032 白蝶の涙、ぬくもりに溶けて
院長先生が「自己紹介の後は、ヴェルメイン先生のお話しだよ。」と告げると、部屋の空気が自然と引き締まった。
子どもたちの視線が一斉に、部屋の隅に静かに立つヴェルメイン先生へと集まる。
ヴェルメイン先生は一歩前に出て、ゆっくりと口を開いた。
「まず最初に──」
低く穏やかな声が部屋に響く。
「一時的な移動に希望してくれたこと、そして、急な試験に応じてくれたことに、心から感謝する。君たちの真剣な姿勢に、私は深く感動した。」
子どもたちの間に、ほのかな緊張と誇らしさが入り混じった空気が広がる。
「これから話すのは、屋敷での生活に関する基本的な決まりごとだ。」
ヴェルメイン先生の表情は穏やかで、どこか優しさすらにじませていた。
「まず、生活のリズムについて。基本的には、この孤児院での生活と変わらないようにする。朝は決まった時間に起き、夜は決まった時間に眠る。それが健康を守る第一歩だ。」
子どもたちは一様に頷きながら聞いていた。
「食事については、屋敷のメイドたちが心を込めて作ったものを、みんなでいただくことになる。礼儀正しく、感謝の気持ちを忘れないようにね。」
言葉の一つひとつに、柔らかな、でも確かな重みがあった。
「また、屋敷では時折、パーティを開くことがある。君たちも、しっかりと身なりを整えれば参加できるよ。ただ、高貴なお客様がいらっしゃることもあるから、決して失礼のないように。必要な衣服はこちらで用意するから、心配はいらない。」
少し緊張した顔つきになった子もいたが、同時にどこかワクワクしている様子も見えた。
「最後に、外出についてだ。」
先生の声に、少しだけきびしさが宿る。
「屋敷の外に出る時は、必ず私か、メイド長のロザーナに伝え、許可を得ること。そして、護衛人を付けること。勝手に出歩くことは、あってはならない。これは、君たちを守るためだ。」
名前の出た「ロザーナ」という人物に、子どもたちは静かに耳を傾けていた。
「以上が、屋敷で暮らす上での基本的な決まりだ。分からないことがあれば、いつでも遠慮せずに尋ねてほしい。」
先生は子どもたちを見回し、やさしく微笑む。
「私の屋敷が、君たちが新しい一歩を踏み出す場所になることを願っている。緊張もあるだろうが、無理に大人にならなくてもいい。少しずつで構わない。少しずつ、自分らしく、歩いていけばいい。」
その言葉に、胸の奥が温かくなるのをリリィは感じた。
そして──静かに、希望の光が灯るのを、子どもたちは確かに感じていた。
ヴェルメイン先生は子どもたちをゆっくりと見渡し、声の調子を少しだけ緩めた。
「出発は、五日後の朝だ。それまでに、荷物を整えておいてほしい。自分の衣服、それと、勉強に必要なものがあれば十分だよ。」
子どもたちの間に、小さなざわめきが走る。ついに日取りが決まったことに、期待や緊張が一気に現れてきたのだった。
「それでは、今日はもう解散としよう。しっかり休んで、明日も元気に過ごしておいで。」
ヴェルメイン先生のやわらかな言葉と共に、院長先生もうなずき、部屋の扉が静かに開かれる。
絨毯の上に座っていた子どもたちは、立ち上がり、それぞれが思い思いの表情で部屋を出ていく。
リリィもまた、軽くお辞儀をしてから、廊下へと歩き出す。けれど、背後にふと違和感を覚えて、振り返った。
フリーシアが、まだそこにいた。
他の子たちが立ち上がり、動き出している中で、彼女だけが真顔のまま、まるで石のようにじっと座っていた。
──どうして、動かないんだろう?
リリィの胸に、言葉にできないざわめきが広がる。けれど、言葉をかけるよりも早く、その視界に一人の大人の姿が映る。
……旦那様だ。
静かに歩み寄った旦那様は、座ったままのフリーシアのそばに膝をつき、何かをそっと語りかけた。
その声は小さく、廊下に立つリリィには聞き取れない。けれど、フリーシアの肩がわずかに震えたように見えた。そして、ゆっくりと旦那様を見上げる。
──なんて、言ったんだろう。
気になる気持ちは膨らむばかりだったが、それでもリリィは、今すぐ行くべき場所があるのを思い出す。
「……リーベル、待ってるもんね。」
心の中でそう呟くと、リリィは廊下を振り返らず、静かに歩き出した。
リーベルの部屋の小さな灯りを目指して。あたたかな部屋で、誰かが待ってくれている──その事実が、胸の奥を少しだけ軽くしてくれていた。
リリィは静かに廊下を歩き、リーベルの部屋の前に立つと、そっとノックする。
「リーベル、わたしだよ。」
…しかし、返事がない。
「…リーベル?」
リリィは再びノックする。…やはり返事がない。リリィはドアノブに手をかける。鍵はかかっていないようだ。
「リ、リーベル?入って、いい?」
リリィが徐々に扉を開けてもなお、部屋の中は沈黙で満たされている。
「だ… だい、じょうぶ?……いないの?」
灯りはついている。ベッドも乱れていない。けれど、肝心のリーベルの姿が、どこにも見えない。
「……え?」
思わず、扉を開けたままリリィは一歩踏み込み、もう一度部屋を見渡した。
──おトイレ?それとも、他の子の部屋に?
そんな考えがよぎるよりも早く、背後で扉がふわりと揺れた。
次の瞬間──
「……ひぁっ!」
ふいに背中に柔らかいものがぶつかり、腕がリリィの体を抱きしめる。
「やっ、やめっ……!」
思わず声を上げかけたリリィだったが、その瞬間、ふわりと鼻をかすめた甘い香りに、ハッとする。
──この匂い。あったかくて、ちょっとだけ甘い、お花の香り……。
「……リーベル?」
「ふふっ、正解。」
リリィの背後から、楽しげな声が聞こえた。
「もう、びっくりした……!」
リリィが首だけを回して背後を見ると、リーベルは両腕をリリィの胸あたりに回したまま、イタズラが成功した子どものような顔をしている。
「ずっと待ってたの。だから、ちょっと意地悪しちゃった。」
そう言って笑うリーベルの目は、どこか安心したように潤んでいて、ほんの少しだけ赤い。
「……もう、からかわないでよ。」
そう言いながらも、リリィの頬には笑みが浮かんでいた。
リリィが笑みを浮かべたまま、そっと体の向きを変えようとしたその時──
「……」
リーベルは何も言わず、腕に力を込めた。ぎゅっと、強く、リリィの体を抱きしめる。
「リーベル……?」
リリィが静かに呼びかけると、彼女の肩越しに、ふわりと温かな吐息がかかった。
「……ごめん。」
リーベルの声は、かすかに震えていた。
「本当は、こんなつもりじゃなかったの……。でも、リリィのこと、待ってる間……どうしようもないくらい、寂しくなっちゃって……」
その声は、笑顔の下に隠していた心の奥から漏れ出るように、静かに、けれど深く響いていた。
「自分でも、分からないの。なんで、こんなに胸が苦しくなるのか……リリィのこと、考えると……どうしようもないくらい、切なくて…….」
リーベルはそっと、額をリリィの後ろ頭に寄せ、しがみつくように顔をうずめた。
リリィは戸惑いながらも、そっとその手に、自分の手を重ねた。
小さな指と指が触れ合い、リリィはリーベルの手をやさしく包み込む。
「……大丈夫。約束は、絶対に守るから。」
リリィの声は、まっすぐで、あたたかくて、何よりも優しかった。
「ずっと友達だよ。ずっと、そばにいる。」
その言葉に、リーベルの肩が、かすかに揺れた。
彼女の頬に、静かに、ひとしずくの涙が伝っていた。
それは、寂しさと安心が入り混じった、心の奥の涙だった。




