028 揺れ落ちる白蝶
リリィとリーベルは、ただひたすらに泣き続けた。お互いを抱きしめ合いながら、涙が枯れるまで、心の奥にあった寂しさや悲しみをすべて押し流すように。
そんな二人の泣き声を聞きつけたのか、廊下から小さな足音が近づいてきた。
「リーベルちゃん?大丈夫?」
扉の向こうから、不安げな女の子の声がする。
リーベルは涙で濡れた頬を拭いながら、震える声で答えた。
「……うん、大丈夫……」
リリィも涙を拭き、少し体を離す。
しばらく扉の前で迷うような気配があったが、やがて女の子は「そっか……無理しないでね。」と言い残し、廊下を去っていった。
部屋の中に、再び静けさが戻る。
リーベルは赤くなった目を伏せながら、ぽつりと呟いた。
「……こんなこと話しちゃって、ごめんなさい……」
リリィは、ゆっくりと首を横に振った。
「どうして……謝るの?」
「……わたし……こんなこと、人に話したことなかったの。話すつもりもなかった… なんでリリィに、こんなこと言っちゃったんだろう……」
リーベルは、ぎゅっとシーツを握りしめながら、自分自身に問いかけるように呟いた。
リリィはそんなリーベルの姿を見て、胸がじんと温かくなった。
今まで誰にも話せなかったことを、自分には話してくれた。心の奥深くにあった、本当の気持ちを打ち明けてくれた。
それが、たまらなく嬉しかった。
「リーベル。」
リリィは、もう一度そっとリーベルを抱きしめた。
「わたしに話してくれて、ありがとう。」
リーベルの肩が、再び小さく震えた。
リリィは続ける。
「リーベルが一番、心の奥で秘密にしてた気持ちを、わたしに教えてくれた。それって、わたしにとっては……すごく幸せなことだよ。」
そしてリリィは、少し照れくさそうにしながらも、まっすぐに言葉を紡いだ。
「だから……改めて言うね。」
リーベルの手をそっと握りしめる。
「わたしたち、友達になろう。」
リーベルは、一瞬呆然としたような顔をした後──
ふわりと、涙混じりの笑顔を浮かべた。
「……うん。」
その返事が、どこまでも嬉しくて、リリィも思わず微笑んだ。
二人の手は、しっかりと繋がれていた。
リリィとリーベルは、静かに手を握り合ったまま、しばらく言葉もなく寄り添っていた。さっきまで涙に濡れていた空気は、どこか温かく、優しいものへと変わっている。
リーベルが、小さく息をつく。
「……ずっと、友達でいてくれる?」
その声は、とても頼りなく、不安を滲ませていた。リリィは少し驚いた。
──リーベルって、こんなに寂しがり屋だったんだ。
いつもどこか落ち着いていて、優しくて、大人びていると思っていたけれど……
本当は、人との距離が遠くなってしまうことが、ずっと怖かったのかもしれない。
リリィは、少し強くリーベルの手を握る。
「もちろんだよ。」
「……一緒に遊べないし、ご飯は食べられないし、それに……。ヴェルメイン先生のことも……」
「…大丈夫。もし……本当に、もし、わたしとリーベル、どちらかの恋が叶ったとしても……わたしは、友達でいたい。リーベルはずっと……わたしの、憧れだもん。」
まっすぐな瞳で、はっきりと答える。
「ずっと友達。絶対に、離れない。」
リーベルもまた、まっすぐリリィを見つめた。
そして、ふっと笑う。
「……そっか。リリィがそう言うなら、なんだか信じられるかも。」
いつもより少しだけ、柔らかい笑顔だった。
リリィは、なんだか胸がくすぐったいような、不思議な気持ちになる。それと同時に、リーベルが見せた寂しがり屋で、気の弱い一面が、とてと愛おしく感じられた。
──リーベルとは、もっともっと仲良くなれる気がする。
そんな確信が、リリィの心の中にじんわりと広がっていくのだった。
……その後しばらく、どこか照れくさそうにしていたリーベルは、置いてあった植物学の入門書を、突然手に取って読み始めた。
「……ハァ。」
しばらくした後、少し首を傾げながらリリィを見つめる。
「そういえば……どうしてこの部屋に来たの?お勉強だけ?」
その問いに、リリィは一瞬言葉を詰まらせた。
そうだ。本当は、計算のお勉強をするために来たんだった。
でも、それだけじゃない。
「もしかして……本当にわたしとお話しするため?」
リーベルが、少しからかうように微笑む。
「……あのね。」
リリィは、小さく息を吸って、言葉を紡ぐ。
「旦那様……ヴェルメイン先生への、恩返しのことで、話しに来たの。」
リーベルは、一瞬驚いたように目を瞬かせた。
「……どう?考えは、出た?一緒に……花壇のお花、渡す?」
「……ごめんね、リーベル。わたしは……違う方法がいい。」
リーベルは目を見開き、本を置く。
「……お花じゃ、だめ?」
「あっ、ち、違うの!リーベルは、お花で恩返しするのが一番だと思うよ!でも……わたしが、リーベルの育てたお花で恩返ししちゃったら……わたしが、恩返ししたことには、ならないんじゃないかなって……思ったの。」
「……」
リーベルは黙って俯く。
「…だから、リーベルはお花で、わたしは、別の方法で恩返ししたらいいんじゃないかって……思ったんだ。」
リーベルは少しの間、迷うように目を泳がせる。二人一緒に、同じ方法で恩返しをしようと思っていたはずだ。それぞれ別の方法でとなると、心細いのだろう。
「……どんな、方法なの?」
「……わたし、ね?リーベルを見てて、思ったの。」
リリィは、そっとリーベルの目を見つめる。
「リーベルは、自分の夢に繋がる方法で、旦那様に恩返ししようとしてる。わたしも、そうしたい。」
リーベルの表情が、少し驚いたように揺れる。
──わたしも、自分の夢を見つけて、それを通して恩返しがしたい。それが、本当に意味のある恩返しになる気がするから。
「だから、まずは夢を見つけることから始める。」
リリィは、しっかりとリーベルの瞳を見つめながら、そう宣言した。
すると、リーベルはふっと笑った。
「……そっか。それ、すごくいい考えだと思う。」
リーベルは、優しく微笑んで、リリィの手をそっと握る。
「リリィの夢が見つかるように、応援するよ。」
その言葉に、リリィの胸が温かくなる。
「ありがとう、リーベル。」
二人は、そっと微笑み合った。
リーベルは、リリィに優しく問いかける。
「……リリィは、少しでもやりたいことって… あるの?」
リリィは、その問いに少し考え込む。
「やりたいこと……。」
自分の中にある思いを、言葉にするのは簡単ではなかった。けれど、さっき旦那様の前で決意したばかりだ。
──わたしの今一番やりたいことは、旦那様に恩返しすること。
そのためには──
「……旦那様の役に立つこと。」
リーベルが、優しく微笑んだ。
「そっか。フフ……本当に大好きなんだね。リリィらしいよ。」
「や、やめてよ……」
「フフッ、照れなくていいよ。わたしだって……そう思ってるし。でも……ごめんね。わたしはもう、ほとんど諦めちゃってるの。先生の役に立つなんて… ましてや、恋人、なんて……こんな体じゃ……」
「リーベル……」
「……いいの。諦めなきゃいけないの。こんな辛い思い、し続けたくないから……」
リーベルは本当に悲しそうな顔をしている。先生と子ども、貴族と元奴隷、年齢差、そして不自由な身体。その全てがリーベルとヴェルメイン先生の間に、大きな壁となって立ちはだかるのだ。
それはリリィにとっても、同じことだった。身体はリーベルよりも自由ではあるが、年齢差はリーベルよりも大きい。そう思うと、自分もいつか、諦めなきゃいけない時が来るのかと考えてしまう。
でも、リーベルは……まだ諦めきれていない。ついさっきも、わたしとリーベルが、恋のライバルとなってしまっていることを、少なからず気にしていた。わたしも、それが気になっていた。いつかそのせいで……友達の関係が、壊れてしまうかもしれない。
「……そんな顔しないで、リリィ。」
リーベルはそっと、リリィの頬に手を当てる。
「わたしね、今、決めたよ。リリィのこと、応援したい。…昨日は、諦めなきゃいけないとか言っちゃったけど……リリィには、諦めて欲しくない。」
そう言うと、リーベルは少し考え込むように視線を落とし、手を下ろした後、ふっと顔を上げる。
「リリィ……先生を、幸せにしてあげて。」
不意な言葉に、リリィは困惑する。
「えっ……な、何を……」
「……わたし……諦める。先生のこと……お花で、恩返しをして。それで……もう、おしまい。」
「リーベル……そんな……ダメだよ!わっ、わたしが言うのも、ヘン、だけど……それじゃ……!」
「いいの。わたしには、縁がなかった……それだけ。お花で、心を込めて恩返しをして……この恋心は、リリィに託すよ。」
リーベルの目は、とても悲しそうだ。でも、その中に、強い決意を感じる。
「しっかり勉強して……身体も鍛えて、立派なお花屋さんになる。その方が……きっと先生は、喜んでくれる。」
「……リーベル……」
リーベルは再び、リリィを抱きしめる。
「もう、辛いの……!先生に会う度に、ドキドキしては悲しくなって……それに、リリィのこと、恋敵だなんて思うの……やだよ……」
リーベルは懇願するように、力強く抱きしめながら言う。解放されたいという思いが、とめどなくリリィに流れ込んでくる。もはやリリィは、その想いを受け止める他なかった。
「お願い……受け止めて……」
「……分かった。」
リリィはリーベルの背中にそっと手を当て、優しくさする。
「頑張るよ……わたし……」
「お願い……っ」
リーベルの顔は見えない。でも、身体が震えている。リリィはそのまましばらく、リーベルの背中を優しく撫で続けた。
失恋……それはあまりにも辛いのだろう。いくら叶わない恋だと分かっていても、手放したくない。それは、失恋の痛みを、経験したことがないとしても、分かってしまうからだ。
それでもリーベルは、手放すことを選んだ。恋をしていることで感じる苦しみが、失恋の痛みを、上回ってしまったのだろう。
──またしばらく時が過ぎる。リーベルの震えはもう止まっていた。すると不意に、抱きしめ合ったまま、リーベルがリリィの耳元で口を開く。
「ねぇ……聞いて?」
「なに…?」
「先生、ね?たまに……すごく、辛そうな顔をすることがあるの。わたし、何回かそれを見たことがあって……」
そんなこと、知らなかった。旦那様はいつも、穏やかな表情を崩さない。ナイフが刺さっていた時でさえ、余裕そうな表情を保っているように見えた。
「一回だけ、ね?大丈夫ですかって、言ってみたの。でも、先生は……すぐに表情をいつもの穏やかな顔に戻して、『大丈夫だよ。心配かけてすまないね。』って……言ったの。」
「そう、なんだ……」
「うん… 多分……わたしじゃ、その、先生の心の奥の苦しみを、取り除いてあげることはできない。そう思った時から、もう……ほとんど、諦めてたの。」
(そんなことが……それに、リーベルに……できない?それなら、わたしだって……)
「……リリィなら、できると思うんだ。」
「えっ、なっ、なんで……」
「だって……わたしの、一番の秘密、リリィは、たった三日で、引き出しちゃったんだもん。」
「……」
リーベルは、わたしと似ている。育ち方も、先生への想いも、悩みも……一番の秘密でさえ、自分にも当てはまることだった。きっとリーベルの秘密を引き出せたのは、深い「共感」のおかげだろう。でも……
わたしと旦那様は、何もかもが違う。生まれも育ちも、考え方も、価値観も……わたしが、旦那様のようになれるとは思えない。
「わたしは……旦那様と、あまりにも違いすぎるよ……。それに、旦那様に解決できない、ことを……わたしが……」
「だからだよ、リリィ。」
「……え?」
「リリィは、先生とは違う。だから、先生に寄り添ってあげられるの。先生はお金持ちだし、たくさんのすごい人たちと知り合いだし、たくさんの知識がある。それでも、どうにもならないこと……誰にも、言えない秘密……リリィなら、教えてもらえる気がするんだ。」
リーベルはそう言って、力強くリリィの目を見つめる。
「ごめん、わたしもよく……分かんないけど、ね?リリィは、先生も、わたしも、持っていないものを持ってる。そう感じるの。」
リリィの胸が、温かくなる。
「フフ……だから、絶対お屋敷に行ってね。」
リリィはハッとした。そうだ、お屋敷……。お屋敷に行ければ、何か旦那様の秘密について、知ることができるかもしれない。
「うん……ありがとう。」
リーベルは再び微笑んでから、顔を下げる。そして顔を上げ、ふと別のことを思い出したように尋ねた。
「……そういえば、話し合いってどうだったの?」
リリィは、一瞬考え、少し眉を下げる。
「…話し合いじゃなかったの。希望した人が多すぎたから、最低限の礼儀があるかどうかの、試験になった。」
「試験?」
「うん。旦那様とお話しして、質問に答える形で……。」
リーベルが、興味深そうに身を乗り出す。
「それで……どうだったの?」
リリィは少し視線を落とし、指をぎゅっと握る。
「……あまり、自信はないかも。でも、正直に答えたよ。」
リーベルは、それを聞くとまた微笑んだ。でも、その目は少しだけ悲しそうだった。
──本当は一緒に行きたい。そんな思いが伝わってくる。リーベルはきっと、わたしなんかよりも礼儀作法について詳しいはず。諦めてさえいなければ、お屋敷に行ける可能性は高かったはずだ。
けれど、リーベルはそれを口にすることはなく、ゆっくりと言った。
「大丈夫、リリィなら絶対行けるよ。」
その言葉に、リリィの心が少しだけ軽くなる。
「……うん。」
リーベルの励ましを胸に、リリィは自分の未来を信じることにした。




