031 六つの花、一本の芽、一匹の小鳥
リリィはお風呂から上がり、一旦リーベルと別れた後、静かな廊下を歩いて聖堂へ向かった。部屋の中は、今日も温かく優しい灯りに照らされており、女神様の像が静かに佇んでいた。
リーベルの部屋には、自分の部屋でお祈りができるように、小さな女神様の像があるらしい。……リーベルは、何を願っているのだろう。
リリィはそっと手を組み、目を閉じる。
(今日も一日、平和に過ごせました。ありがとうございます。そして、リーベルとずっと友達でいられますように……)
心の中でそう祈り、ゆっくりと目を開く。どこか穏やかな気持ちになりながら、リリィは部屋を後にした。
──院長先生の部屋に向かうと、すでに4人の子どもたちが集まっていた。リリィは少し緊張しながら中へ入る。
何人かの子が、リリィへ視線を向ける。リリィは周りを見渡しながら、どうしていいか分からずに立ち尽くしてしまう。そんな時、優しげな声が聞こえた。
「ごめんなさい……あなたが、リリィ?」
声の主の方を見ると、茶色の長髪に、美しい緑色の瞳を持つ女の子がにこやかに微笑んでいた。背丈は、リリィと同じくらいだ。
「わたし、カリタス。あなたと同じく、お屋敷に行くことになったの。」
リリィは少し驚きながらも、「よろしくお願いします」と小さく頭を下げる。
「ふふっ、そんなに緊張しなくても大丈夫よ。せっかく一緒に行くんだから、仲良くしましょう?」
カリタスは優しく微笑みながら、リリィの手を取った。その手はほんのり温かく、リリィの緊張を少しだけ和らげた。
カリタスの手に引かれながら、リリィは輪の中に入っていった。部屋の中は少し緊張した空気に包まれていたが、床に敷かれた厚手の絨毯がどこか安心感を与えてくれる。
他の子どもたちも、自然と円を作るように座っていた。リリィはカリタスの隣に腰を下ろし、そっと手を膝の上に置く。
しばらくして、扉が開く音がした。
そこから入ってきたのは、アルメリアとフィデルの二人。彼らもまた、静かに輪の中へ加わる。その後、少し間をおいてフリーシアが現れた。そして、彼女の後ろには、ヴェルメイン先生──旦那様の姿があった。
リリィは思わず姿勢を正し、旦那様を見上げる。彼はいつもの落ち着いた雰囲気で歩みを進め、院長先生のそばに立った。
部屋の奥で待っていた院長先生は、一人ひとりの顔をゆっくりと見渡し、全員が揃ったことを確認すると、穏やかな口調で話し始めた。
「夜分に集まってくれて、ありがとう。」
低く響く声に、部屋の中がさらに静まる。
「早速だが……まずは、皆のことをよく知るために、自己紹介をしてもらいたい。自分の名前と、お屋敷での目標を述べてほしい。」
そう言って、院長先生は一拍置く。そして、優しい目を向けながら続けた。
「ただし、目標については……言いたくなければ、無理に話す必要はない。私とヴェルメイン先生は、ちゃんと把握しているよ。ここで大切なのは、しばらくの間、共に過ごすことになる仲間の名前と顔を、覚えることだからね。…もちろん、他にも言いたいことがあったら、言ってくれて構わないよ。」
リリィは少し緊張しながらも、改めて周りを見渡した。これから共に過ごすことになる子たちが、それぞれどんな思いを抱えているのか……そう考えると、ほんの少しだけ、胸が高鳴るのを感じた。
「それでは……誰か、最初に話したい子はいるかな?」
院長先生の言葉が静かに部屋に響いた後、間髪入れずに大きな声が響いた。
「ハイッ!」
元気よく手が挙がる。
視線が集まったのは、オレンジ色の髪を持つ男の子。明るく快活な雰囲気を纏い、どこか冒険者のような雰囲気すら感じさせる。
「オレはクラージュ!クラージュ・バルト!」
そう名乗ると、彼は勢いよく立ち上がり、胸を張って続けた。
「オレの目標は、ここの護衛になること!強くなって、みんなを守れる立派な騎士になるんだ!」
彼の言葉には、まるで夢をそのまま形にしたような純粋な熱意がこもっていた。そのまっすぐな眼差しに、思わずリリィも見入ってしまう。
「だから、お屋敷では剣術を学びたいし、もっともっと鍛えたい!それで、いつかヴェルメイン先生のそばで役に立てるようになりたいんだ!」
力強くそう言い切ると、クラージュは誇らしげに笑った。
部屋の中を、一瞬の沈黙が包み込む。そして──
「すごい……!」
ぽつりと、誰かが感嘆の声を漏らした。それをきっかけに、周囲からも小さな感心の声が上がる。
院長先生も微笑みながら頷くと、「素晴らしい心意気だね」と静かに言った。
旦那様もまた、淡く微笑を浮かべていた。
クラージュの堂々とした姿勢が、次に話す誰かの背中を押したような気がした。
それは、八人の中で最も小柄な男の子だった。
「ぼ、ぼくも……!」
その男の子は一瞬ためらいながらも、意を決したように前を向く。その瞳には、幼さの中にも確かな意志が宿っていた。
「ぼくは、ジャスティン・フェルナン!ぼくも……立派な騎士になりたい!」
その言葉に、クラージュが嬉しそうに「おおっ、いいな!」と声を上げる。
ジャスティンは少し緊張しながらも、勇気を振り絞って続けた。
「ぼく、まだ小さいし……あんまり、力もないけど……でも、誰かを守れる強い人になりたいんだ!」
幼いながらも、真剣な思いがこもった言葉だった。
「それに……ぼく、正義の味方になりたい。悪いことをする人がいたら、ちゃんと止められる人になりたい!だから、お屋敷に行って、もっともっと強くなりたい!」
その言葉に、部屋の空気が少し柔らかくなる。
「正義の味方……いいじゃないか。クラージュ、ジャスティン。私の屋敷には、手練れの騎士にも負けない程、剣術を極めている者がいる。稽古をつけてもらうといい。ジャスティンは……まずは、体を鍛えることからだな。」
旦那様が静かに呟くと、二人のの顔がぱっと明るくなった。
「……ふふ、素敵な夢ね。」
優しく微笑むアルメリアやカリタスに、ジャスティンは照れ臭そうにしながらも、ぎゅっと拳を握る。
その様子を見て、クラージュがポンとジャスティンの肩を叩いた。
「いいぜ、ジャスティン!お前と一緒なら、きっとすげえ騎士になれる!」
「…うん!」
ジャスティンの声には、先ほどよりも力がこもっていた。
ジャスティンの熱意ある自己紹介に場が和んだその時、今度は力強く、迷いなく手が挙がった。
「俺はアンドリュー。」
低く、はっきりとした声が部屋に響く。
アンドリューは、年長の少年らしい落ち着いた態度で、まっすぐ院長先生とヴェルメイン先生を見据えた。
「苗字はない。俺には、親がいない。」
その言葉に、一瞬空気が変わる。
だが、アンドリューは気にした様子もなく、ゆっくりと続けた。
「俺は……この国を、奴隷がいない国にしたい。」
その言葉には、彼の強い信念が込められていた。
「俺は元奴隷だ。長い間、自由なんてなかった。……だが、幸運にも解放されて、この孤児院に来た。」
拳を固く握りしめながら、アンドリューは言葉を続ける。
「この国には、まだまだ奴隷がいる。昔の俺のように、自由を知らないまま生きている奴らが、たくさんいる。俺は、その現実を変えたい。」
ヴェルメイン先生が静かにアンドリューを見つめている。院長先生も、じっと彼の言葉に耳を傾けていた。
「そのために、俺は王宮の役人になる。そして、奴隷が一人もいなくなるように、尽力するつもりだ。だが……知識と力がなければ、何も変えられない。だから、俺は先生のお屋敷で学び、強くなる。」
静かだが、燃え上がるような情熱がこもった言葉だった。
「……以上だ。」
アンドリューはそれだけ言うと、静かに手を下ろした。
部屋はしばらくの間、静まり返る。
だが次の瞬間、旦那様が口を開いた。
「……やはり、大きな志だな。元奴隷の王宮の役人……私は、聞いたことがない。…本気で、目指すのだな?」
その声には、どこか感心したような温かみと、試すような冷たい響きを含んでいた。
アンドリューは静かに頷く。
「ああ。俺は本気だ。」
ヴェルメイン先生はしばらくアンドリューを見つめたあと、ふっと小さく笑った。
「いいだろう。その志、見せてもらおう。」
その言葉に、アンドリューの瞳がわずかに揺れた。だが彼は、何も言わずに頷き、静かに座り直した。
アンドリューが力強い言葉で語り終えた後、またしばしの静寂が広がる。
その静けさの中で、一つの手が静かに挙がった。
「……僕は、フィデル。」
穏やかで落ち着いた声だった。
フィデルは、どこか優しげな微笑みを浮かべながらも、静かな決意を宿した瞳で皆を見渡す。
「僕にも苗字はない。……両親を知らないから。」
それは淡々とした口調だったが、彼の背景を思わせるには十分な言葉だった。
「僕は、生まれた後すぐに捨てられたらしい。ヴェルメイン先生の、お屋敷の前に。」
旦那様は、彼の言葉を静かに聞いている。
「…でも、僕はずっと、この孤児院で育った。物心ついた頃にはすでにここにいたし、この孤児院が、僕にとっての家だった。」
フィデルの声は、静かだったが、どこかあたたかみがあった。
「僕は、この孤児院が好きだ。」
彼は少しだけ微笑み、目を伏せる。
「……先生たちも、友人たちも、みんな優しくしてくれた。だから、僕はいつか恩返しがしたいと思ってた。」
そして、ゆっくりと顔を上げ、真っ直ぐ前を見つめた。
「僕の夢は、この孤児院の先生になること。」
驚いたような表情をする子もいれば、納得したように頷く子もいた。
「僕は、昔から本を読むのが好きだった。教えるのも、好きだった。だから、僕がこの孤児院にいる子たちの先生になって、学ぶ楽しさを教えたい。」
その言葉に、院長先生が静かに微笑んだ。
「そして、僕を育ててくれたこの場所に、恩を返したいんだ。」
フィデルの静かな決意のこもった言葉に、部屋はしんと静まり返る。
旦那様は、腕を組みながらじっとフィデルを見つめていた。
「君は、先生になりたいのか。」
「はい。」
フィデルは、迷いなく頷く。
ヴェルメイン先生は、その返答をしばらく吟味するように沈黙し──やがて、穏やかに目を細めた。
「ならば、しっかり学ぶといい。私の屋敷には、日々様々なお客様がいらっしゃる。多種多様な分野に精通しておられる方々だ。お話を聞かせていただく時間を設けてもらえるよう、交渉しよう。」
フィデルは微笑みながら、静かに「ありがとうございます」と答えた。
男子たちの自己紹介がひと段落すると、部屋に再び静寂が訪れた。次に話すのは、女子の番だ。
その沈黙の中で、静かに、しかし迷いなく手を挙げたのは──アルメリアだった。
彼女がすっと立ち上がると、部屋の空気がわずかに変わる。
長い睫毛に縁取られた瞳は透き通るように美しく、白い肌は月光のような輝きを帯びていた。
孤児院の中でもひときわ目を引く存在である彼女は、自然と注目を集めてしまう。リリィは、食堂や聖堂で度々彼女を見かけていた。彼女の周りにはいつも親しげな友人が数人おり、常に男子の視線を集めていたように感じた。
クラージュなどは、彼女が立ち上がるなり、思わず見惚れてしまったように目を丸くした。
隣のアンドリューが軽く肘で突くと、「うっ」と小さく声を上げ、慌てて視線をそらす。
しかし、アルメリアはそんな様子にも慣れたものらしく、静かに微笑むだけだった。
「私は、アルメリア。」
穏やかで落ち着いた声が響く。
「私も苗字はありません。……生まれてすぐに、この孤児院の門の前に、捨てられたからです。」
彼女は淡々と言ったが、その事実に重みがないわけではなかった。
フィデルと似た境遇であることに気付いた子たちは、思わず彼を一瞥する。フィデルは驚く様子もなく、ただ静かに彼女を見つめていた。
アルメリアはそんな視線を特に気にすることもなく、穏やかに言葉を続けた。
「私も、この孤児院で育ちました。この場所には、深く感謝しています。」
彼女はふと目を伏せる。
「私は……ある日、『仕える』ことに意味を見出しました。」
ヴェルメイン先生が、わずかに眉を上げる。
「尊敬に値する方に仕えること。それが、私の夢です。」
その言葉に、クラージュが「へえ……」と感嘆の声を漏らす。…何か考えているのだろうか。
「そして、そのために私は、お屋敷で『メイドとしての所作』や『技量』を、実際の経験を通して身につけるつもりです。」
彼女の言葉には、一切の迷いがなかった。
「この孤児院で学べることは多くありますが、実際の場でしか得られないものもある。……だから、私はヴェルメイン先生のお屋敷へ行くことを希望しました。」
彼女の静かな決意に、部屋の空気がぴんと張り詰める。
「──以上です。」
そう言って、アルメリアは深く礼をした。
その姿は、すでにメイドとしての立ち居振る舞いの美しさを感じさせるほど、洗練されていた。
ヴェルメイン先生は腕を組んだまま、じっとアルメリアを見つめ──やがて、ゆっくりと頷いた。
「……なるほど。」
短くそう呟くと、それ以上何も言わず、考えを巡らせるように目を閉じた。
アルメリアは静かに座る。
クラージュがまだちらちらと彼女を見ているが、アンドリューに軽く咳払いされ、すぐに姿勢を正した。
アルメリアはそんな様子も見て取っていたが、やはり気にすることなく、ただ静かに微笑んでいた。
──再び部屋の中に静寂が落ちた。
誰もが次に手を挙げる者を待っている。
しばらくの沈黙の後……
「……っ!」
小さな手が、おずおずと挙がった。
皆の視線が、その手の持ち主へと集まる。
リリィのすぐ隣に座っていた少女──カリタスだった。
彼女の手は、わずかに震えていたが、それでもしっかりと挙げられている。
「わっ、わたしの名前は……カリタス・ベルナール、です。」
カリタスは一度、ぎゅっと手を握りしめると、小さく息を吸い、勇気を振り絞るように続けた。
「わたしの夢は……お、お医者さんになることです!」
「お医者さん……?オルフェ先生みたいな?」
クラージュが興味深そうに呟く。
「う、うん……」
カリタスはこくんと頷くと、小さな声で続けた。
「えっと……お屋敷に行く目的は……その……」
彼女は言葉を選びながら、膝の上でぎゅっと拳を握る。
「この孤児院の、本は……ほとんど、読んじゃったの。ヴェルメイン先生の、お屋敷には……専門的な本が、たくさんあるって、聞いたから……だからもっと、たくさんの本を読んで、勉強したい……。」
リリィはその言葉に驚かされる。リリィは今日の午前、初めて図書室に足を踏み入れていた。全ての壁を埋め尽くす本棚、そしてその本棚を隙間なく埋める大量の本……あれを、ほとんど読み切った?
それに、自分とあまり歳は離れていないように見えるというのに、勉強に対する意欲が強すぎる。お医者さんになるにはたくさんの知識が必要だとは思うけれど……それにしてもだ。
「そっ、それから……たくさんの人と仲良くなること……。」
最後の言葉を口にするとき、カリタスはますます顔を赤くした。
小さな手をぎゅっと握りしめ、俯いてしまう。
「それが、私の目標です……!」
そう言うと、彼女は恥ずかしそうに目を伏せた。
「……フフ、よく言ったよ、カリタス。」
ヴェルメイン先生が腕を組みながら、ゆっくりと頷く。
「より難しい本に挑みたいという目的も悪くない。ただ……あまり無理するんじゃないぞ?」
その言葉に、カリタスは驚いたようにヴェルメイン先生を見上げた。
「……はい!」
少し遅れて、けれどしっかりとした声で返事をする。その声には、先ほどよりも少しだけ自信が宿っていた。
そんなカリタスの様子を見て、リリィは自然と微笑んだ。
そして、ふと気づく。
──あとは、フリーシアと自分だけだ。
その考えに、リリィは小さく息を飲んだ。しばらく続く沈黙に、部屋の空気がじわじわと重くなっていく。
……あと二人。
リリィは、そっとフリーシアを見る。
だが、彼女は相変わらず黙ったままだった。
まるで何かを考えているようにも、あるいは最初から話すつもりがないようにも見える。
このまま待っていても、口を開かない気がした。
リリィは耐えきれず、息を吸い──
「……!」
小さく手を挙げた。
皆の視線が、一斉にリリィに集まる。
緊張で心臓が高鳴るのを感じながら、リリィは口を開いた。
「リリィ、です。苗字は……ありません。」
自分の声が、少し震えているのがわかった。けれど、ここで引き下がるわけにはいかない。
リリィは、ぐっと拳を握りしめる。
「わたしは……三日前まで、奴隷でした。」
その言葉に、微かなどよめきが起こる。
孤児院には元奴隷の子もいるとはいえ、こうして自分から口にするのは勇気がいることだった。
リリィは、静かに言葉を続けた。
「私が、お屋敷に行く目標は……」
一度、息を整えた。
「……『夢を見つけること』です。」
その瞬間、再び沈黙が落ちた。
「夢を、見つける?」
クラージュが不思議そうに首を傾げる。
「は、はい……まだ、自分が何をしたいのか、わからなくて……。だから、お屋敷でたくさんのことを経験して、自分にできること、やりたいことを探したいんです。」
言いながら、リリィはふとみんなの言葉を思い出した。
リーベルは、お花屋さんになりたいという夢を持っている。カリタスはお医者さんになりたい。
クラージュやジャスティンは騎士を目指しているし、アルメリアは仕えるべき人を探し、メイドを目指している。アンドリューは役人を……
みんな、何かしら「なりたい自分」があって、ここにいる。
けれど、自分にはまだそれがない。
だからこそ──
「夢を見つけることが、今の私の目標です。」
リリィは、しっかりと前を向いた。
ヴェルメイン先生は、リリィの言葉を聞いたあと、静かに頷いた。
「なるほどな。」
それだけを言うと、深く考えるように顎に手を当てる。
そして、ふっと口角を上げた。
「いい目標だ。まずは色々と経験してみることだ。」
リリィは驚いた。
もっと何か言われるかと思っていたのに、ヴェルメイン先生はそれ以上は何も言わなかった。しかし、安堵に包まれたのも事実だった。
「……さて、残るは一人だな。」
その言葉とともに、皆の視線が、最後の一人へと向けられる。
フリーシア──
彼女は、ずっと黙ったままだった。部屋に、張り詰めた沈黙が落ちる。
最後に残った少女は、小柄で、どこか儚げな雰囲気を持つ少女だった。皆の視線を一身に浴びても、彼女は微動だにしない。
まるで、最初から何も感じていないかのように。
しばらくの沈黙の後、フリーシアはようやく口を開いた。
「……フリーシア。」
彼女の声は、静かだった。しかし、不思議なほどはっきりと耳に届く。
「苗字は、ない。」
そこまで言うと、一拍の間を置く。
そして、まるで事務的に処理するかのように──
「目標は、秘密。」
淡々と、それだけを告げた。フリーシアは、それ以上何も言わなかった。
ただ、口を閉じ、無表情のままじっと前を見つめている。
部屋の空気が、少しざわめいた。
「えっ、それだけ?」
クラージュが思わず小声で漏らす。他の子たちも、不思議そうな表情をしていた。
目標は言いにくければ言わなくてもいいとはいえ……ここまであっさり秘密にされると、さすがに気になる。
しかし、誰もそれ以上踏み込もうとはしなかった。フリーシアの雰囲気が、そうさせなかったのかもしれない。
旦那様が、何か言いたげに彼女を見つめている。
しかし……結局、何も言わなかった。
代わりに、静かに口を開く。
「……ありがとう。」
それだけを言い、深く考え込むように目を伏せた。誰もが、ヴェルメイン先生の反応を訝しむ。しかし、やはりそれ以上の言葉はなかった。
そして院長先生が小さく頷き、静かに告げる。
「これで、全員の自己紹介が終わったな。」
それを合図に、部屋の空気が少し緩む。けれど、リリィはどこか落ち着かない気持ちだった。
フリーシアは、どうして目標を秘密にしたんだろう?
それを知る術は、今のところなかった。




