043 寂光と春暖の鳥籠
ヴェルメイン先生は、屋敷の二階、南側の廊下の奥へと、静かに歩を進めていた。そして、廊下の最奥にある本棚に手を伸ばす。彼が触れたのは、その中にある本……ではなく、本棚そのものだった。彼が本棚に力を加えていくと、それはゆっくりと動き始める。すると、本棚しかないように見えた廊下の奥の壁に、狭く薄暗い廊下と、螺旋階段が現れた。その階段を人目から隠すように設けられたような本棚は、隠し扉だったのだ。ヴェルメイン先生は、奥まった細い螺旋階段を上っていく。
やがて辿り着いた先には、屋敷の外からはほとんど見えない、秘密の空間が広がっていた。
天井は高く、丸く弧を描くドーム型になっており、全面がガラス張りだった。陽の光は、本来であれば惜しみなく降り注ぐはずだったが、今は、天井一面に薄く柔らかな白布が張られ、室内を柔らかい薄闇に沈めている。昼間であるにも関わらず、部屋の中は夕暮れのような、淡く寂しい光に包まれていた。
家具は最低限しか置かれていなかった。繊細な装飾が施されたベッド、読みかけの本が積まれた棚、小ぶりなティーテーブルと椅子。そして部屋の中央近くには、深い色をした木製のピアノが静かに鎮座していた。
そのピアノの前に、ひとりの少女がいた。
フリーシア。
彼女は、小さな背を丸めるようにして椅子に座り、鍵盤に手を触れるでもなく、ただぼんやりと前方を見つめていた。
白銀色の髪が、微かな光を受けて儚げに揺れる。その後ろ姿には、深い沈黙が漂っていた。
ヴェルメイン先生は、そっと足音を殺し、遠くからその様子を見つめた。扉の傍に立ったまま、彼女の静かな孤独にそっと寄り添うように、言葉を飲み込んでいた。
しかしフリーシアは、最初からすべて分かっていたかのように、ゆっくりと、前を向いたまま口を開いた。
「やっぱり、ここが好き。」
その声は、かすかに震えていた。静かな、けれど胸の奥に小さく刺さるような響きだった。
ヴェルメイン先生は、ほんの少しだけ目を伏せる。
そして、複雑な感情を押し殺したような優しさで答えた。
「……そうか。」
しかしその一言には、どうしようもない、暗い感情が滲んでいた。
フリーシアは、そっと椅子から降りた。長いスカートの裾を揺らしながら、ゆっくりと歩み寄り、優雅な所作でお辞儀をした。
「おかえりなさい、先生。」
その言葉は、まるで長い時間をかけて辿り着いた祈りのようだった。敬愛と、ほんの微かな痛みが混ざった声だった。
ヴェルメイン先生は、柔らかく微笑んだ。そして、できる限り優しい声音で──けれど、どこか哀しみを宿したまま、答える。
「ただいま。……心配をかけてすまなかったね、フリーシア。」
窓の外では、春の柔らかな光が、ぼんやりと白布越しに揺れていた。静かで、誰にも触れられないような時間だけが、二人のあいだに、そっと流れていた。
──
しばらく部屋で待っていると、控えめなノック音が響いた。リリィが「はい」と答えると、扉が静かに開く。そこに現れたのは、深い赤紫色の制服に身を包んだ、背の高い女性だった。
「皆様、ランチのご用意ができました。一階のダイニングホールまでお越しください。」
そう告げた彼女は、ゆったりとした所作で丁寧に一礼する。その動きは、まるで風にそよぐ一輪の花のようだった。
その瞬間──アルメリアがビクリと身体を震わせた。そして、バネ仕掛けの人形のように飛び出す。
「あなた様が……メイド長、ロザーナ様ですねっ!?」
驚くほどの勢いで顔を近づけられたロザーナは、さすがに目をぱちくりとさせたが、すぐに冷静な笑みを浮かべた。
「はい、ロザーナ・カヴェンディアと申します。どうぞお見知りおきを。」
優雅かつ完璧な振る舞いに、リリィとカリタスも思わず「おお~」と感嘆の声を漏らす。しかしアルメリアは、それどころではなかった。輝くような目でロザーナを凝視していた。
「お美しい所作……完璧な礼儀作法……そしてこの、落ち着き払ったオーラ……!本当に、素晴らしいです!!」
完全に圧倒され、うっとりと息を吐くアルメリア。あまりの尊敬のこもった視線に、ロザーナの心の中では……
(ああ……可愛いっ!窓から見ていて思った通りの、綺麗な可愛い子だわ!しかも、私のことを慕ってくれている……!こんなに純粋な目で見上げられたら、私……!私……!)
と感激の嵐が巻き起こっていたが、顔には出さない。出してはならない。メイド長の威厳は、いついかなる時でも保たなければならないのだ。……しかし、前で組んでいる手は、微かに震えている。ロザーナはぐっと堪えながら、努めて淡々と応える。
「身に余る光栄でございます。ですが、わたくしなどまだまだ未熟な身。日々、精進しております。」
完璧な受け答えだった──しかし内心では……
(違う!全然余ってない!むしろ足りないわっ!もっと、もっと褒めて!!ああっ!!尊敬されるのって、こんなに嬉しいの!?)
と小躍りしたい気持ちでいっぱいだった。それでもアルメリアの勢いは止まらない。
「私、アルメリアと申します!孤児院で、貴女様を一度お見かけしたその日から!貴女様のような、優雅・端麗・完璧を具現化されたような、完全無欠なメイドを夢見て、今日まで生きてまいりましたっ!!」
熱意のこもった宣言に、ロザーナの心はさらに打ち震えた。
(しかもメイドを志していると言うの……!?ああっ……ロザーナ!!ついに……ついに現れたわよ!!私の後を継ぐべき、ダイヤモンドの原石!!ご主人様に仕えるに相応しいわっ!!ああ〜〜それにしても可愛い……!この子、抱きしめたい……!いえ、駄目です、我慢我慢……私は、この子が目指す、立派なメイド長なのだから……!)
頬が緩みそうになるのを必死で押しとどめ、ロザーナはやわらかな微笑みで応じた。
「その心意気、素晴らしいですわ。わたくしに出来ることでしたら、何でもお教えします。」
熱烈な視線を向けるアルメリアと、手がプルプルと震えているロザーナを見ながら、リリィも決意を固め、声を上げた。
「あの!わ、わたしもっ!メイドを目指したいです!!」
ロザーナはそれを聞き、一瞬ビクッとした後、一度深呼吸してからリリィに目を向ける。
「(メイドを志す子が二人も……フフ、この子もなかなか可愛いわ!ああ、幸せ……)おやおや、あなたもでしたか。何か、理由がおありで?」
「はいっ!ヴェルメイン先生の、役に立ちたくて……先生に、恩をお返ししたくて……先生の……」
ロザーナは、リリィの目線に合わせてしゃがみ、優しく微笑んだ。
「あら、あなたは……とにかくご主人様にこだわっているのね?その気持ちは、とても大切よ。フフ……分かったわ。」
そう言うと、ロザーナは立ち上がる。
「さあ、ひとまずダイニングホールへまいりましょう。ご馳走が冷めてしまいますから。」
ロザーナは歩き出す。その背中には、アルメリアの「ロザーナ様、歩く姿もお綺麗です!」という熱烈な声援が飛んでくる。そして、リリィも負けじと、「ロ、ロザーナ様!素敵です!」と声を張り上げる。ロザーナは背を向けたまま、そっと口角を上げた。
(……ああ、こんなに可愛い子たちに囲まれて、私……幸せ……)
そんな幸せいっぱいの心の声を隠しながら、ロザーナは子どもたちを静かに先導していった。




