035 知恵の糸口は昏く深く
パンの香ばしい香りと、あたたかなスープの湯気に包まれた食堂の一角。リリィとカリタスは向かい合って朝食をとっていた。カリタスはリーベルとは違い口数は少ないものの、どこかほっとする静けさが心地よい。リリィは会話の流れの中で、ふと気になっていたことを口にする。
「カリタスって……どうして、そんなに勉強熱心なの?」
スプーンを動かしかけていたカリタスの手が、ぴたりと止まる。大きな瞳が一瞬揺れ、俯いたまま少しだけ黙り込んだ。リリィは、触れてはいけないことだったかもしれないと思い、謝ろうとしたが、カリタスはゆっくりと顔を上げると、真剣な表情で口を開いた。
「……リリィとは友達になるって決めたから。だから、ちゃんと話すね。…えっと……わたしは、ここから少し遠いところにある、山の方の村で生まれたんだけど……」
それは、まだカリタスが本当に幼い頃のことだった。
山岳地帯の奥深く。空気は澄み、夏には野花が咲き乱れ、冬には一面の雪に覆われる静かな村。カリタスは両親と一緒に、慎ましくも穏やかな暮らしを送っていた。村の人々は皆優しく、自然と共に生きる日々は、まるで童話の世界そのものだった。
だがその幸せは、ある夜、突然破られた。
「山賊だ!隠れろッ!」
夜空を焦がす炎と共に、村に絶叫が響き渡った。遠くで牛の鳴き声が響き、人々の叫び声が入り乱れる。家々は次々と燃やされ、畑は荒らされ、物資は奪われていった。
カリタスの一家は山道へと逃げた。父は馬車の手綱を握る手を怒りに震わせ、母は泣きながら幼いカリタスを抱きしめていた。
命だけは、なんとか助かった。
翌朝、煙の匂いがまだ漂う村に戻った時、そこには倒れたまま動かない人々と、瓦礫となった家々しかなかった。
「……どうして……」
立ち尽くすカリタスの足元には、血の跡が広がっていた。生き残った大人たちは忙しく人を運び、傷の手当てに奔走していた。しかし、道具や薬のほとんどが盗まれてしまっていたため、瓦礫の除去や怪我人の治療は遅々として進まなかった。カリタスは手伝おうとしたが、力も知識もない自分に、できることは何もなかった。
「かあさま……わたし、なにをしたらいいの?」
「……いいのよ、カリタス。あなたは、ただ生きていてくれているだけで……」
父も母も、生き残った村人も、みんなそう言う。わたしは、ただ生きてくれているだけでいい。
大人たちは、みんな必死に働いているのに、自分は、ただ見ているだけ。何もできない自分に、どうしようもなく苛立った。
……そして、災難はまだ終わっていなかった。
盗賊の襲来から三日が経った頃、生き残っていた村人達が、突然倒れてしまうという事態が起こり始めた。そしてそれは、カリタスの両親にも起こった。
カリタスは一週間程の間、必死に両親を看病したが、二人の容態は悪化していくばかりだった。
「とうさま!かあさま!わたし、街までいって、おくすり買ってくるから!」
「……ダメだ、カリタス。ゲホッ… 何日かかると思っている……」
「でもっ!」
「…あと数日で、王宮の調査団が来る。それまで、待っていなさい……」
「……どうして、わたしには、何もさせてくれないの!?お馬さんのお世話とか、お野菜の収穫とか、たくさんさせてくれたよね!?」
「カリタス……それとは……」
「……分かってるよ。それとは、違うんだよね。わたしは、何も知らない。みんなのケガを治す方法も、病気を治すお薬が何かも、分からない。」
カリタスがそう呟くと、母は痩せた手で、そっとカリタスの手を握った。
「カリタスは……本当に賢い子よ。なんでもすぐに覚えて……でもね、この病気を治す方法は……誰にも、分からないのよ……」
「かあさま……教えてよ……わたしは、どうしたらいいの……?」
「……あなたは、ただ、生きてさえいてくれれば……」
「……っ!!」
カリタスはもう、我慢できなかった。何も知らないなら、何も行動しなくていいの?……いや、違う。わたしがもし薬を買ってくることができたら、みんな助かるかもしれない。その可能性が、少しでもあるなら……
カリタスは勢いよく立ち上がると、瓦礫の中から見つけていた、僅かな宝石の装飾具を全て麻袋に詰めた。
「カリタス!待ちなさっ…… ゲホッゲホッ……」
「生きてたって、何もできなきゃ意味ないよ!!」
そう叫んで、カリタスは村を飛び出した。
「どうしたら助けられるの……?どうしたら……っ」
街へと続く果てしない山道を駆け下りながら、カリタスは考えた。この宝石を売って、何の薬を買えばいい?薬屋はどこにある?……そもそも、街まで辿り着けるの?
──結局、カリタスは街に辿り着くことができなかった。食糧を何も持っていなかったため、食べられる野草を見つけるしかなかった。いくら歩けど街は見えてこず、ただひたすらに、鬱蒼とした森が広がるだけだった。もう、幼い少女の体力は限界を迎えていた。カリタスは、歩き始めて二日目の夜、両親の言葉を思い出した。
「生きてさえいればいい。」
それが、カリタスに課された唯一の使命。
(このまま進んで、もし死んだら……わたしは、本当に何もできなかったことになるの……?)
両親はそもそも、自分の病を治したいとは、もう思っていないのかもしれない。ただ、たった一人の娘の無事を祈っていた……カリタスはそう考えた。
(もし、わたしが死んでしまいそうになった時に、わたしの子が窮地に陥っていて、無事か分からなかったら……)
そう想像した時、カリタスは自分の行いを激しく後悔した。両親は、とてつもない不安と苦しみの中で、生と死の瀬戸際を彷徨わなければならないのか?自分の病が、治る見込みのないものだと分かっているのならせめて、娘に見守られながら、安らかに死を迎えたいのではないか?
──カリタスは走った。凶暴な獣たちが虎視眈々と獲物を探す夜の森の山道を、とうに限界を迎えた足で駆け上り続けた。何度も転んでは、その度に両親のことを思い出す。
(絶対に、帰らなきゃいけない……!!)
装飾具を詰め込んだ麻袋も途中で投げ捨て、我を忘れてひたすらに走った。
──走り始めて丸一日が経つ頃の夜中、カリタスは村に戻った。もはやそこは、村と呼べる有様ではなかった。簡易的な小屋の中で、ほとんどの村人が病に伏しており、死人も出始めているようだった。ただその中で、カリタスの両親は、辛うじて息絶えてはいなかった。
「とうさま!!かあさま!!ごめんなさいっ……!!」
「……あぁよかった、カリタス……」
「ああ……生きていたか……」
カリタスは、空腹も痛みも全て忘れ、ただ両親の手をしっかりと握りながら、静かに座って眠った。
──その明け方、目を覚ますと、父の手が冷たくなっていた。カリタスは泣きながら呼びかけたが、二度と瞼を開くことはなかった。そして、それを追うように、昼頃、母も天国へ旅立った。
その次の日の朝方、泣きながら細々と雑穀を食べていたカリタスは、村に到着した調査団に保護された。麓の街へ向かう途中、馬車に揺られながら聞いた話によると、村の井戸に毒が仕込まれていたらしい。カリタスの村は長い間、山賊の活動を監視し、抑え込んでいた。今回の大規模な襲撃は、ただ物資を盗むためのものではなく、完全に村を滅ぼすためのものだったのだ。
カリタスは、昔から村の外れにある泉で水を飲むのが好きで、それが習慣になっていた。その結果、自分だけが毒に侵されず、生き残ることができたのだ。
その後、騎士団の元で保護されていたカリタスは、この孤児院で暮らすことになった。
自分は、生きることができた。たったひとつ与えられた、自分の使命をやり遂げたのだ。しかし、あの時の叫びたくなるほどの無力さが、消えたわけではなかった。自分にもっと知識があれば、村を救えたのではないか?その消えることのない後悔が、カリタスの胸に深く刻み込まれた。
そして、カリタスの瞳は再び現在へと戻る。リリィの前で、そっと微笑んでみせた。
「だから、勉強するの。今度こそ、誰かを助けられるようにって。わたし、絶対にお医者さんになる。」
言葉の奥に、震えるほどの覚悟と優しさが宿っていた。リリィは目を見開き、そして静かに頷いた。
「……すごいね、カリタス。……本当に、素敵だと思う。」
そう言って微笑んだリリィの笑顔に、カリタスもまた、小さく安堵の息を吐きながら頷いた。
「ありがとう、リリィ……」




