037 「友情」
リリィは食堂で作ってもらったサンドイッチを、アルメリアはお茶のセットを持って、並んで廊下を歩く。
アルメリアと並んで歩くのは、なんだか少し緊張する。しかし今はそれ以上に、この後どうすればいいのかという不安が、胸の内で絶えず叫び声をあげていた。
そうして二人は、目的の扉の前にたどり着く。リリィが軽くノックをすると、中から「どうぞ」という小さな声が返ってきた。
そっと扉を開けると、リーベルは机に向かって何かを書いていた。…日記帳だ。昨日から書き始めた、大切な一冊。
「リーベル。ただいま。」
「ああ!おかえり、リリィ。早かった……あれ?」
リーベルは視線を上げ、リリィの隣にいるアルメリアに気づく。少しだけ、目を細めた。
「…どうしたの?アルメリア。まだ何か……教えてほしいこと、あるの?」
二人の間に微妙な空気が漂っている。さっきもこうだったのだろうか?…いや、もしかしたら、わたしがいるからかもしれない。
リリィはフォローを入れた。
「あっ、えっと……お茶をしないかって誘ってくれて……それでわたし、リーベルとの約束もあったから、リーベルも一緒にどうかって提案したの。」
リリィの言葉に、アルメリアは丁寧にお辞儀をする。
「突然でごめんなさい。少しだけ、一緒に過ごせたらと思って……」
リーベルはじっとアルメリアを見つめたあと、小さく微笑みを浮かべた。
「……そう。じゃあ、少しだけ。」
「ありがとう……嬉しいわ。」
三人はそのまま、リーベルの部屋のテーブルへ向かった。白いティーカップから立ちのぼる、紅茶のやさしい香り。正午の日差しはやわらかく庭を照らし、花々の色を一層鮮やかに見せていた。小さな丸テーブルの上には、クッキーとサンドイッチが可愛らしく並んでいる。
けれど、テーブルを囲む三人の空気は、どこか落ち着かないものだった。
「それでね、アルメリア。さっきの紅茶の話だけど……この香りって、やっぱり東の国から来た種類だと思うの。前に先生がちょっとだけ分けてくれて、それを嗅いだときと同じ香りだった気がするの。」
リーベルはティーカップを両手で包みながら、楽しげな口調で話し続ける。けれどその語りは、どこか焦るように、間を与えない速さで続いていく。
「あと、紅茶って収穫された季節でも味が全然違うらしくてね。わたしは、春の茶葉は甘くて、夏は渋みが強く感じるかな?でもその渋みがまた良くて……あっ、でも秋も好きかな。落ち着いてる感じがして……」
「…その、リーベ……」
アルメリアが何か言いかけた瞬間を見逃さず、リーベルはすぐに話題をつなげた。
「そういえば、この茶器もすごく綺麗。この模様って、王都でしか作られてないって知ってた?ねぇリリィ、どう思う?こういうの、好き?」
「あ……うん。とても綺麗だと思う。」
リリィは、少しだけ返事に迷った。
──おかしい。
リーベルの話すことは、どれも明るく、楽しげな話題ばかり。けれど、その隣で微かに揺れている手元や、笑顔の奥の緊張を、リリィは見逃していなかった。
リリィはそっとアルメリアを見た。彼女はさっきから、ほとんど言葉を挟めていない。控えめな微笑みはそのままだけれど、目は少しだけ伏せられ、口元は何度も言葉を飲み込んでいる。
──リーベルは、どうしてこんなに話し続けるの……?
リーベルが人見知りな子ではないことは、リリィはよく知っている。けれど、これではまるで……そう、「誰にも会話を渡したくない」かのようだ。
アルメリアの話を遮り、話題を変え、そしてまた自分の話に戻す。
それはまるで、何かから自分を遠ざけるように。
──もしかしたら、リーベルは……もう、自分の心と向き合いたくないのかもしれない。
リーベルは昨日、あれほどまでに弱さを見せた。そして今朝も──旦那様に対する、苦い恋心……それを改めて、わたしに託してくれた。わたしと一対一で話す時のリーベルの言葉は、どれも心の奥底にしまい込んでいた本心だ。
そんな彼女が今、無理にでも明るくふるまい、場を支配しようとしているのは、誰かと本当に仲良くなるよりも、ただ「自分が傷つかない場所」を守ろうとしているように見えた。リーベルはもう、アルメリアが過去の出来事に触れようとしているのを、察知しているのだろうか。
アルメリアもそれを、どこかで感じ取っているのだろう。言葉を挟めずにいるその様子からは、徐々に諦めの色が滲み始めていた。
「……フフ。ねえ、リリィ、今度リリィにも、紅茶について教えてあげたいな。図書室にきっと詳しい本が……」
リーベルの声に、リリィはそっと頷きながらも、心の奥で思った。
──リーベル。あなたが、少しでも楽になれるように。私は、どうすればいいんだろう……?
リーベルの部屋に甘い香りの紅茶が満ちる中、静かにお茶会は進んでいく。けれど、その空気はどこか不自然だった。
「そういえばさ、リリィ。さっきの紅茶の話の続きだけどね……」
「あっ!もしかしたらこのカップ、院長先生のコレクションなのかな?」
「お屋敷に行ったら、もっとすごいお菓子も食べられるかもよ?」
リリィは何度かアルメリアに水を向けようとした。「アルメリアはどう思う?」と問いかけたり、話題を変えたりもした。けれどその度に、アルメリアが短く返事をした後、リーベルは待っていたかのように声を被せてくる。
アルメリアは最初こそ、笑顔で応じていた。だが、その表情は次第に曇り、優雅な笑顔も引きつっていく。やがて紅茶を一口飲み、無理に笑顔を作ったまま口を開いた。
「ごめんなさい。もう一つ別の種類の紅茶があったの、持ってくるわね。」
リーベルもリリィも返事をする前に、アルメリアはさっと立ち上がり、ティーポットを手にして部屋を出ていった。
リリィはしばらく扉の方を見つめていたが、ふと顔を伏せたままのリーベルに視線を向けた。リーベルはカップを手にしながらも、それ以上何も言わない。ただ、沈黙が室内に重く落ちる。
「ねえ、リーベル……」
リリィが静かに声をかけると、リーベルはわずかに身じろぎし、視線を向けた。
「さっき、すごくたくさん話してたけど……疲れてない?」
リーベルは一瞬、言葉を失いかけたようにまばたきをし、視線を泳がせた。そして、何とか笑おうとしたが、その笑顔は弱々しかった。
「疲れてなんて、ないよ。ただ……話したいこと、たくさんあっただけ。」
「……そうかな。わたしには、ちょっと無理してるように……見えたよ?」
リリィは言葉を選びながら、静かに、真っ直ぐにリーベルを見た。リーベルは少し目をそらし、唇をかすかに噛んでいる。
「リーベル、正直に……言うよ?わたし……リーベルとアルメリアの間に、昔何があったか……アルメリアから、聞いたの。」
リリィがそう言うと、リーベルはふいに目を伏せ、ぎゅっとカップを握った。
「……フフ……なんだ。それじゃ……わたしが、すごく意地悪してるみたいだよね。」
リーベルがぽつりと呟いた。声は弱く、けれどどこか、投げやりな響きがあった。
「……もう、いいんだよ。アルメリアはきっと、あの頃の事を謝って、仲直りしたいって思ってるんでしょうけど……別に、アルメリアは悪い事をした訳じゃない。ただ、わたしよりも一緒にいて楽しい友達が沢山いて……そっちを選んだだけ。そんなの……普通だよ。」
「リーベル……」
「だから……忘れて?リリィ。お願い……」
リーベルは静かにそう言って、目を閉じる。そして、そのまま紅茶を一口飲み、カップを置き、ゆっくりと息をついた。
「フゥ……。リリィは……アルメリアのしたことが、悪い事だと思ったんだよね?それで、わたしとアルメリアが、いつまでも打ち解け合えないままになる……そんなの、良くないって… 思ったんだよね?」
「……」
「……もう、大丈夫なんだよ。誰も悪くない……一緒にいて、楽しい方を選ぶのが普通だもん。今更、そんなことを気にしてたって……どうしようもないよ。」
「でっ、でも……!」
リーベルは、空になったカップの縁を指でなぞる。その動きは無意識で、どこか空虚だった。
「いいの。奴隷だったわたしは……簡単には他の子のことを、信じられない。笑い方も分からなかったし、話題についていくのも下手だった。だからあの子は、わたしから離れていった。それだけのことなんだよ。」
リーベルの視線が、やっとリリィの方に向けられる。だがその瞳には、どこか諦めと、拗れた期待が混ざっていた。
「全部の人と分かり合えるわけじゃない。リリィだって分かってるでしょ?アルメリアは十分、友達も人気も持ってた。わたしがそこに入る余地なんて、なかったんだよ。」
リリィは何か言おうと口を開きかけた。しかし、その前に。
「でも……」
リーベルが身を乗り出し、真っ直ぐに言葉を投げかけた。
「でもね、聞いて?リリィ。わたし……今、とっても幸せなの。……リリィがいれば、それでいい。わたしには……リリィさえいてくれれば、それで十分だって……分かったの。」
リリィは目を見開く。その一言はまるで、境界線を引くような宣言だった。たった一人だけを求めるその言葉には、強い執着と、そして誰にも見せたことのない弱さが滲んでいた。
「他の誰とも、比べたくない。リリィだけは……リリィだけは……。わたしのこと、分かってくれる……よね?」
リリィはその言葉の重さを、しばらく受け止めきれずに黙っていた。胸の奥に何かが引っかかる。リーベルの孤独を知っているからこそ、何も言い返せなかった。
だが確かにそこには、ただの友情とは異なる、強い感情が宿っていた。
リーベルの声が、静かに部屋の空気を染めていく。
「……リリィさえ、いれば……それでいいの。」
その言葉は、まるで祈りのようだった。けれど、同時に──呪いにも似ていた。強固に結ばれた鎖のように、決して解けぬ想いが、リーベルの声には宿っていた。
リリィは、言葉を失っていた。心に重く沈む何かを抱えたまま、ただ、リーベルを見つめていた。
彼女は笑っている。まるで、ヒビの入ったガラス細工のように、触れれば壊れてしまいそうな笑顔。しかし、それでいて、誰よりも強い願いを秘めているように見える。その瞳には、置き去りにされた過去の寂しさが、幾重にも重なって映っていた。
徐々に離れていく、心の距離の記憶。選ばれなかった痛み。
それらすべてを、リーベルは今、「リリィ」にだけ向けて託している。
──重たい。
正直に言えば、リリィには重すぎた。リリィは既に、リーベルの恋を背負っている。それに加えてさらに、リーベルの「友情」の一切を……
……いや、今から背負おうとしているものは、ただの友情ではないような気がする。
でも……それでも。
リーベルがこんなふうに、自分を欲してくれていることが、嬉しい。
今、目の前にいる人は……自分のことを、何よりも必要としている。こんなことは、初めてだった。誰かに心から必要とされること。それは、今まで誰からも必要とされず、見捨てられ続けてきたリリィにとって……あまりにも温かく、そして無意識に、心の底で欲していたものだった。
「……リーベル。」
ゆっくりと。けれど、はっきりと、リリィは言葉を紡いだ。この言葉を口から出してしまえば、もう二度と後戻りできなくなると知りながら。
「わたしは……リーベルの親友。ずっと。……これからも、ずっとずっと、一緒だよ。」
リーベルの瞳が、わずかに揺れる。涙が零れるかと思ったけれど、彼女はただ、笑った。
その笑顔は、まるで幼い子供のように純粋で、傷だらけで……「信じたい」という願いが、見て取れるようだ。
リリィは手を伸ばし、そっとリーベルの手を取った。指先が震えているのは、自分なのか、それとも彼女なのか、分からなかった。
そして……リーベルの目から、一筋だけ、涙が溢れた。
その涙はきっと、何もかもに置き去りにされ続けた日々に、さよならを告げるためのものだったのだろう。




