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【第一章完結】名もなき森の後砦   作者: フリィ
プロローグ 不完全な名前
3/63

003 疑念と後悔

それからの数週間は、もはや人として扱われているような気のしない、地獄の日々だった。しかし辛うじて、暴力を振るわれることはなかった。少女は完全に諦めていた。前の主人の元で毎日暴力を振るわれるよりも、今の方が数段は過ごしやすいと思い込むようにしていた。過酷な労働をさせられる訳でも、理不尽な罵詈雑言を浴びせられる訳でもない。


「ううっ… うぇ…」


食事はほぼ全てが腐った野菜だった。腐った生肉が盛り付けられていることが何度かあったが、いくら空腹でも、それを食べる勇気は出なかった。おそらく腹を壊す程度では済まされないだろう。主人の隙を見ては服の裏に隠し、用を足したいと言って、裏庭に連れて行ってもらう際にこっそりと土に埋めた。ただ、腐った野菜だけでも、栄養の足りていない少女の体調を崩すには十分であり、言わずもがな適切な食事量とも言えなかった。


「寒いよね… ロッタ… うぅ…」


極めつきは、寝床だった。家の中に入ることができるのは食事の時のみであり、そこで寝かせてはもらえなかったのだ。裏庭には犬小屋代わりのような、天板のない木箱が置いてあり、そこで夜を過ごせと言われた。その箱の中には既に、一匹の痩せ細った黒い犬がいた。その犬はかなり衰弱してしまっているようだった。少女と同じような食事を与えられたためだろう。少女は最初、箱の中で一緒に過ごすことに恐怖を感じていたが、その犬は少女を拒むことはなかった。少女はその犬に「ロッタ」という名前を付け、今では体を寄せ合い、お互いを温め合って過ごす仲になった。


「大丈夫だよ、ロッタ… 目を開けて?ほら… ちょっとだけだけど… 腐ってない野菜を、分けてもらえたんだ。お願い… 起きて…?ロッタ…」


ロッタはここ数日ほとんど寝たきりであり、目を覚ますことは滅多になかった。相変わらず骨が浮き出るほどに痩せ細ったその体からは、まだ辛うじて生命の温もりと、拍動を感じることはできた。しかし、いつ死んでもおかしくないということは、少女にも明白に分かった。


「ロッタ… お願い… いかないで… 一人に… しないで… グスッ… ロッタァ……」


「大丈夫ですか?お嬢さん。」


「ッ!えぇ?」


いつかのように突然、背後から声がした。少女が木箱から怯えながらも顔を出し、辺りを見回すと、高い生垣と鉄の柵で囲われた裏庭の外に、微かに男の人影が見えた。


「何かお困りですか?というより… こんなに寒い夜遅くに、何をしておられるのですか?」


「あっ、あぁ…」


少女は迷っていた。このような場面は、数週間前に経験したばかりだ。助けを求めれば、ここから連れ出してもらえるかもしれない。しかしそれは同時に、今の生活を捨てるということを意味していた。今の生活は以前の主人の元での生活と比べれば、幾分かは良い待遇であると言えた。裏庭の外にいる男を信じて、連れ出してもらった後のことなど、到底分からない。再び、毎日暴力を振るわれる日々に戻る可能性もあるのだ。


「だっ、大丈夫、です… ちょ、ちょっとイタズラしちゃって… 罰として外にいるだけ、です…」


「ふむ… そうかい?君の泣き声が聞こえたからここに来たんだ。本当に大丈夫かい?」


「そ、その… 本当に、大丈夫、ですので… どうか、お気になさらず…」


少女は助けを断る姿勢を崩さなかったが、心の内では葛藤の渦が巻き起こっていた。以前、今の主人に連れ出された時に感じたような、冷たい何かを、裏庭の外にいる男の声からは感じない。むしろ、温かみで満ち溢れているようにさえ感じた。少女は少し、男の話を聞いてみることにした。


「あの… あっ、あなた様は… 何をされて… いたのですか?」


「私かい?この近くに、孤児院があるのは知っているかな。私は、そこの院長と親しくさせてもらっていてね。子どもたちに振る舞うお菓子や、本を届けていたんだ。その後院長としばらく話をしていたら… 気づいたらこんなにも遅くなってしまった。ハハ… 情け無い。」


「えっ…」


嘘だとは思えなかった。聞こえてくる声からは、確かな温もりと、紳士的な優しさを感じる。この声の主が、自分に暴力を振るうような姿は想像できなかった。しかし、それはただの直感に過ぎない。今の生活を失い、以前のような日々に戻る恐怖は、少女の心の奥に深く根付いていた。


その時、裏庭に繋がる家の扉が開き、主人の男が出てきた。

「おい〜… 夜は静かにしろよ?眠れねぇんだよ。野菜を分けてやっただろ?今までの恩を仇で返すつもりか?えぇ?」


男は木箱をトントンと軽く蹴りながら、少女を見下ろす。その目は口調とは裏腹に、明らかに怒りを湛えていた。


「あなたが、この子の父親ですか?」


柵の外から再び声がする。主人の男がその方向を見ると、驚いて目を見開いた。


「誰だっ!?ん?なっ… そのペンダント… 名誉市民様じゃないですか〜… ハハ… え、ええ。この子は俺の娘ですが… 何か?」


「え… めいよ、しみん?」

少女にはその言葉の意味は分からなかったが、主人の男は明らかに狼狽えている。こんな姿は見たことがなかった。柵の外の男が、何か特別な地位にいる者だということは感づいた。


「その子… 泣いていましたよ。イタズラをした罰として外に居させているようですが… 少々やりすぎではありませんか?もう夜遅いですし… 今夜は寒いでしょう。中に入れて、温めて差し上げなさい。」


「あ、ああ… 仰る通りですね!ちょ、ちょっとやりすぎました… ほら… 中に入れ。」


男は少女に両手を伸ばし、抱き抱えて木箱から出す。少女は後悔していた。もっと早くに外の男を信じていれば、主人が起きて出てくる前に連れ出してもらえただろう。今、主人の腕はがっちりと少女を抱え、その双眸は「大人しくしていろ」と言わんばかりに少女を睨んでいる。今更声を上げて逃げ出すことなど、できそうにない。


「あっ… あぁ…」


「泣くな。静かにしろ。」


家の扉が目の前に迫る。少女は祈るように、柵の外の男の方を見る。その男はもう既に、身を翻して立ち去ろうとしている最中だった。


「グスッ… やだ… いやだぁ…」


もうこんなチャンスは二度と巡ってこない。自分の選択をただ後悔するしかなかった。

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