042 立場と責任
昼食の準備が進む頃、ヴェルメイン先生は静かに、ある部屋の扉をノックした。
「ロザーナ、いるかい?」
中から返事はなかったが、なにやらゴソゴソと物音がする。ヴェルメイン先生は、そっと扉を開けた。
「…ここにいたか。失礼するよ。」
部屋の中では、メイド長のロザーナ・カヴェンディアが本棚の前で真剣な顔をして本を手にしていた。眉間には皺、指先には羽ペン、そして口元はムニャムニャと動いている。どうやら、次の献立表の計画と格闘しているようだった。
「……もう、やっぱりワインはベルデー産に……っ〜〜!!いえダメよ!!何考えてるのロザーナ!!ご主人様が帰ってくるのよっ!?妥協だなんて絶対、絶対に許さないわ!!後で……いえ、今すぐ買い出しに……」
「……忙しそうなところ、申し訳ない。ロザーナ。」
その瞬間、ロザーナの肩がビクリと跳ね上がった。
羽ペンがふわりと宙を舞い、開いていた本がバサリと落ちる。まるで時間が止まったかのように、ロザーナはゆっくりと振り返った。
そして──
「ご、ごっ……ご主人様!? 」
大きな瞳を見開き、彼女はまるで幽霊を見たように一歩、二歩とよろけながら近づいてきた。
「おお、お、お怪我は!?お薬は!?ちゃんと食べてます!?しっかり眠れてますか!?お加減は!?お熱は!?呼吸は!?」
ロザーナはそのまま主人に飛びつき、抱きつき、そして泣き始めた。
「ああああ!!お戻りになったんですね……っ!!本当に……わたくし……もう……っ」
ヴェルメイン先生はすっかり抱きしめられたまま、困ったような顔で苦笑した。
「ロザーナ、落ち着いて。私はもうすっかり元気だよ。それに、まだ傷が完全には……」
「ああっ、申し訳ございません!」
ロザーナは跳ねるように後ろへ退き、泣き顔から一気に真顔に戻った。そしてそのまま背筋を伸ばし、深く頭を下げる。
「また同じ失態を……本当に申し訳ございません。つい……つい……!」
「フフ……いいや、もう慣れたよ。君が取り乱すのも含めて、帰ってきたという実感が湧くものだ。……たった三日、顔を見せなかっただけで狼狽された時は……流石にどうしたものかと悩んだが。」
ヴェルメイン先生は肩をすくめて笑った。
ロザーナはその言葉を聞いて、さらに顔を赤くしながら「お恥ずかしい限りです」と呟く。その一方で、口元はどうしても緩んでしまう。
「……それでもやはり、こうしてまたお声を聞けて……うれしゅうございます。」
「ああ、私もだ。これからまたしばらく、よろしく頼むよ。……手紙で伝えてある通り、子どもたちのこともね。」
「はいっ、命に代えても!」
「代えなくていい。」
またもヴェルメイン先生は苦笑し、ロザーナは気を取り直して姿勢を正した。ロザーナは涙で潤んだ瞳のまま、ふと顔を上げると、にこやかなヴェルメイン先生に刺すような視線を向ける。
「それで……お怪我の具合は本当に大丈夫なのでございますね?」
「ああ、もう何ともないよ。心配をかけてすまない。」
「……そうですか。」
一息置いて、ロザーナはふっと表情を引き締めた。その優美な顔立ちは、怒りの色を帯びた瞬間、まるで凛と咲く薔薇のように鋭さを纏う。
「ではお尋ねしますが、ご主人様はどうしてお出かけの際に、いつも護衛も連れずにお一人で行かれてしまうのですか?」
「いや、それは……子どもたちに会いにいくのに、護衛まで連れて行くのは仰々しいというか……騒がしくなると思って……」
ヴェルメイン先生が申し訳なさそうに笑うと、ロザーナは拾い上げた羽ペンを握りしめた。その白い指先に、力が込められているのが分かる。
「ご主人様は、今やヴェルメイン家を背負って立つお方!王宮からも大変ご注目を置かれておられるのですっ!護衛をつけるのは、当然のこと!……何を望まれようと構いませんが、貴方様をお守りすることは、我々にとっての誇りであり、責任なのです!!」
「……すまない。重々承知している。けれど、ロザーナ──」
「分かっていらっしゃらないから、こうして生きて帰ってこられたことを、奇跡のように感謝せねばならぬ事態になったのではございませんかっ!!」
ロザーナの声には震えが混じっていたが、それは怒りよりも、恐怖に近かった。目の前にいる人を失いたくないという気持ちが溢れていた。
しばし沈黙が流れた。ヴェルメイン先生は、そんなロザーナの心情を察してか、はたまたバツの悪い話題から逃げるためか、少しだけ視線を外してから、ふと話題を変えるように言った。
「……それより、あの罪人はどうなった?」
「……っ」
ロザーナはしばらく睨みつけていたが、やがて咳払いをひとつして、仕事に徹する顔へと戻る。
「……王都の騎士団の元で拘束しております。つい先日、ラザリオ鉱山で20年の労働刑に決まりました。」
「20年か……長いな。」
「なっ……ご主人様!ご自分の立場を本当に分かっておられるのです!?貴族に傷を負わせた者は、首が飛んでもおかしくないのですよ!!」
「……そうなのか?」
「そうですわよっ!!鉱山があまりにも人手不足だというものですから、こうなったのでしょうけれど……。ああっ……!」
そう言うとロザーナは、再び主人へ抱きついた。
「どうか……どうか……っ!貴方様の身分の高さを……せめて、ご自身の安全にもっと、配慮していただけませんか……!」
有力な貴族の主人であるという自覚を、これでもかと刻み込まれたヴェルメイン先生は、ロザーナの背に手を回し、優しく語りかけた。
「……本当に、すまない。私の自覚が足りなかった。……ありがとう。君がいてくれて、本当に助かるよ。」
「……当然です。私は、貴方を……この家を、守るためにいるのですから。」
そう言いながら、ロザーナは体を離し、袖でそっと目元を拭き取った。まだ心配の色を残しながらも、彼女の背筋は真っすぐだった。
「……コホン。失礼しました。……そろそろ、ランチの支度が整う頃かと存じます。わたくしは、子どもたちを呼びに向かいます。」
「ああ、ありがとう。皆、朝から随分と緊張していたからね。お腹を空かせているだろう。私はここで、子どもたちの為になる本をしばらく探してから、行くとするよ。」
ロザーナは軽く頷いた後、扉の方に身体を向ける。だが、その直前で思い出したように立ち止まり、背後にいるヴェルメイン先生へ振り返った。
「あの……ご主人様。フリーシア様のこと、お願いできますでしょうか?」
しばしの沈黙。ヴェルメイン先生の目が、ふと翳る。
「……無理に連れ出すことはできないよ。保証はしない。あの子が自分の足で歩いてきてくれるなら、それが一番いい。ただ……厳しいだろう。」
ロザーナは唇を噛みしめた後、ゆっくりと頷いた。
「ええ……わかっております。ですが、それでも……」
彼女はわずかに微笑んだ。
「それでも、あの子には、皆と同じ食卓を囲んで欲しいのです。どうしても、あの子が来られないようでしたら……わたくしが、ランチをお部屋まで届けます。」
「……いいのかい?」
「……はい。」
先生は視線を逸らしながらも、その言葉にはっきりと頷いた。
「最善は尽くすよ。」
「……はい。ありがとうございます。……ご主人様、少しは休まれてくださいね。……あとで、紅茶をお持ちします。」
扉の方へ歩みながら、ロザーナは最後に振り返った。ヴェルメイン先生はロザーナの方へ顔を向け、小さく微笑む。ロザーナは静かに礼をして、扉を閉めた。
部屋に再び、静寂が満ちていく。ロザーナは小さく息を吐き、子どもたちの部屋へ向けて足を踏み出した。




