036 手の届かない友達
朝食を終える頃、陽はようやく高く昇りはじめ、食堂の窓からやわらかな光が差し込んでいた。リリィが食器を片づけようと立ち上がると、隣に座っていたカリタスが、少し照れたように、けれどしっかりとした声で言った。
「今日はありがとう、リリィ。友達になってくれて、本当に嬉しい。わたし、頑張るから!じゃあ、またね!」
笑顔でそう言うと、カリタスは慌ただしく自分のトレーを片付けて、食堂を後にする。リリィはその背を見送りながら、小さく笑みを浮かべた。
「……わたしも、頑張らないと。」
そう呟き、リリィは図書室に向かおうと、ゆっくりと席を離れた。
──
「……さあリリィちゃん!もう少しよ!七個のリンゴが入った箱が九つ……ど、どうかしら!?」
「う〜〜ん……」
今日のお勉強もなかなかに大変だった。カリタスはこんな問題は余裕なのだろうか……一度、カリタスがどんなことを学んでいるのか見てみたい。
──昼の暖かな光が差し込む廊下を歩きながら、リリィは再び食堂へ向かっていた。明日はどんなお勉強なのか……そんなことを考えながら歩いていたその時。
「こんにちは、リリィ。」
やわらかな声が、頭上からかけられた。
見上げると、そこに立っていたのは、金色の髪をゆるやかに結ったアルメリアだった。美しい微笑みを浮かべ、リリィの目をまっすぐに見つめている。
「アッ、アルメリアさんっ、こんにちは!」
リリィは少し緊張しながらも頭を下げた。アルメリアはその仕草に、くすっと笑う。
「フフ……ねえ、リリィ。突然なのだけれど、もしよかったら少し……一緒に、お茶をしないかしら?」
「お茶……ですか?」
「うん……私ね、できるだけ早く、ヴェルメイン先生のお屋敷に行く子とお友達になっておきたいの。それで……あなたとゆっくり話してみたいなって思って。」
「わ、わたし……ですか?」
「ええ。」
リリィは戸惑っていた。旦那様のお屋敷に一緒に行くというだけで、こんなにも早く友達が増えるものだろうか?しかも、今目の前にいるのは……
「わ、わたしなんか……あなたには、もったいないです……よ?」
リリィの言葉に、アルメリアは少し悲しそうな表情をした。
「あら……リリィ?そんなことは決してないわ。私とあなたは、同じここの子。あなたはここに来たばかりなのでしょうけど……そんな風に思う必要はないのよ?」
その言葉に、リリィは少し迷う表情を浮かべた。そして、正直な気持ちを打ち明けることにした。
「……あ、あの、わたし……まだ、友達って、よく分かってないですし……と、友達が増えるのは嬉しい、ですけど……」
リリィのその言葉を聞くと、アルメリアはゆっくりと膝を抱え込んでしゃがみ、リリィと目線の高さを合わせる。
「フフ……そう。リリィは本当にいい子なのね。……リーベルが、あなたのことをとっても気に入っているのも納得だわ。」
「え……?」
(アルメリアは、わたしとリーベルの関係を知っているの?)
アルメリアは言葉を続ける。
「今日ね?私、お紅茶についてリーベルに聞きたくて……リーベルに尋ねに行ったのよ。そしたら……リーベル、今までに見たことないくらい、ご機嫌だったのよ?」
「リーベル、が?」
「ええ。リーベルがここに来て、九年……かしら?あんなに笑顔のリーベル、見たことないわ。『どうしてそんなに嬉しそうなの?』って聞いてみたら……リリィって子と親友になったって……」
アルメリアは、生まれた後すぐから、ここで暮らしている……ここにいる長さで言えば、アルメリアが一番なのだろう。この孤児院はできて十数年だと、ヴィオレッタ先生は言っていた……もしかしたらアルメリアは、この孤児院と共に育ったようなものなのだろうか?アルメリアは、リーベルがここに来た時から、リーベルのことを知っている。リーベルは、病気のことはあっても、活発な子だと思っていたが……普段は大人しいのだろうか?……いや、何か別の理由が……
そう考えていると、アルメリアは突然顔を曇らせ、こんなことを尋ねてきた。
「……ごめんなさい、リリィは、知っているかしら?リーベルの、悩み……」
しっかりと覚えている。リーベルの、心の一番奥にしまい込んでいた悩み……
「……はい。」
「……その……あくまで、私の推測なのだけれど……リーベルは、自分がなかなか、他の子と遊ぶのが難しい体だから……友達ができたとしても、だんだんと距離が離れていく……それが、悩みなのよね?」
「……その通り、です。リーベルは……誰も、自分の事を一番の友達だって思ってくれないって……」
そう言うとアルメリアは、しゃがんだまま俯き、ゆっくりと目を閉じた。
「ああ……本当に……ごめんなさい、リーベル……」
──その後、アルメリアはしばらくリーベルに謝り続けていた。食堂の前の廊下の中、しゃがみ込みながら何かを呟いていては心配されそうだったため、リリィはひとまず食堂へ入ろうと勧めた。リリィとアルメリアは向かい合い、食堂の端の方の席に座る。
「アルメリアさん、大丈夫です……か?」
アルメリアの目は、少し赤くなっていた。
「……ごめんなさい、取り乱してしまって……」
「い、いえ……」
アルメリアのこんな姿を目にするとは思っていなかった。しかし……
「リーベルと……何か、あったのですか?」
「……ええ。リーベルの悩みの、種になったのは……きっと、私なのよ……」
「悩みの……種?」
「……あの子がここに来たのは九年前……あの子は、私と同い年だったわ。私は……本当に嬉しかった。なにせ……ここには、私と同い年の女の子が、リーベルしかいなかったからよ。……あ、私とリーベルは、今16歳ね。」
「そう、なんですね……」
「……私は、リーベルとお友達になりたかった。あの子のお部屋を訪ねて……三回目の時、勇気を出して、お友達になろうって言ったの。リーベルは……嬉しそうに、受け入れてくれたわ。」
アルメリアは懐かしそうに語る。しかし突然、また悲しそうに俯いた。
「……私は、リーベルのこと、何も考えていなかった。ただ、同い年のお友達が欲しいって、そればかり……私は、リーベルとお友達になれた、同い年のお友達を作った……ただその事実だけで、満足してしまったのよ。」
唯一の同い年であるリーベル……長らくここで暮らしていたアルメリアは、心待ちにしていたはずだ。しかし……アルメリアはきっと、他にもたくさんの友達がいたのだろう。
「あの子は……骨が弱くて、あまり長く遊べない。一緒に食事をしたり、お風呂に入ることもなかなかできない……私は……リーベルから、だんだんと離れていったわ……」
「……」
「……私は、あの子がここに来て、初めてできたお友達……そんな私が、だんだんと距離を置くのよ。きっと……裏切られたように感じたでしょうね……」
「リーベル……」
「……ごめんなさい、リリィ。『友達』というものをよく分かっていないのは、私の方だわ。軽々しく誘ってしまって……私は本当に、目先の事しか考えていないんだわ……」
初めてできた友達が、だんだんと疎遠になっていく……リリィは、リーベルが自分からだんだんと離れていく様を想像した。すると、感じたことのないモヤモヤドロドロとした黒い何かが、胸の中に広がっていくのを感じ、すぐにやめた。
「私は、リーベルがこんな風に悩んでいるって、三年前くらいから、だんだんと気付き始めたのだけれど……もう、遅かったわ。リーベルは、私がお部屋を訪ねても、嫌な顔一つしない……もうその悩みを、心の奥にしまい込んでしまっていたのよ……」
リリィは、自分の事を思い返す。
(わたしも、『友達』というものをよく分かっていなくて、リーベルに友達になろうって言った……もしリーベルが、秘密を打ち明けてくれなかったら……わたしも、だんだんリーベルから、離れていっちゃってたのかな……?)
「……そして私には、そんなリーベルの悩みに、触れる勇気は無かった……私には、リーベルの悩みに寄り添う権利なんてない……いや、今考えてみればそんなのも、ただ逃げて、忘れたいと思っているだけみたいね……」
(アルメリアはこのまま……リーベルと会う時は、心の中でモヤモヤを抱えたまま過ごすことになるの……?リーベルだって……)
リリィは、このままアルメリアが、リーベルと打ち解けないままでいるのは、良くないような気がしていた。
「アルメリアさん……」
「…なにかしら?」
「お茶会、しましょう。」
「え……そんな、いいのよ……私から誘っておいて、本当に申し訳ないけれど……」
「いや、二人じゃ、なくて……リーベルと一緒に、三人で……」
「……!」
リーベルの深い悩みの、最初の種。わたしは、リーベルにとって初めての親友になれた……けれど、それでリーベルの悩みが解決したわけじゃない。リーベルは今も、わたしとの距離感に悩んでいる……その証拠に、リーベルは昨日、わたしと離れることに強い抵抗感を示していた。
「一緒に、話して……リーベルを少しでも、楽にしてあげません……か?」
「リ、リリィ……」
「お願い、します……」
リリィは小さな声で、しかし力強くアルメリアを見つめながら、頼み込んだ。
「……ええ。分かったわ。もう、逃げてちゃ、ダメよね……」
「ありがとう、ございます……わたし、午後に、リーベルと会う約束があるんです。一緒に……行きましょう。」
アルメリアは黙って頷いた後、ほんの少しだけ目線を外し、何かを考えるように沈黙した。そして、再びリリィに向き直る。
「よろしくね、リリィ。」
「はい。よろしく、お願いします……」




