038 ここは、二人だけの庭
扉が、静かに開いた。並んで座っていたリーベルとリリィは、ゆっくりと顔を向ける。
アルメリアが戻ってきた。けれど、その表情には笑顔の影がなかった。手には新しい茶葉の入った缶を抱えていたが、それを差し出す手にも、どこか緊張が滲んでいた。
「ごめんなさい、遅くなって……」
リリィは少しだけ息を呑む。さっきまでのリーベルの態度を思えば、アルメリアがどんな風に迎えられるのか、予想がつかなかった。
けれど。
「ありがとう、アルメリア。新しい茶葉、嬉しいわ。」
リーベルは、静かに、穏やかに微笑んだ。その笑顔は、先ほどまでの攻撃的な熱も、必死な拒絶もなかった。ただ、少し疲れたような、それでも受け入れるための微かな意思が滲んでいた。
アルメリアは、驚いたように目を瞬かせる。そして、ほんの少し俯いたまま、震える声で言葉を紡ぎ始める。
「リーベル……あの……私、昔のことを……ちゃんと謝りたいの。あの頃の私は、きっと……知らないうちにあなたを傷つけてた。今になって思えば、どうしてあんな風にしてしまったのか……本当に、後悔してる。……ごめんなさい、リーベル。」
リリィは黙ってその様子を見守っていた。リーベルは、しばらく何も言わなかった。けれど、やがて視線をアルメリアに向け、ゆっくりと口を開く。
「……わたしも、まず、さっきのこと……ごめんなさい。分かっていたかもしれないけど……わたしはわざと、あなたの話すタイミングを奪ってたの。自分でも、子どもみたいだったと思う。わたしは……あなたが、昔のことを謝ろうとしているのが、なんとなく、分かってたの……それがなぜだか、悔しくて……怖くて……」
アルメリアの肩が小さく揺れる。リーベルの声は穏やかだったが、とても重く感じられた。
「……あのね、アルメリア。わたしは、あなたが悪いことをしたとは思ってないの。あの頃、あなたがしたことは……ただ、自然なことだった。一緒にいて楽しい方を選ぶのが普通……だから、謝る必要なんてないよ。」
少し言葉を切ってから、リーベルは続ける。
「……それでも、謝りたいと思ってくれたなら、その気持ちは受け取る。ありがとう。……でもね、あの時のことは、わたしの中では……もう何の痛みも、残ってないの。わたしは……居場所を見つけたから。」
リーベルは少し微笑んで、言葉を締めくくろうとするように首を傾げた。
「あの時のことは忘れて、もうこれでおしまいにしましょう?だからこれからも、紅茶のことを聞きに来てくれていいし、他のことでも話をしに来てくれるのは、歓迎する。……ただ……」
その声が、ふっと少しだけ硬くなる。
「わたしたちは──友達には、なれない。」
沈黙が落ちた。
アルメリアはゆっくりと瞬きをして、その言葉を飲み込むように、唇を結ぶ。その表情からは、何も読み取ることはできなかった。けれど、目元だけが、わずかに揺れていた。
「……そう、だよね。私……それだけのことをしてしまったんだと思う。」
アルメリアの声はかすれていたが、どこか潔さもあった。
「でも……それでも、また話をしに来ていいって言ってくれて、ありがとう。私……それだけで、嬉しいわ。」
リーベルは黙って頷いた。
──リーベルは、決定的な境界線を引くことを選択した。しかしそれは、悲しいけれど誠実な、和解だった。
新しい茶葉の香りが、静かな部屋にゆっくりと満ちていった。そしてその香りの中で、それぞれが少しずつ、過去と現在を受け入れようとしていた。重ねられなかった手は、もう交わることはないだろう。けれどそれぞれが、自分と向き合い、静かに前へ進もうとしていた。
リリィはそっと、二人の間に挟まるようにして立ち上がった。
「ありがとう、アルメリア。来てくれて、話してくれて。本当に……ありがとう。」
アルメリアは微笑んだ。その表情は少し寂しげで、儚いものだった。しかしそれでも、いつもの優雅さを取り戻しつつあるように見えた。
──
しばらくお茶会を続けた後、アルメリアは静かにお辞儀をして部屋を出ていった。扉の閉まる音が微かに響いたあと、部屋には再び静けさが戻った。テーブルの上には、何も残っていない。リーベルは目を伏せたまま、まっさらになったテーブルの上を、じっと見つめていた。
リリィは、ふと視線を向ける。
「……リーベル。わたしは……和解できてよかった、って思ってる。でも……『友達にはなれない』って、言い切って……ちょっとびっくりしちゃった。」
その言葉に、リーベルの肩がわずかに動いた。笑ったのかと思ったが、彼女の表情にはどこか影が落ちていた。
「うん……わたしも少し、意地悪な言い方だったかもって思ってる。」
小さく息を吐き、リーベルはテーブルの上にそっと手を置いた。
「でもね、リリィ。アルメリアって……私とは、まるで真逆なの。歩くだけで、人が集まってくる人。声をかけられて、すぐに笑顔を返せる人。未来に目を向けて、軽やかに歩ける人。だから……それでいいの。少し冷たいかもしれないけど……わたしも、アルメリアも……楽になれる。でしょう?」
そこには、憧れとも、嫉妬ともつかない複雑な想いが滲んでいた。リーベルは続ける。
「最初は、あの子に好かれたくて……頑張ったよ。制服の着方を真似してみたり、話題を合わせたり。でも……どれも上手くいかなかった。気づけば、あの子はどんどん遠くに行っちゃってて……私が何かを話しても、あの子の周りにはいつも、もっと面白い話をする子たちがいた。」
彼女の指が、膝の上でそっと組まれた。
「わたしは、あの輪の中に入るのが……自分を変えようとしても、無理してるって思われてる気がして……どんどん怖くなったの。」
リーベルは顔を上げた。赤みを帯びた瞳が、真っ直ぐにリリィを見つめる。
「でも、リリィは違った。無理しなくても、わたしのことを見てくれた。笑ってくれた。手を取ってくれた。……抱きしめて、一緒に泣いてくれた。」
その声には、わずかな震えがあったが、言葉は確かだった。
「わたしには、リリィがいてくれる。それで、もう十分なの。」
リリィは、その想いの重みをしっかりと感じ取っていた。胸がきゅっと締めつけられるようで、言葉を探すまでに少し時間がかかった。
「リーベル……ありがとう。そんなふうに思ってくれて。わたしも……リーベルのそばにいたい。……こんなに、わたしのことを必要としてくれたのは……リーベルが、初めて、だから……すごく、嬉しかった。」
手をそっと伸ばすと、リーベルの手がためらいがちに、でも確かにそれを握り返してきた。
その手のぬくもりが、言葉よりも多くを語っていた。どこかで心がすれ違っても、今ここにある絆は、本物だと思えた。
そしてリリィは、改めて胸の奥で決意する。
「この手を、離さない」と。
──
しばらくして、ふと、リーベルが椅子から立ち上がった。そのままカーテンをそっとかき分けて、窓辺に歩み寄る。午後のやわらかな日差しが、彼女の髪と横顔を淡く照らしていた。庭の向こうでは、春の花々が風に揺れ、時折、鳥のさえずりが聞こえてくる。
しばらく無言のまま景色を眺めていたリーベルが、ふいに振り返った。その顔には、いつもの──少しおどけたような、無邪気な笑顔が戻っていた。
「ね、リリィ。あとは先生に気持ちを伝えられたら……わたしの『心のお荷物』、全部なくなる気がするよ?」
リーベルは冗談めかしてそう言った。しかしリリィはその言葉の裏にある、静かな決意を感じ取った。
「うん、きっと伝わるよ。」
リリィも立ち上がり、リーベルの隣に並ぶ。二人で並んで、窓の外を眺めた。陽光の先に見える小さな花壇を見つめながら、リーベルがぽつりとつぶやく。
「お花って、言葉よりずっとやさしい気がするんだ。先生が好きな色、どれだったかな……」
「フフ……わたしも、一緒に考える。旦那様の好きな色、わたしも知りたい!」
リリィの言葉に、リーベルがうれしそうに笑う。その笑顔は、さっきまでの影がまるで嘘だったかのように、晴れやかだった。
「うん……ありがとう。リリィと選ぶなら、きっと、いい花束になる。」
午後の光が少しずつ傾いて、庭の花々が黄金色に染まっていく。その光景を前に、ふたりの少女は、まだ見ぬ花束の色を思い描き、様々な案を出し合った。それはリーベルの恩返しの気持ちを伝える、ささやかで、でもたしかな希望のかたちだった。




