029 夢への門
リーベルの部屋にいると、時間が経つのがあっという間だった。その後はずっと二人で勉強したり、遊んだり、他愛のないことで笑い合ったりしていた。そうしている内に、リーベルの顔もだんだんと明るくなっていくのを感じた。
リリィは、そろそろ夕食の時間だと気づき、勉強道具を片付け始めた。
「じゃあ、わたし、食堂に行くね。」
リリィが立ち上がると、リーベルも静かに立ち上がる。
──でも、リーベルは動こうとしなかった。
「リーベル?」
不思議に思い振り返ると、リーベルはリリィの制服の裾を掴んでいた。
「……離れたくない。」
その言葉は、小さな声で絞り出すように呟かれた。
リーベルは、もじもじと恥ずかしそうに俯いている。
「お願い……連れてって。」
その頼りない声に、リリィは一瞬驚いたが、すぐに胸が温かくなった。
またリーベルの、寂しがり屋な一面が見られた。普段は冷静で優しい彼女の、こういう素直な姿が見られるのは、自分だけだ。そう思うと、やはり嬉しい。
リリィは、ちょっといたずらっぽく笑った。
「もしかして、わたしがいないと寂しいの?」
「……ち、ちが……」
リーベルがむっとした顔をする。でも、その顔はほんのり赤く染まっていた。
リリィはくすっと笑い、そっとリーベルの手を取り、支える。
「フフ……じゃあ、一緒に行こう。」
リーベルは、少し恥ずかしそうにしながらも、小さく頷いた。
食堂に着くと、そこはまた昨日と同じように、静かだった。
院長先生が前の方の席に座っている。また何かお話があるのだろうか。食堂全体が張り詰めた空気に包まれている。
リリィは、リーベルと一緒に、食堂の入り口で立ち止まる。
(なんだか……昨日よりも、もっと静か。)
何が起こるのか分からず、どうすればいいか戸惑っていると、ふと視線の先で誰かが立ち上がった。
──ヴィオレッタ先生だ。
先生は、リリィたちを見つけると、優しく手招きした。
「二人とも!こっちへおいで。」
リリィとリーベルは顔を見合わせた後、先生の近くへ歩いていく。
ヴィオレッタ先生の隣に座ると、先生が小さく笑った。
「リリィちゃん、部屋にいなかったから、ちょっと心配したのよ?」
リリィは、リーベルをちらりと見てから答える。
「ごめんなさい、リーベルとずっと一緒にいました。」
先生は納得したように頷く。
「…そう。それならよかった。」
リリィは安心したように微笑んだ。
すると、先生が少し真剣な表情になり、小さな声で言った。
「……それと、もうすぐ発表があるわよ。」
「発表?」
先生はゆっくり頷く。
「今から、ヴェルメイン先生のお屋敷へ移る子たちが、発表されるの。」
その言葉を聞いて、リリィは思わず息をのんだ。食堂が静かなのは、その発表を待っているからなのだと、ようやく気づいた。
(……ついに、決まるんだ。)
リリィは、胸の奥がぎゅっと締め付けられるのを感じながら、発表の時を待った。
リリィたちの後に何人かの子が食堂に入った後、食堂の扉が閉じられる音がした。
それを合図にしたかのように、院長先生がゆっくりと前に歩み出る。
静まり返った食堂には、緊張が張り詰めていた。
リリィもリーベルも、その雰囲気に飲まれたまま、じっと院長先生を見つめていた。
「皆さん、夕食前の時間をまた頂戴してしまい、申し訳ない。」
院長先生の落ち着いた声が響く。
「まず、昨日の件で、たくさんの希望が集まったこと、心から感謝するよ。それと……想定していた以上に希望者が多く、急遽試験を行うことになってしまった。そのことについて、改めてお詫びさせてほしい。」
院長先生は、静かに頭を下げる。
リリィはお昼前の、院長先生の部屋の前の光景を思い出した。二十人程の希望者……その中から、男女それぞれ四人。半分以上の子は、お屋敷に行けない。リリィはひたすらに、心の中で祈り続ける。
院長先生は顔を上げ、真剣な表情で続けた。
「お屋敷に移る子は、ヴェルメイン先生と私で、厳正に審査をして決めたよ。」
リリィは、ぎゅっと拳を握る。
「しかし……これもまた申し訳ないね。審査の基準は、単に礼儀作法がなっているかどうかではなかったんだ。」
その言葉に、一気に食堂にざわめきが広がる。
「試験では、確かに礼儀の基本を見させてもらいましたが……それだけでは、判断はしていないよ。」
(……じゃあ、何を見ていたの?)
リリィの胸が高鳴る。
「試験を受けた子は分かると思うが、一番最後の質問に……『お屋敷に行ったらやりたいこと』を、聞かれたはずだ。」
食堂が、一瞬しんと静まり返る。
「この質問を入れたのは、ヴェルメイン先生のお屋敷に行く目的がある子、あるいはお屋敷での経験が成長に繋がるであろう子を、探すためだった。」
(目的がある子……?)
リリィは質問された時のことを思い返す。自分は……「恩返しをするため」、「お手伝いを通して、夢を見つけるため」。そう答えた。そう考えると、あまりにも漠然とした目的だった。もっと具体的な目的を掲げた子がたくさんいるはずだ。リリィの胸の内で、一気に不安の渦が巻き起こる。
「もちろん、礼儀が身についているかが第一の条件だが……やはりみんなは優秀だ。これについては、心配しなくていいよ。」
リリィはその言葉に、少しだけ安心する。
「ハッハッ……この結果は、分かっていたよ。みんなは、お互いを支え合い、寄り添い合うことを大切にしてくれている。これは、この孤児院の、最も大切な、根幹を支える理念だ。これを通して生活することで、みんなは、自然と礼儀を学ぶことができたのではないかな。」
リリィはまた、質問を思い返す。礼儀について質問された時に思い浮かべたのは、リーベルや、ヴィオレッタ先生のお話だった。リリィは自然と、この孤児院の思いやりを学んでいたのだ。
「『目的』の質問を入れさせてもらったのは、『礼儀』を問うだけでは、十分に人数を絞れないだろうと思ったからだ。これはあえて、事前には伝えなかった。みんな、すまなかったね。」
リリィは息をのんだ。
ふとリーベルの方を見ると、リーベルもなぜかドキドキしているようだ。両手を胸の前で組み、目を瞑っている。
「ど、どうしたの?リーベル…」
「えっ!あっ、ごめん……お話しを聞いてたら、不安になってきて……リリィがお屋敷に行けますようにって、祈ってたの。」
「フフッ、リーベル……ありがとう。」
リーベルは再び目を閉じる。院長先生は、子どもたちを見渡しながら、静かに言った。
「では、これより……お屋敷に一時的に移る子を、発表するよ。」
その瞬間、リリィの心臓が大きく跳ね上がる。手は、無意識に膝の上でぎゅっと握りしめられていた。
心臓の鼓動が耳の奥で響く中、院長先生の落ち着いた声が静かに告げる。
「まずは、男の子から発表するよ。」
息をのむ音が、あちこちから聞こえた。
「まず……アンドリュー。」
一人の男の子が立ち上がる。背筋が伸びていて、どこか誇らしげな表情をしていた。
「クラージュ。」
次に呼ばれたのは、元気のいい少年だった。彼は勢いよく立ち上がると、周囲の子どもたちと目を合わせ、ニッと笑う。
「ジャスティン。」
やや緊張した様子で立ち上がる少年。手をぎゅっと握りしめながら、院長先生の方をじっと見つめている。
「フィデル。」
最後に呼ばれた少年は、落ち着いた動作で立ち上がった。表情にはあまり感情が見えなかったが、内心はきっと、驚きや喜びがあるのだろう。
男の子たちの発表が終わり、次に院長先生の視線が、女の子たちの方へと向けられる。
「次に、女の子の発表をする。」
リリィは息を止めた。
「アルメリア。」
美しい金髪の女の子が立ち上がる。彼女は深くお辞儀をすると、すっと背筋を伸ばした。
「カリタス。」
呼ばれた少女は、一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに立ち上がり、小さく頷いた。
「フリーシア。」
次に呼ばれたのは、控えめな雰囲気の女の子だった。彼女は緊張した面持ちで、ゆっくりと立ち上がる。その所作は、どこか優雅に見えた。
そして──
「最後に、リリィ。」
一瞬、時が止まったように感じた。
自分の名前が呼ばれたことが信じられず、リリィは目を瞬かせた。
(……わたし?リリィって……言った?)
隣にいたリーベルが、そっとリリィの手を握る。その温もりでようやく、現実を理解した。
リリィはゆっくりと立ち上がる。すると、祝福と羨望の眼差しが集まるのをはっきりと感じる。心臓が強く脈打ち、足元が少しふわふわとした気分だった。
けれど──
リーベルが、小さく微笑みながら頷いた。
それを見て、リリィは少しだけ自信を持って、まっすぐ前を向いて、礼をした。




