉を遮らぬよう、静かに先生を見つめる。
「もちろんです。」
すると、懐かしむような、遠くを見るような目で、先生は語り始める。
「ありがとう。……あれは、私が十五の頃だったよ。私は当時、朝から晩まで本と机に縛りつけられるような日々を送っていた。……誰かに強いられたわけじゃない。貴族として、自分でそう在ろうとしていたんだ。けれど……いつからか、窓の外の景色ばかりが気になるようになってね。」
先生の声は、まるで書物をめくるように穏やかで、そして少しだけ寂しげだった。
「ある日、思い立ったように……誰にも、何も言わずに屋敷を出た。どこかへ行こうと決めたわけではなかった。ただ、何もかもから離れたくなった。……だけど、気づけば日は沈み、帰り道すら分からなくなっていた。」
リリィは膝上で手を握り締め、息を呑むように続きを待った。
「その時、森の入り口に続く小道を見つけたんだ。それが、どこかで見たことがあるような気がして──それで思い出したんだ。……この間、院長先生のお部屋に集まった時のこと、覚えているかな。私の家の門前に、一人の幼子が捨てられていたことがあってね。」
「……フィデルさん、ですか?」
リリィがそっと口にすると、先生は小さく頷いた。
「ああ、彼がまだ赤ん坊だった頃……生まれてまもなくの時期、母上が彼をしばらくの間引き取っていた。だが、その後は正式に『ウッドワードの砦』という新設の孤児院に預けることになって……そのとき私も母上に付き添って、馬車で彼を連れていった。」
静かな蝋燭の灯りの中、先生の記憶が、まるで一本の映画のように描かれていく。
「そして──そうだ。彼を孤児院へと連れていった時に通った道が、まさしく目の前に広がっていた。森の奥へと続く、小さな道。何かに導かれるように、私はそこを歩いたんだ。」
木の葉の揺れる音すら聞こえるような静けさが、部屋を包む。
「森を抜けた先に、小さな家──今の孤児院とはまるで違う、ただの古びた一軒家のような建物があった。私はその門をくぐり、玄関の扉を叩いた。」
「……そして?」
「そして出てきたのが、一人の老人だった。……ウッドワード先生。孤児院の名にもなっている、院長先生だよ。」
リリィは目を見開く。
「あの頃は彼一人で、孤児院の全てを担っていたんだ。彼は夜の訪問客に警戒する様子もなく、私の顔を見て……『おや、道に迷ったのかい?』とだけ言った。」
ヴェルメイン先生は肩を竦めるように笑う。
「私は……本当のことは言えなかった。私が貴族と知ってしまえば、特別な待遇をしようとするだろう。ただ私は……それが嫌だった。身分も名前も偽った。ただの迷子として、一晩だけ泊めてもらったんだ。」
リリィは、旦那様が厚遇されるのを嫌う理由が何となく分かった。彼は貴族という身分を、少しの間でも離れたかったのだろう。……自分が、奴隷という身分から解放されたいと、願っていたように。
「中には小さな丸いテーブルがあって、そこで数人の子どもたちが食事をしていた。……その中には、精悍な顔つきの少年に成長した、フィデルがいた。……ただまあ、私のことは覚えていない様子だったけれどね。それと、アルメリアやオルフェに……君の担任の、ヴィオレッタもいたな。」
リリィは、ほんのり目を潤ませながら尋ねる。
「……ヴィオレッタ先生も……?こ、孤児院で暮らしていたのですか?」
「ああ、そうだ。まだみんな、小さくて……無邪気に、私を不思議そうに見ていた。」
先生はふと笑みをこぼす。
「誰も、私を無理に敬わない。かと言って、蔑んだりもしない。ただ温かく、一人の仲間として、受け入れてくれた。そうやって名前や肩書きを忘れて過ごしたあの時間は、実に自由だった。……それが、私があの場所を好きになった最初の理由さ。」
言葉の終わりとともに、ふわりと優しい沈黙が訪れる。リリィはそっと目を伏せて、胸に手を当てた。
──そんな時間を、先生が過ごしていたなんて。
まるで普通の少年のように迷い、やがて自分を見つけた場所。そんな大切な思い出を、こうして自分に話してくれたことの喜びが、リリィの胸に深く沁み入った。
「すまないね、長々と語ってしまって。君たちが心を込めて作ってくれたディナーが冷めてしまう。」
そう言って、ヴェルメイン先生は少し照れくさそうに笑い、フォークを持ち直す。
リリィは、小さく首を横に振って、「いえ……とても、素敵なお話でした。」と静かに答えた。少し冷めてしまった料理にも、まだ心地よい温かさが宿っているように感じられるのはきっと、この優しい時間のおかげだ。
「この話の続きは、また今度にしよう。」
先生のその一言に、リリィは自然と顔を上げた。
──また、今度。
その言葉は鍵のように、まるで心の奥の小さな宝箱を、カチリと音を立てて閉じたように感じた。
また開く時が楽しみになる。孤児院や、この屋敷で過ごす全ての瞬間が、まるでキラキラと輝く宝石のようだ。その中でも、旦那様との時間、旦那様の大切な思い出は、一つでも多く、自分の宝箱にしまっておきたい。
二人はそれから、しばらく黙って食事を進めた。けれどその沈黙は、もう最初のように堅苦しいものではなかった。フォークとナイフの音。時折ふっと笑い合うような、ささやかな短い会話。窓の外では、夜の風が静かに木々を揺らしている。
リリィは、緊張が少しずつほぐれていくのを感じながら、その時初めて、「今自分は、旦那様と食事をしている」と実感した。優しく迎え入れられ、同じテーブルを囲んでいる──その事実が、今は心を柔らかく温めてくれる。
やがて、食事が終わりに差し掛かる頃、先生はテーブルの上の小さな水差しを持ち上げると、グラスに水を注いでから、ふと口を開いた。
「……君とこうして話せるのは、なかなか特別な時間だな。」
その言葉に、リリィは一瞬、何かを聞き間違えたかと思った。思わず目を見開いて、先生の顔をじっと見つめる。
「私の時間は、どうしても様々なことで埋まってしまうからね……。でも、こうして静かに誰かと食卓を囲むと……何というかな……。自分の人間らしさが、戻っていくような気がするよ。特に……君といるとね。」
そう言って、先生は最後に一口、水を飲み干した。
「フゥ……ありがとう、リリィ。君が今日、来てくれてよかった。」
リリィは何も言えなくなった。返事をしようと口を開いたが、言葉にならない。代わりに、小さな息を呑み、ほんのり赤らむ顔を伏せるしかなかった。
そして、立ち上がった先生が、ふといたずらっぽい笑みを浮かべて言った。
「そうだね。今度来るときは、もっと練習になるように……メイドらしく、給仕してもらおうか?褒美も、用意しておこう。」
「えっ……!」
リリィの顔が真っ赤になり、反射的に目を見開く。先生はその反応に満足したように目を細め、「まあ、無理にとは言わないよ」とだけ言い残して、書類の山へと戻っていった。
背を向けた先生の後ろ姿を見つめながら、リリィは自分の胸の鼓動が、まるで小鳥の羽ばたきのように高鳴っているのを感じていた。




