040 夢への門出
──馬車の車輪が石畳を軽やかに叩く音が、リリィの胸を奮わせていた。薄曇りの空の下、街は徐々に姿を変えてゆく。くすんだ壁の家並みが、光沢のある装飾をまとった店々へと移り変わり、道を行き交う人々の衣装も、目を見張るほどに華やかになっていく。金の糸で刺繍を施したドレスや、宝石を散りばめた帽子。生まれて初めて目にする光景に、リリィは思わず息をのんだ。
「すごい……」
そうつぶやいたのは、左端に座っていたカリタスだった。緊張と興奮に目を輝かせ、窓に手を掛けて外を見つめている。その姿は、馬車から身を乗り出すのを必死に我慢しているようにも見えた。
「王都は、はじめて?」
真ん中に座っているアルメリアが、微笑みながら尋ねた。髪に巻いたリボンは、今日のために新調したようだ。いつもよりもさらに上品に見える。
「うん!リリィは?」
「うん……」
リリィは、絶えず移りゆく外の景色に呆気に取られながら頷いた。アルメリアは言葉を続ける。
「私は、何度か来たことがあってね?メリー先生がお買い物に行く時に、頼み込んでついて行っただけなんだけど……この街は目新しいものばかりで、いつもキラキラしてるわ!いつか、こんな所にも住んでみたいわね…」
──やがて馬車は、街の中心から少し離れた丘のふもとへと入っていった。街の喧騒が遠のき、緑に囲まれた静かな道を進む。風が葉を揺らし、小鳥のさえずりが馬車の窓から入り込んでくる。
そして──木々の合間から、ひときわ大きな門が現れた。鉄細工の重厚な門には蔦が絡まり、その奥に、ヴェルメイン先生のお屋敷が静かに佇んでいた。
「……着いたのかな?」
リリィがそう呟くと、カリタスも緊張した面持ちで小さく頷いた。
門が開き、馬車がゆっくりと敷地の中へと進むと、広々とした庭が目の前に広がった。左右には季節の花々が整然と咲き乱れ、奥には噴水が水音を立てている。その景色の中に、深い森のような静けさと、煌びやかな美しさが同居していた。
屋敷の前で、数人のメイドたちが整列して待っていた。皆、暗い赤紫色の上品なメイド服を身にまとい、背筋を伸ばして微笑んでいる。その整った佇まいに、リリィも思わず背筋を正した。
馬車が止まり、御者の男性が扉を開けてくれると、まずカリタスが緊張しながら降りた。カリタスは緊張のあまり足元ばかりを見ていたせいで、御者が差し出してくれている手に気づいていないようだった。次いでアルメリアは、御者の手をしっかりと取り、優雅に降りていった。そしてリリィも、ぎこちない動作ではあったが、ゆっくりと落ち着いて外へ出る。
「ようこそ、『ウッドワードの砦』の皆様。お待ちしておりました。」
出迎えの一人が、丁寧に頭を下げた。その声は穏やかで、どこか親しみのある響きを帯びていた。
リリィは思った。この場所は、孤児院とは全く違う世界だけれど──静けさの奥に、どこか懐かしさを感じる、と。
(なんだか、孤児院に似ている……?)
ウッドワードの砦と、規模感や装飾の細やかさは圧倒的に違う。しかし、小高い丘の上に佇む屋敷、静かな森の中に造られた広々とした庭……その清麗な雰囲気は、孤児院のそれと全く同じに思えた。
そして前方の馬車からも、次々と降りてくる。クラージュは何やら、肩に大きな荷物を担いでいる。ジャスティンはそれを手伝いながらも、周囲の風景に目を奪われていた。アンドリューとフィデルは、何か会話をしながら降りてきた。耳を澄ましてみると、聞き慣れない難しい言葉の数々が、頭の中をぐるぐると駆け巡った後に通り過ぎていった。ヴェルメイン先生は、先頭の馬車から降りてきた。フリーシアもそこから一緒に出てきて、小さな鞄を抱え、俯いたまま静かに先生の後ろに立った。
(……フリーシアと旦那様は、何か特別な関係が?)
リリィは、この八人が院長先生の部屋に集まった夜のことを思い出す。皆が去った後も立ち上がらないフリーシアに、旦那様は何かを語りかけていた。
リリィがモヤモヤと物思いに耽っていると、カリタスが声をかけてきた。
「ど、どうしたのリリィ?」
「……あっ、ごめん!なんでもないよ!」
リリィは、ひとまずそのことは忘れ、みんなを追って駆け出していった。
全員が玄関前に揃うと、メイドの二人が一歩前へと進み、金具の装飾が施された重厚な扉に、それぞれ手をかける。そして、ギィ……という静かな音とともに扉が開かれた。
──中に広がっていたのは、思わず息を呑むほどに洗練された空間だった。淡い乳白色の壁は春の光を柔らかに反射し、天井から吊るされた小ぶりなシャンデリアが、その光を静かに散らしていた。壁際に置かれた絵画と彫刻は、決して派手ではないが、目を奪うほどの繊細さで調和している。敷き詰められた絨毯には静けさを刻むような深い藍色が流れ、その中央をまっすぐに伸びる一本の金色のラインが、まるで訪れた者に道を示しているかのようだった。
「……わあ……」
誰ともなくこぼれた声が、空間に小さく響く。誰もが足を止め、ただその場に立ち尽くしていた。
その中で、ヴェルメイン先生が静かに歩み出て、子どもたちの背に手を添える。
「フフ……さあどうぞ、中へ。」
その声に背中を押され、一人、また一人と足を踏み出す。カリタスはまだずっと緊張しているようで、リリィの手をそっと握ってきた。リリィは、その手をしっかりと握り返す。
アルメリアが表情を崩さぬまま、まっすぐ前を見つめて歩き出した。それを見たリリィとカリタスも、後を追うように歩き出す。
屋敷の空気はどこまでも静かで、そしてあたたかかった。子どもたちはその中に包まれながら、これから始まる日々を胸に描く。
ここが、夢を追う最初の舞台。
そして、それぞれの心に秘めた想いが、静かに、確かに動き出す場所だった。




