039 白蝶、ひかり風に乗って
春の爽やかな青空の下、ヴェルメイン先生の屋敷へ向かう出発の日。朝早くから孤児院の空気はどこか浮き立っていた。
広い玄関では、出発する子どもたち八人が整列していた。アンドリュー、クラージュ、ジャスティン、フィデル、フリーシア、アルメリア、カリタス、そしてリリィ。
院長先生はひとりひとりに温かい励ましの言葉をかける。見送りに集まった子どもたちや先生たちの拍手が、そっと彼らの背を押すように響いていた。
正面玄関を抜けると、陽の光を受けてきらきらと輝く四台の馬車が、庭に整列して待っていた。その姿は、まるでおとぎ話から抜け出したかのような美しさだった。洗練された装飾と深い藍色のボディ、屋根には金糸で刺繍された紋章。御者たちも格式高い制服に身を包み、礼儀正しく立っていた。
「……すげぇっ!!」
クラージュが思わず声を上げ、ジャスティンと競うようにして駆け出していった。玄関の中にいた見送りの子どもたちも皆、思わず馬車の元へ歩いていく。目を輝かせながら馬車の車輪や飾りをじっと眺め、あちこち触れては歓声を上げた。
その様子を、ヴェルメイン先生は庭の端で微笑みながら見守っていた。眼差しには深い慈しみと、ほんの少しの名残惜しさが滲んでいるように見えた。
リリィは荷物を一度馬車に置くと、ゆっくりと旦那様の元へ歩み寄っていく。
「旦那様…」
呼びかける声は、柔らかくも芯のあるものだった。ヴェルメイン先生がゆっくりと顔を向けると、リリィは一瞬だけ微笑んでから、振り返り、玄関の方を見た。
「リーベル、今だよ。」
玄関の影から顔を覗かせていたリーベルが、そっと一歩踏み出してくる。少し緊張した様子だったが、リリィが、目を合わせると、ゆっくりと、確かな足取りでヴェルメイン先生のもとへ歩いてくる。
先生は驚いたように目を細めたが、何も言わず、優しく二人を見守っていた。リリィは、そっとその場から一歩退き、二人を見守る。
リーベルは先生の前で立ち止まる。そして、胸元に抱えていた小さな包みを、何も言わずにそっと差し出す。彼女の手の中には、少しいびつな、けれども心のこもった花束があった。
ピンクのスイートピーが、小さな羽のように揺れている。そのやわらかな花弁には、「感謝と別離」の意味が宿っていた。別れの寂しさと、それでも胸に秘めたありがとうの気持ち──まさにリーベルの想いそのものだった。
その傍らには、鮮やかな黄色のフリージアが数本、光を集めるように咲いていた。「親愛」の気持ちをこめて──幼いながらも胸の奥で確かに育まれていた、深い尊敬と愛しさを語っていた。
紫のヒヤシンスは、花束の中心に置かれていた。色鮮やかで、目を引くその姿。「初恋のひたむきさ」──それはまだ名も知らぬ感情に揺れていた、幼い頃のリーベルの心を、何よりも正直に映し出していた。
足元を固めるようにあしらわれた黄色のビオラは、明るい彩りで花束を支えるように広がっていた。「小さな幸せ」──それは、裏庭での時間、言葉を交わした瞬間、静かに並んで歩いた道……今までに感じた一つ一つの幸せを、象徴するように。
そして、花束の片隅に、ただ一輪だけ。真っ白なチューリップがそっと咲いていた。「失恋」──それは語られなかった想いの結末。けれど、花言葉を知る者が見れば、それがどれほど純粋で切実な気持ちから来た選択だったのかを、理解できるだろう。
その花束は、リーベルが庭の花壇で育て、摘み、そして一生懸命結んだものだった。花言葉の勉強にも余念がなく、リリィとリーベルで何度も案を出し合って辿り着いたものだ。手慣れた装いではなく、不格好で、リボンの結び目も少し傾いている。色合いを気にしている余裕も、あまりなかった。けれども、リーベルの想いが詰め込まれた花束になったはずだ。
リーベルは少しだけ震える手で、その花束を差し出した。ヴェルメイン先生は微笑みながらしゃがんで、その手を包み込むようにして受け取った。
「ありがとう。頑張って作ってくれたんだね。…花屋を目指す君が、初めて作った花束……それを受け取ることができるなんて、光栄だよ。」
その言葉に、リーベルは唇を噛んで、泣くのを堪えた。温かな手が、そっと手を包み込んでくれる。それだけで、心の奥がじんわりと満たされていくのを感じた。
ヴェルメイン先生はゆっくりと立ち上がり、花束を丁寧に胸に抱えたまま、馬車へと向かって歩き始めた。その背中を、リーベルはただじっと見つめていた。
やがて、小さく、けれどはっきりとした声が風に乗って響く。
「……大好きです。」
その言葉は、確かに先生の耳へと届いた。
ヴェルメイン先生は一瞬立ち止まり、静かに振り返った。そしてそのまま、何も言わずに微笑み、ひらひらと手を振ってから、先頭の馬車に乗り込んだ。
リリィはリーベルにそっと近づき、黙って抱きしめる。リーベルも、ゆっくりと抱きしめ返してくれた。しかし、その手はまだ震えていた。
「リリィ……」
「……大丈夫。きっと、伝わってるよ。旦那様は花言葉も、よく知ってると思うから……」
「……ううん、いいの。伝わってても、伝わってなくても。もしかしたら先生は……『先生として』って意味で受け取ったかも、しれないけど……それでもいい。……もう、十分、わたしの想いは、伝えられたから。」
そう言うとリーベルは不意に、リリィを抱きしめる腕に、一層の力を込めた。
「……今は……リリィがいなくなっちゃうのが、寂しいの……」
リリィも、しっかりとリーベルの体を抱きしめる。
「大丈夫だよ。約束通り、毎日手紙も書くし……いつか、戻ってくるんだから。」
「……うん。そうだよね。……ごめんね、リリィ。わたし、リリィに甘えてばかり……」
「……いいんだよ、リーベル。リーベルと一緒に過ごすの、とっても楽しいし……何より、幸せだから。」
そう言うと、リーベルはくすくすと笑う。
「…フフッ、大袈裟だよ。」
「ううん、本当だよ?フフ……」
二人で、出発する前の最後の時間を、親友と笑い合いながら過ごす。その時間は、リリィにとって幸せ以外の何物でもなかった。
他の子たちも、皆思い思いの友達と話をしている。中には、泣きながら抱擁を交わしている子たちもいた。
──そして、出発の時が訪れる。
「みんな、出発するよ。そろそろ、馬車に乗りなさい。」
旦那様の声が聞こえる。
「……じゃあ、またね、リーベル。」
「……うん。またね。」
「リーベル……『心のお荷物』、なくなった?」
「……フフ、うん!とっても楽になった。今まで、心の中を埋め尽くしてたもの……ぜーんぶ、なくなった気がする!」
「良かった……じゃあ、頑張ってね?お花屋さんの夢、叶えられるように……」
そう言うと、リーベルは少し不思議そうな顔をした後、満面の笑みを浮かべた。
「……うんっ!フフッ、リリィも自分の夢、見つけられるといいね!」
リーベルはやっと、自分の夢を全力で追いかけることができるようになった。そして、リリィもまた、自分もそうなりたいと、強く願った。「旦那様の役に立つ」……いつかその願いを、叶えられるようにと。
──リリィは、カリタスとアルメリアと一緒の馬車へ乗り込む。扉が閉まり、蹄の音がゆっくりと鳴り響き始める。
リーベルは立ち尽くしたまま、その音が遠ざかっていくのを聴いていた。
しかしリーベルの心の奥では、花束の花ひとつひとつの意味と、リリィの別れの言葉が、そっと響き続けていた。
「ありがとう……リリィ……」




