表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【第一章完結】名もなき森の後砦   作者: フリィ
第一章 白蝶、夢を紡ぐ庭
32/69

032 白蝶の涙、ぬくもりに溶けて

院長先生が「自己紹介の後は、ヴェルメイン先生のお話しだよ。」と告げると、部屋の空気が自然と引き締まった。


子どもたちの視線が一斉に、部屋の隅に静かに立つヴェルメイン先生へと集まる。


ヴェルメイン先生は一歩前に出て、ゆっくりと口を開いた。


「まず最初に──」


低く穏やかな声が部屋に響く。


「一時的な移動に希望してくれたこと、そして、急な試験に応じてくれたことに、心から感謝する。君たちの真剣な姿勢に、私は深く感動した。」


子どもたちの間に、ほのかな緊張と誇らしさが入り混じった空気が広がる。


「これから話すのは、屋敷での生活に関する基本的な決まりごとだ。」


ヴェルメイン先生の表情は穏やかで、どこか優しさすらにじませていた。


「まず、生活のリズムについて。基本的には、この孤児院での生活と変わらないようにする。朝は決まった時間に起き、夜は決まった時間に眠る。それが健康を守る第一歩だ。」


子どもたちは一様に頷きながら聞いていた。


「食事については、屋敷のメイドたちが心を込めて作ったものを、みんなでいただくことになる。礼儀正しく、感謝の気持ちを忘れないようにね。」


言葉の一つひとつに、柔らかな、でも確かな重みがあった。


「また、屋敷では時折、パーティを開くことがある。君たちも、しっかりと身なりを整えれば参加できるよ。ただ、高貴なお客様がいらっしゃることもあるから、決して失礼のないように。必要な衣服はこちらで用意するから、心配はいらない。」


少し緊張した顔つきになった子もいたが、同時にどこかワクワクしている様子も見えた。


「最後に、外出についてだ。」


先生の声に、少しだけきびしさが宿る。


「屋敷の外に出る時は、必ず私か、メイド長のロザーナに伝え、許可を得ること。そして、護衛人を付けること。勝手に出歩くことは、あってはならない。これは、君たちを守るためだ。」


名前の出た「ロザーナ」という人物に、子どもたちは静かに耳を傾けていた。


「以上が、屋敷で暮らす上での基本的な決まりだ。分からないことがあれば、いつでも遠慮せずに尋ねてほしい。」


先生は子どもたちを見回し、やさしく微笑む。


「私の屋敷が、君たちが新しい一歩を踏み出す場所になることを願っている。緊張もあるだろうが、無理に大人にならなくてもいい。少しずつで構わない。少しずつ、自分らしく、歩いていけばいい。」


その言葉に、胸の奥が温かくなるのをリリィは感じた。


そして──静かに、希望の光が灯るのを、子どもたちは確かに感じていた。


ヴェルメイン先生は子どもたちをゆっくりと見渡し、声の調子を少しだけ緩めた。


「出発は、五日後の朝だ。それまでに、荷物を整えておいてほしい。自分の衣服、それと、勉強に必要なものがあれば十分だよ。」


子どもたちの間に、小さなざわめきが走る。ついに日取りが決まったことに、期待や緊張が一気に現れてきたのだった。


「それでは、今日はもう解散としよう。しっかり休んで、明日も元気に過ごしておいで。」


ヴェルメイン先生のやわらかな言葉と共に、院長先生もうなずき、部屋の扉が静かに開かれる。


絨毯の上に座っていた子どもたちは、立ち上がり、それぞれが思い思いの表情で部屋を出ていく。


リリィもまた、軽くお辞儀をしてから、廊下へと歩き出す。けれど、背後にふと違和感を覚えて、振り返った。


フリーシアが、まだそこにいた。


他の子たちが立ち上がり、動き出している中で、彼女だけが真顔のまま、まるで石のようにじっと座っていた。


──どうして、動かないんだろう?


リリィの胸に、言葉にできないざわめきが広がる。けれど、言葉をかけるよりも早く、その視界に一人の大人の姿が映る。


……旦那様だ。


静かに歩み寄った旦那様は、座ったままのフリーシアのそばに膝をつき、何かをそっと語りかけた。


その声は小さく、廊下に立つリリィには聞き取れない。けれど、フリーシアの肩がわずかに震えたように見えた。そして、ゆっくりと旦那様を見上げる。


──なんて、言ったんだろう。


気になる気持ちは膨らむばかりだったが、それでもリリィは、今すぐ行くべき場所があるのを思い出す。


「……リーベル、待ってるもんね。」


心の中でそう呟くと、リリィは廊下を振り返らず、静かに歩き出した。


リーベルの部屋の小さな灯りを目指して。あたたかな部屋で、誰かが待ってくれている──その事実が、胸の奥を少しだけ軽くしてくれていた。


リリィは静かに廊下を歩き、リーベルの部屋の前に立つと、そっとノックする。


「リーベル、わたしだよ。」


…しかし、返事がない。


「…リーベル?」


リリィは再びノックする。…やはり返事がない。リリィはドアノブに手をかける。鍵はかかっていないようだ。


「リ、リーベル?入って、いい?」


リリィが徐々に扉を開けてもなお、部屋の中は沈黙で満たされている。


「だ… だい、じょうぶ?……いないの?」


灯りはついている。ベッドも乱れていない。けれど、肝心のリーベルの姿が、どこにも見えない。


「……え?」


思わず、扉を開けたままリリィは一歩踏み込み、もう一度部屋を見渡した。


──おトイレ?それとも、他の子の部屋に?


そんな考えがよぎるよりも早く、背後で扉がふわりと揺れた。


次の瞬間──


「……ひぁっ!」


ふいに背中に柔らかいものがぶつかり、腕がリリィの体を抱きしめる。


「やっ、やめっ……!」


思わず声を上げかけたリリィだったが、その瞬間、ふわりと鼻をかすめた甘い香りに、ハッとする。


──この匂い。あったかくて、ちょっとだけ甘い、お花の香り……。


「……リーベル?」


「ふふっ、正解。」


リリィの背後から、楽しげな声が聞こえた。


「もう、びっくりした……!」


リリィが首だけを回して背後を見ると、リーベルは両腕をリリィの胸あたりに回したまま、イタズラが成功した子どものような顔をしている。


「ずっと待ってたの。だから、ちょっと意地悪しちゃった。」


そう言って笑うリーベルの目は、どこか安心したように潤んでいて、ほんの少しだけ赤い。


「……もう、からかわないでよ。」


そう言いながらも、リリィの頬には笑みが浮かんでいた。


リリィが笑みを浮かべたまま、そっと体の向きを変えようとしたその時──


「……」


リーベルは何も言わず、腕に力を込めた。ぎゅっと、強く、リリィの体を抱きしめる。


「リーベル……?」


リリィが静かに呼びかけると、彼女の肩越しに、ふわりと温かな吐息がかかった。


「……ごめん。」


リーベルの声は、かすかに震えていた。


「本当は、こんなつもりじゃなかったの……。でも、リリィのこと、待ってる間……どうしようもないくらい、寂しくなっちゃって……」


その声は、笑顔の下に隠していた心の奥から漏れ出るように、静かに、けれど深く響いていた。


「自分でも、分からないの。なんで、こんなに胸が苦しくなるのか……リリィのこと、考えると……どうしようもないくらい、切なくて…….」


リーベルはそっと、額をリリィの後ろ頭に寄せ、しがみつくように顔をうずめた。


リリィは戸惑いながらも、そっとその手に、自分の手を重ねた。


小さな指と指が触れ合い、リリィはリーベルの手をやさしく包み込む。


「……大丈夫。約束は、絶対に守るから。」


リリィの声は、まっすぐで、あたたかくて、何よりも優しかった。


「ずっと友達だよ。ずっと、そばにいる。」


その言葉に、リーベルの肩が、かすかに揺れた。


彼女の頬に、静かに、ひとしずくの涙が伝っていた。


それは、寂しさと安心が入り混じった、心の奥の涙だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ