030 友情の蜜
八人の名前を発表し終わった後、院長先生は言葉を続けた。
「以上が、ヴェルメイン先生のお屋敷に、一時的に移り住んでもらう子だ。…みんな、素晴らしい目標を掲げてくれたよ。さあ、惜しみない拍手で送ってあげよう。」
食堂の中で一斉に拍手が沸き起こる。
リリィにとって、賞賛を受ける立場になるのは、これが初めてだった。
みんなの前に立つこと。それはやはり恥ずかしい。でも、泣きながら拍手を送ってくれている子もいる。
……しっかり、受け止めなきゃ。
リリィはまた、深々と礼をした。
──しばらくして拍手が止み、院長先生が最後に述べる。
「今呼ばれた八人の子は、早速だが……今日のお祈りが終わった後、また院長室に集まって欲しい。みんなで、自己紹介をしよう。それと、お屋敷での暮らしについて、ヴェルメイン先生からお話があるよ。……それでは、私の話はこれでおしまいだ。今日も夕食前の時間を割いてしまって、本当に申し訳ない。ではまた。」
言葉が終わり、院長先生は食堂からゆっくりと出ていく。食堂の扉が静かに閉じた。
一瞬の沈黙の後──食堂は一気に賑やかになった。
「お前!よくやったな!」
「すごいなぁ、ヴェルメイン先生のお屋敷って、すごく広いんでしょう?」
「いいなぁ……わたし行きたかったな……」
あちこちから声が聞こえてくる。
リリィはまだ少しぼんやりとした気持ちで、自分が選ばれたことを実感しきれずにいた。しかし、そんな彼女の、真っ先にリーベルが声をかけた。
「リリィ、おめでとう。」
リーベルは、小さな笑みを浮かべながら、そっとリリィの手を握る。
「……リーベル……」
「ふふ、そんな不安そうな顔しないの。行けない子に申し訳ないでしょ?大丈夫、リリィなら絶対にうまくやれるよ。」
その言葉は、不思議とリリィの心にすっと染み渡った。
すると今度は、ヴィオレッタ先生が近寄ってきた。
「リリィ、よく頑張ったわね!」
先生はいつもより少しだけ興奮した様子で、微笑んでいる。
「な、なんとなく、あなたなら選ばれるって思っていたけれど……それでもやっぱり結果を聞くまではドキドキしたわ。本当に、おめでとう!」
ヴィオレッタ先生の言葉に、リリィの胸の奥がじんわりと温かくなる。
「ありがとう、ございます……」
リリィはそう言いながら、小さく息を吸い込んだ。
お屋敷に行くことを諦めざるを得なかったリーベルのことを思うと、ただ喜んでばかりもいられなかった。だけど……だからこそ。
(リーベルの分まで、わたしはお屋敷で精一杯頑張る。)
心の中でそっと決意する。
リリィはまっすぐリーベルを見つめ、ぎゅっと手を握り返した。
「わたし……お屋敷で、ちゃんと頑張る。だから、見守っていてくれる?」
リーベルは一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに優しく微笑んで頷いた。
「うん。もちろん。……だから、リリィも私のことを忘れちゃダメよ?」
「うん! 絶対に忘れない!」
二人はしっかりと手を握り合い、そのまま小さく笑い合った。
食堂の喧騒の中で、リリィの心はいつになく強く、温かく満たされていた。
リリィとリーベルが手を握り合い、小さく笑い合う──その微笑ましい光景を、ヴィオレッタ先生はどこかもじもじとした様子で見つめていた。
(こういうとき、先生って、どうするのが正解なのかしら……?)
もっと心から祝福したい。でも、どうやって?一緒になって飛び跳ねて喜んであげるべきなのか、それとも優しく頭を撫でてあげるのか。はたまた、ただ微笑んで見守るのが一番いいのか。
……わからない。
考えれば考えるほど、どうすればいいか分からなくなって、ヴィオレッタ先生はそわそわと落ち着かなくなっていた。
リリィは先生に背を向けていたため気づいていなかったが、リーベルはその様子を察したらしい。
ふと、リーベルはリリィとの手をそっと離し、控えめに片手を伸ばした。
「フフッ、先生も、ほら。…聞きましたよ?リリィの担任になったんですよね?おめでとうございます。」
その言葉に、ヴィオレッタ先生はハッとしたように目を瞬かせた。
「えっ、あっ、あり、がとう……わ、わたしも……?」
リーベルは静かに微笑んで頷く。
先生はしばらくあたふたと戸惑っていたが、意を決したように息を吸い込むと、手を握る……のではなく、一気に二人を抱きしめた。
「もうっ!ほんっといい子たち!おめでとう、リリィ!」
力強く抱きしめられ、リリィは驚いたが、すぐにくすぐったそうに笑った。
「えへへ……ありがとう、先生!」
リーベルもふふっと小さく笑い、ヴィオレッタ先生の腕の中でそっと目を閉じる。
「旦那様、私……少しは成長できたかしら……?」
ぼそりと呟いたヴィオレッタ先生の声は、二人の笑い声に紛れてかき消えた。
──他愛もない会話をし、夕食を食べ終わると、ちらほらとお風呂へ向かう子が目に入るようになった。ヴィオレッタ先生はひと足先に食堂を出て行った。リリィも、お風呂の準備のために部屋に戻ろうとする。そろそろリーベルとはお別れ……かと思ったのだが。
「じゃあ、また明日ね、リーベル。おやすみ!」
「あ……お、おやすみ……」
「…ん?どうしたの?」
「……っ」
リーベルは席に座ったまま、両手を握りしめている。食器は既に片付けており、もう何もすることはないはずだった。
「どうしたの?リーベル。……あっ、体痛いの?」
「……」
リーベルは答えない。表情を窺うと、かなり葛藤しているように見える。
「ど、どうしたの?」
「……ごめん、リリィ……本当に…」
「えっ、な、何が?」
すると突然、リーベルは勢いよく席を立ってリリィに抱きついてきた。
「ごめん……離れ、たくない……ごめん……」
「リーベル……」
「お風呂……お風呂まででいいから……一緒に、いて……」
リーベルは膝を床につき、縋るようにリリィに抱きつき、懇願する。
(リーベル……どうして、ここまで……)
もう3回目だ。既に今日は、今までよりかなり多くの時間を、リーベルと一緒に過ごした。リーベルの心の奥の秘密……人との距離に、人一番敏感になってしまっていること。その影響が、リーベルの心を苦しめているのだろう。
(きっとリーベルは……まだわたしのことを、心の底から信頼しきってはいない。まだ、友達になって、二日だもんね……)
リーベルの人柄を考えれば、彼女と友達になりたいと思う子は少なくないはず。そして、その誰もが、徐々にリーベルから離れていく。その辛さは、リーベルの溢れる涙から痛いほど伝わってきた。リーベルは今、物理的な距離ですら、離したくないのだろう。
……わたしは、リーベルとずっと友達でいると約束した。
「……リーベル。大丈夫だよ。…寂しいよね。」
リーベルは黙ったまま、リリィのお腹に顔をうずめている。リリィは優しく、彼女の頭を撫でる。
「まだ……そんなに、簡単には……信じられない、よね?ずっと友達で、いるって……」
リーベルは顔をうずめたまま、首を横に振る。
「ごめ、グスッ……リリィ……ヒッ… ごめん……」
「いいんだよ、リーベル。」
リリィも膝を床につき、優しく抱きしめ合う。
「一緒に、お風呂行こう?それと……もし良かったら、リーベル。」
「…なに?」
「今夜は……リーベルのお部屋で、一緒に寝て……いいかな?フフッ、お泊まり、みたいに……」
そう言った瞬間、リーベルはさらに力強く抱きしめてきた。
「リ゛リィ〜……」
「ん〜苦しいよリーベル!フフッ…」
──お風呂場へ向かう途中、リリィはリーベルの歩調に合わせながら、しっかりと身体を支えていた。リーベルは「大丈夫よ」と言わんばかりに笑ってみせるが、その手はしっかりとリリィの腕を掴んでいる。
(やっぱり、少し無理してるんじゃ……)
リリィはそんな不安を抱きつつも、リーベルの「離れたくない」という気持ちを尊重し、一緒にお風呂場へ向かった。
──自分とリーベルの体を流し、お湯に浸かると、ふわりとした湯気が立ち昇り、心も体もほぐれていくようだった。
「…そういえばさ、リーベルと初めて会ったのも、お風呂だったよね。」
リリィが思い出したように言うと、リーベルも「そうだったね」と微笑む。
「良かった……あの日、無理してお風呂入って。」
「フフッ、そうだね。あの時、会えなかったら……きっと、友達にはなれなかったよね。」
「……ううん、それでもきっと、友達になるよ!」
二人はくすくすと笑い合う。こうして話していると、リーベルはとても幸せそうだ。さっきまでの辛そうな表情は、見る影もない。
もっとたくさんお話ししよう。
「そういえば、普段はどうやって体を洗ってるの?」
リリィが尋ねると、リーベルは少し考え、「うーん……」と湯船に肩まで浸かりながら口を開いた。
「毎日、メリー先生が、お湯に浸した布で体を拭いてくれるの。」
「メリー先生?」
何度か、食堂の中で聞こえてきたことがある名前だ。
「うん。メリーヌ・ロシュフォール先生。わたしの担任の先生だよ。ベテランの先生で、とっても優しいの。」
ベテランの先生……きっとリーベルの他にも、担任の子がいるのだろう。……そういえば、ヴィオレッタ先生のフルネームを聞いていない。また会ったら、聞いてみよう。
リーベルは話を続ける。
「でも、ちょっと心配性でね……頑張ればお風呂に行けそうな日も、なかなか行かせてくれなくて。」
そう言って、リーベルは肩をすくめる。
「え、それなら今日も、お風呂に来るって言ったら止められちゃったんじゃ……?」
リリィが少し心配そうに尋ねると、リーベルはほんの少しだけバツの悪そうな顔をした。
「うん……だから、黙って来ちゃった。」
「えぇっ!?大丈夫なの?」
「大丈夫大丈夫。まあ……よくやることだし、ちゃんと謝れば、許してくれるよ。それに……今日は、どうしても……」
そう言って、リーベルは少し恥ずかしそうに目をそらした。
その姿を見て、リリィの胸の奥がじんわりと温かくなった。
(ほんとに、リーベルって……)
「じゃあ、ちゃんと謝るときは、わたしも一緒に謝るね。」
リリィがそう言うと、リーベルは驚いたように目を丸くし、それから柔らかく微笑んだ。
「……うん。ありがとう、リリィ。」




