033 始まりの日
その後しばらく、リリィは抱きしめられたままでいた。リーベルは一向に腕の力を緩めようとはしない。
「リ、リーベル……?そろそろ……寝ようか?」
リリィがそう声をかけると、リーベルはハッとしたように顔を上げ、リリィから手を離した。
「あっ、ごっ、ごめんリリィ!苦しかった!?」
「ううん、大丈夫だよ。じゃあ……寝ようか?リーベル。」
リリィがそう言うと、リーベルは少し迷っているような表情をした。
「……どうしたの?」
「……その……寝る前に、ちょっとだけ……やりたいことがあるの。」
そう言って歩き始めると、リーベルは部屋の本棚に向かい、慎重に一冊の本を取り出す。
薄いピンク色の布張りに、金色の刺繍が施された、どこか特別な雰囲気を持つ冊子……
「日記帳……?」
リリィが小さく首をかしげると、リーベルは笑いながらこくりと頷いた。
「うん。……今日から、書いてみようかなって思って。」
「え…?じゃあ、今までの日記は……?」
リリィが問いかけると、リーベルはふと視線を落とし、ほんの少し照れたように肩をすくめた。
「……書いたこと、なかったの。この日記帳は、随分前にメリー先生から貰ったんだけど……書く気に、なれなくて。ずっと気になってはいたんだけど……」
そしてリーベルは、しっかりとリリィを見つめて言う。
「一番最初のページには、どうしても……『本当に嬉しかったこと』を書きたかったの」
リリィが目を見開くと、リーベルはそっと笑って言葉を続けた。
「今日ね……親友ができたんだよ?ねえ、これって、十分すぎるくらい『本当に嬉しいこと』でしょ?」
そう言って、リーベルは椅子に腰を下ろし、日記帳を机に置いて、丁寧にページを開いた。白く整ったその紙面に、彼女はペンを走らせる。
「今日、私は『リリィ』と親友になりました。」
それは、少し揺れた文字で、それでも真っ直ぐな気持ちが詰まった一文だった。
「初めての親友。おめでとう、わたし。」
そして、ペンを止めたリーベルは、そっとリリィを見上げた。
「ねえ、リリィ……。わたしの、いちばん最初のページに……リリィも何か、書いてくれない?」
その声は、どこまでも純粋で、あたたかく、胸に染み入るような響きだった。
リリィは一瞬戸惑いながらも、笑顔で頷くと、リーベルからペンを受け取り──リーベルの文字の下に、丁寧に記した。
「わたしの、初めての親友、リーベル。ずっとずっと、一緒だよ。」
リーベルはそれを見て、胸いっぱいの笑顔をこぼした。
その笑顔が、今日という一日を、真新しい日記帳の1ページ目を、さらにかけがえのないものにした。
リリィはそっとペンを置くと、リーベルは両手で日記帳の表紙をそっと閉じた。パタンと鳴ったその小さな音に続いて、彼女は顔を上げ、リリィの手をぎゅっと握った。
「……ありがとう、リリィ。わたし、本当に嬉しいの。初めてのページが、こんなに素敵な日になるなんて……思ってなかった。」
その瞳は少し潤んでいて、けれど溢れることはなく、言葉以上にまっすぐな気持ちがそこに宿っていた。
リリィも、リーベルの手を握り返して、そっと微笑んだ。
「わたしのほうこそ……ありがとう。こんな大切なページに、わたしの言葉を書かせてくれて……すごく嬉しかった。」
二人はしばらくそのまま見つめ合い、そして、自然と笑い合った。
やがて、リーベルは灯りをそっと消し、二人は並んでベッドに入った。
リリィは、てっきりリーベルがまた勢いよく抱きついてくるのでは、とほんの少しだけ身構えていた。けれど──
リーベルは何も言わず、静かにリリィに背を向けて横になった。
(……あれ?)
少し意外に思ったリリィは、その背中を見つめる。
リーベルの肩は小さく揺れていて、どこか力が入っているようだった。
(……さっきのこと、気にしてるんだ。夢中で抱きしめちゃったこと……)
そう思うと、リリィの胸にあたたかい何かが広がっていく。
リリィは静かに手を伸ばし、リーベルの背中にそっと触れる。驚かせないように、やさしく、ゆっくりと腕を回し込む。
「……っ」
リーベルの身体がぴくんと震えた。
「リリィ……!」
小さな声がこぼれたかと思うと、リーベルは勢いよく振り返り、リリィにしがみつく。
その腕には、迷いも、遠慮もなかった。
「ありがとう……」
リーベルの声が、リリィの頭の上でそっと響いた。
リリィは黙って、リーベルの腕の中に収まったまま、優しく背を撫でる。すると不意に、か弱い、寂しげな声が聞こえてきた。
「……ねぇ、リリィ……」
「…なに?」
「リリィが、先生のお屋敷に行ったら……わたし……」
リーベルはそこまで言って口を噤む。リリィはしばらく考えた後、そっと囁きかけた。
「……リーベル、わたし……手紙を書くよ。毎日、届けてもらえるかは、分からないけど……でも、リーベルのこと、絶対忘れないよ。」
リリィがそう言うと、リーベルはさらに身体を寄せ、リリィを抱きしめた。
「だいすき……リリィ……」
そうして二人は、互いのあたたかさを感じながら、ゆっくりと眠りの中へと沈んでいった。
──
リリィがリーベルの部屋に入る少し前、集会が終わった後のこと。院長室には、子どもたちの賑やかな声が消えた後の静けさが広がっていた。月明かりが窓の外に降り、部屋の中は暖かなキャンドルの明かりに包まれている。
ヴェルメイン先生は、絨毯の上に座ったまま動かない少女にそっと視線を送った。
──フリーシア。
他の子どもたちがすでに部屋を後にしていく最中、ただ一人、その場に留まり続けていた。
(……どうしたものか。)
しばらく黙って様子を見ていたヴェルメイン先生は、子どもたちを見送っていた院長先生に目を配る。院長先生は、その視線に気づいたようだ。
「……旦那様。後は……」
「はい……。大丈夫です。」
「…承知致しました。おやすみなさいませ。」
そう言うと、院長先生は礼をして、そのまま部屋を出て行った。
ヴェルメイン先生は、少女に静かに歩み寄る。やがて、フリーシアの傍で膝をつき、優しく声をかけた。
「……もう、集会は終わったよ。」
フリーシアは応えない。けれど、わずかに睫毛が揺れた。
「大丈夫かい? 具合でも悪いのかと思ってしまったよ。」
その言葉に、ようやくフリーシアが唇を開いた。
小さく、けれど確かに──
「……褒めて。」
ヴェルメイン先生の表情がやわらぎ、ふっと微笑みが浮かぶ。
「……よく頑張った。」
それを聞いたフリーシアは、ゆっくりと顔を上げ、伏せていた瞳をまっすぐに向けた。
「もっと……もっと、褒めて。」
その声には、かすかな震えと、儚い願いが滲んでいた。
ヴェルメイン先生はそっと手を伸ばし、フリーシアの柔らかな髪に指を絡めるようにして撫でる。指先には、少女のかすかな熱が伝わってきた。
「本当に……よく頑張ったよ、フリーシア。ここに集まってくれたこと、心から感謝するよ。」
フリーシアは微かに笑みを浮かべ、そのまま目を閉じた。フリーシアは、アルメリアやアンドリューと同じ年頃であった。しかし、その横顔には、ほんの一瞬だけ、年相応ではない幼さが垣間見えた。
ヴェルメイン先生は、優しく撫でる手を止めずに、そっと言葉を落とす。
「……ただ、ひとつだけ。嘘は、良くないんじゃないかい?」
沈黙が落ちた。
フリーシアは、目を閉じたまま、小さく呟いた。
「……どうして?その方が、いいでしょう?……先生にとっては。」
その囁きは、まるで自分自身に言い聞かせるようだった。ヴェルメイン先生はその言葉に、すぐには返さず、ただ、フリーシアの頭をそっと抱き寄せながら、静かに瞳を伏せた。
「……いいんだよ、フリーシア。……ただ、君がそうしたいならば……尊重しよう。」
部屋には再び、深い静けさが訪れていた。




